オイゲン・ヨッフム

交響曲第1番ハ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 シュターツカペレ・ドレスデン

交響曲第2番ハ短調
 バイエルン放送交響楽団
 シュターツカペレ・ドレスデン

交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
 バイエルン放送交響楽団
 シュターツカペレ・ドレスデン

交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
 シュターツカペレ・ドレスデン

交響曲第5番変ロ長調
 バイエルン放送交響楽団
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(64)
 フランス国立管弦楽団
 シュターツカペレ・ドレスデン
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(86)

交響曲第6番イ長調
 バイエルン放送交響楽団
 シュターツカペレ・ドレスデン
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

交響曲第7番ホ長調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(70)
 シュターツカペレ・ドレスデン
 フランス国立管弦楽団
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(86)

交響曲第8番ハ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 シュターツカペレ・ドレスデン
 バンベルク交響楽団
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

交響曲第9番ニ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(64)
 シュターツカペレ・ドレスデン
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(77)
 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

 私が持っているヨッフム指揮のディスクは全てブルックナーで、ここに挙げた以外にも宗教曲集4枚組がある。カラヤン以上に「特に好きでもない指揮者」にもかかわらず、いつの間にかカラヤン以上の22種類もの交響曲を所有することになってしまった。カラヤン以上によくわからん人でもある。
 宇野は(ベートーヴェンと同様に)ブルックナーにおいても流麗な演奏を「きれいごと」で片付けたがる傾向がある。一方で、フルトヴェングラーのようにテンポを大きく動かす演奏スタイルにも「きわめて矮小で貧しい人間界のドラマになってしまう」と否定的である。ところが、マタチッチが同じようなテンポの急変を行っても「ブルックナーの本質を掴んでいる」いう理由で可なのだという。なんじゃそりゃあ。ヨッフムも彼によれば同タイプの指揮者に属するらしく、「本質を逸脱していない」「損なっていない」などとして肯定的に評価している。これも見事なダブル・スタンダードであるが、じゃあ「本質」って何なのさ?
 彼はこの「本質」という言い回しも「精神性」に負けず劣らずお好きなようで、あちらこちらで見かけるが、どうやらこれは原因にも結果にも使える便利な単語らしい。

「○○は△△の本質を掴まえているから見事な演奏をする。」
「○○の演奏は見事である。△△の本質を掴まえている。」

 一字一句同じというわけではないが、評論にはこの両パターンが顔を見せる。「精神性」と同じく、実体を明らかにしないことで使い分けを行うという実に高度なテクニックである。これを使えば「好き嫌い」を表に出さずに済むところも「精神性」とソックリである。(いくら何でも循環論法に陥ったりすることはないようだが・・・・「△△の本質を捉え切っている○○の演奏だけに、△△の本質を損なっていないのはさすがといえよう」みたいな。こんなの書いたら「一発レッドカード」、いや「即リジェクト」だわな。)
 またやってしまった。が、あんな贔屓の引き倒しみたいな褒められ方ではマタチッチやヨッフムも浮かばれまい。私はむしろ「本質無視」がヨッフムの真骨頂ではないかと思っている。「本質? そんなんどうだってええやんか」とばかりに自分の思ったとおりにオケに弾かせているという印象を受けるのだ。「自然体」よりも「作為的」に近い。
 ここからは指揮者の成長についてヴァントとヨッフムとを比較してみたい。指揮者に限らず、人間という生き物は、肉体はそれこそ成長期には筍のごとくグングン成長するが、内面的にはゆっくりとしか成長できないものだと思う。ある瞬間に、「それまでの限界をとうとう打ち破った」「これからもっともっと大きくなれる」と思えたとしても、冷静に立ち返ってみると10のマイナス何乗しか大きくなっていないことに気が付く。これをさらに植物細胞に準えてみる。植物の細胞は固い細胞壁に取り囲まれているが、何かの拍子で(リグニンを溶かす物質を処理するなどして)壁が柔らかくなると見かけ上は大きくなるかもしれない。が、中の細胞質は急に増えたりしないので時間が経てばやがて元に戻る。中身をジワジワと充実させることによって固い壁を少しずつ押しのけ、体積を増やしていった。これがヴァントの戦略である。だから(彼の欠点とされた)「窮屈感」が常に付きまとっていた。これに対して、ヨッフムのやり方は殴るわ蹴るわの乱暴狼藉によって壁をボコボコにして、一時的でもいいからとにかく大きくなろうとしたみたいである。中身の増加が追いつかないのでどうしても隙間ができる。浸透圧の授業で出てくる「原形質分離」である。彼の音楽から時に感じられる「スカスカ感」の実体はこれだと思う。
 もうちょっと続けてみる。「究極!クラシックのツボ」(許光俊編著)で田村和之というライターが指揮者を野球の投手に喩えていた。「ショルティの剛速球はバットに当てさえすれば勝手に場外ホームランになってくれることがわかる」などと軽々しく扱っていたが、彼の曲者ぶりに戸惑ってばかりいる私としては「そんな簡単にいくんかいな」と嫌味の一つも言いたい気分である。(追記:確かにショルティが投げるのはファストボール系には違いないが、回転の良いいわゆる「直球」ではなくて、打者の手元で微妙に変化する「クセ球」ではないかと思う。だから、MLB挑戦1年目の日本人選手が必ずといっていいほどカットボールやツーシームに苦しむのと同じく、私も芯を外されて凡打の山を築いてしまうのだ。)ただしアイデアとしては面白い。ヴァント、チェリビダッケ、カラヤンは特徴の違いこそあれ最初から技巧派である。ヴァントはコーナーワークと配球の組み立てで勝負するタイプ。カウント2−3での外角スライダーで打ち取るところから逆算して、初球の入り方を決めるような感じ。「捨て球」「見せ球」は使わず1球1球に全力を注ぎ込むタイプのチェリは、とにかく球のキレの良さが身上。相手が待ち構えていても落差の大きいフォークボールや高速スライダーで三振が取れる。カラヤンはどんなフォームで放っても外角低めギリギリに決まるようなコントロールが身上。堅実な内外野をバックに打たせて取るタイプかもしれない。彼らは入団後に体力を付けて球速が増したり、新しい球種を覚えたりすることで名投手へと成長していった。これに対し若い頃のヨッフムは剛速球だがノーコンのピッチャーで、極端な例を出して失礼だが真っ先に思い浮かぶのは番場蛮である。60年代の演奏であるACOとの5番やBPOとの8番などはまさに「暴れ馬」「じゃじゃ馬」という形容がピッタリだし、75〜80年(←意図的か偶然かは知らないが、カラヤン&BPOの全集とほぼ同時期)に渡るシュターツカペレ・ドレスデンとの全集ですら、時にムチャクチャやっているようなところがある。彼が投球術というものを身に付けるようになった、じゃなかった、堂々としたブルックナーを聴かせるようになったのは最晩年になってからである。
 ヴァント→チェリと読んでこられた方には、私がカラヤンのページ執筆に苦心惨憺した様子が目に浮かんだものと想像するが、ヨッフムについてはそれ以上に「いったい何を書いたらいいんだぁ?!」と苦境に陥ることは目に見えているので、これから20種類分のディスク評を書くのは非常に気が重い。ヨッフム、ベーム、マタチッチのように私がクラシックを聴き始めた頃には既に世を去っていた指揮者達と、まだ存命&現役だったヴァント、チェリ、カラヤン等とを比べれば、当然ながら共感の度合いはまるで違うのだ。

追記:ディスク評執筆中につい出来心で7番VPO盤を入手してしまった(トホホ) 。よって2004年7月現在で23種類所有である。

2004年8月21日追記:今月18〜20日まで、ほぼ4年ぶりに名古屋に出張した。帰る前に何軒か中古屋に寄ったところ、私が入手した直後、あるいはネット通販に注文中の品が数多く見つかり地団駄を踏んだ。(嫌がらせとしか思えなかった。)ブルックナーでは特にめぼしい品は見つからなかったが、今池にある老舗(CD時代初期から存在)にてパリのシャンゼリゼ劇場におけるフランス国立管弦楽団による演奏会のライブ録音3枚組を購入した。このうち1枚はワルターのモーツァルト「プラハ」交響曲とブラームス2番で、残りの2枚はヨッフム指揮によるブルックナー5&7番である。このディスクの存在は以前からネットオークションで知ってはいたが、値がそこそこ上がるのとヨッフムのブルックナーをこれ以上増やしたくないのとで手を出す気にはならなかった。けれども、いくら何でも税込1050円で売られていては見逃すわけにもいかない。よって、これを執筆している時点で25種類である(トホホのホ)。ところで、輸入盤コーナーにはいわゆる「リアル・ライヴ」のCD-Rが大量に売られており、食指を動かされたのだが結局何も買わなかった(理由は既述)。そんなに安くもなかったし・・・・それにしても、中古屋が「青裏」(「裏青」という言い方は「ウラジロシダ」みたいでキライ)を堂々と売るようになるとは! (たしか4年前には見られなかった。)時代も変わったものである。(←なんじゃそれ?)

2005年8月追記
 今年10月26日に「20世紀の巨匠シリーズ オイゲン・ヨッフムの芸術」としてブルックナー旧全集から12356番(定価1200円、いずれも単品CDとしては初発?)が分売されることとなった。このうちネット上での評価が非常に高い6番(浅岡弘和も「せめて1、6、9ぐらいは単発してくれないだろうか」と自身のサイトで述べていた)は出たら絶対買うつもりであったが、他に浅岡が「この演奏は抜きん出ており疑いもなく彼のベストワンであろう」とまで評価していた1番も(3番以前の曲には手を出さないという基本原則に背いてまでも)買う気になっていた。さらにhmv.co.jpにて「ひんやりと湿った感触のある第3が印象的で昔から気に入ってます」というのユーザーレビューを読み、それも購入リストに加えることにした。そうなってみると、生協価格で15%引きでも3枚で3000円ほどになってしまう。また、2番はともかくとして45番が欠けることになるのも歯抜けのようで気分が悪い。さらにバイエルン放送響による5番を持っていないことまでが気になってきた。こうなると始末が悪い。(追記:後に世評の高いアイヒホルンのCapriccio盤をamazon.comのz-shopで発見し購入。他にヴァントが82年に振った海賊青裏も出ているようで気にはなっている。)で、全集購入も視野に入れたのだが、同じく廉価ボックスでも新全集(EMI)の倍ほどするし、ヤフオクでも諸経費込みで5000円近くかかる。ところがamazon.comのMarketplaceにて$28.08で売られていたのを発見、即刻買い注文を入れた。Shipping & Handling(配送料と手数料)を加えても$33.57、これなら7〜9番のダブりも我慢できる。ということで、急遽3〜6番までのディスク評を執筆しなければならない事態に陥ってしまった。なお、一挙に6種類が加わったことにより現時点ではヴァント(目次ページに載っているうち1種はテレビ放送の録画なのでディスクとしては31種類)と肩を並べているが、あちらにも間もなく9番1種が加わる見込みであるから束の間の同点1位ということになる。
 ところで(以下余談)、アマゾンでもamazon.de(独)だけは許し難いことがある。DHLエクスプレスメールによる発送のため送料だけで何と14ユーロも取られてしまうのだ。(不十分なリーディング力のため四苦八苦しながら他の方法が選べないか捜してみたがダメだった。amazon.frはamazon.com同様にフツーの航空便(ちなみにUSAからCD1枚送る場合はUS$3.5)のため納得のいく送料だし、amazon.co.ukも少々割高感はあるけれども、そこまでアコギではない。)実は廃盤で入手困難なディスクの中古が10ユーロで売られていたので慌ててカートに突っ込んだものの、品物よりも高い送料を払うのがアホらしくて注文確定する気にはなれないでいる。躊躇している内に無くなってしまうのは分かり切っているのだが・・・・

2005年9月追記
 上記の旧全集ボックスが届き、未所有だった6番までを当然ながら初めて聴いた。これから3〜6番のディスク評を執筆するが、特にページは設けないものの1番についても少し書いておきたい。浅岡が「ヨッフムのDG盤が1枚あれば事足りる」と宇野功芳のような口の利き方をしていたけれども、最初から最後まで若々しさ全開ながら粗っぽさは微塵も感じられず、確かに素晴らしい演奏であると思った。ただし、彼がフィナーレのコーダについて「クナを真似たのかヨッフムとしては極めて異例の『超常的』解釈があるため、後期の作に匹敵する深さ、比類ない巨大さを生み出しており」と書いていたのはよく解らなかった。また、それほど聞き込んでいる曲ではないだけに他盤と比べてどこがどう優れているのかも言えないが、とにかく1番を聴いて初めて感銘を受けたのは事実である。ついでながら、2番も退屈することなく聴き通すことができた。しかしながら、これが(ノリントンのベートーヴェン全集を聴いた時と同じく)「初期交響曲開眼」の切っ掛けになるかどうかは今のところ何とも言えない。(これでダメだったら、おそらく永久に縁がないままで終わってしまうであろう。)

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