交響曲第9番ニ短調
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
64/12/05
Deutsche Grammophon 469 810-2(全集)

 何度も書いているように、この曲の第1楽章は宇宙の始まりを表していると私は考えている。ところで、冒頭はゆっくり開始しても「ビッグバン」に向かって次第にテンポを上げていく指揮者がいるが、それはおかしいと思う。(「インフレーション」にしても、ひたすら空間だけが大きくなるだけの現象であり、我々が通常考えるような時間というものはまだ存在していないのだから、テンポは変えるべきではない。)このような演奏は全くもって興醒めであり、せいぜいこんな想像(妄想)しかできない。9番の目次ページ下に書いたのとはえらい違いだ。
(警告:万一あなたが今コンビニの弁当などを喰らい込みながらディスプレイを眺めているとしたら、ここから先は読んではいけない。)

 ブルックナーは今日こそはとばかりに第9交響曲に取りかかったものの、どうしても書き出しがうまくいかない。書いては破り書いては破りの繰り返し。ところがどうしたことか、急にお腹がゴロゴロと鳴り始めた。腸内にガスが溜まっているのかスカ屁が何度も出る。「こりゃいかん! 今朝食った団子と薫製がやはり拙かったのかのう。ビールで消毒できると思っとったが甘かったか?」彼は昨晩の食べ残しを居酒屋から持ち帰ったことを後悔する。自分の貧乏性にも腹を立てるが後の祭り。とうとう下腹部に痛みまで覚えるようになる。「こりゃマジでヤバい」と慌ててスリッパを履き(全裸で作曲していたのなら服も着なければならなかった)、部屋を飛び出す。バタバタと大きな足音を立てて(あくまで狭い歩幅を保って)廊下を走り、トイレに駆け込む。彼が便器の上でパンツを下ろしたのと、黄色いゾル状の「中身」が大音響とともにジェット噴射されたのとはほぼ同時だった。出るものが出切ってようやく落ち着いた。「やれやれ、何とか間に合ったわい」と胸をなで下ろす。次の瞬間、彼は閃いた。思わず立ち上がって「できたぁ!」と大声で叫んだに違いない。あるいは「ユーレカ!」だったかもしれないが、とにかくこの時に第1楽章の第1主題提示部までの骨子は出来上がったのである。(曲のどの部分が上記駄文の何を描写しているかは読者の想像にお任せする。)

 汚い話でスマン。要は、本来は壮大かつ神秘的であるはずのこの曲冒頭部分に対しても、演奏が拙ければこのような世俗的で卑小なイメージしか抱くことができないということが言いたかったのだ。(ヨッフムには悪いが、この文章を執筆するきっかけを作ったのは彼の演奏である。私は彼の9番のディスクを4種類所有しているが、何れも途中からセカセカテンポになって私を失望させた。)

 さて、当盤の印象は先にSKD盤のディスク評ページに書いたものと変わらない。解釈も演奏時間もほとんど同じなのだから当然だが。(第1楽章2分21秒頃に間が入るところまでピッタリ同じだ。)ヨッフムの芸風とこの曲との相性は最悪であるように思う。晩年のMPOとの演奏では多少は関係修復された感がなくもないが。(←なんちゅう傲慢発言)
 荘重な雰囲気で始まった第1楽章に「オオッ、これは」と期待させられたが、1分40秒頃から危惧していた通りせわしなくなって雰囲気ぶち壊し。コーダの早足にもガッカリ。(ただし「ダダーン」が聞こえる分だけSKD盤よりポイントは高い。)何せテンポがフラフラするので、BPOの重々しい響きにもかかわらず「剛直」というイメージは持てなかった。ブル9専門サイトの作成者は「ヴァントがケルン放送響とのレコーディングに際してこの演奏を参考にした」などと書いているが、私には全く似ても似つかぬ演奏としか思えない。「ヴァントはそれを面白く、ドラマチックに奏でる」「ヨッフムは表面的効果を狙わず、時には一見平凡にさえ聞こえる場面があるほど謙虚」という評価も私の考えとは正反対だ。浅岡弘和が自身のサイトで「せめて1、6、9ぐらいは単発してくれないだろうか」と書いていたので期待とともに購入したのだが、私にはそこまで切に願うほどの値打ちがこの演奏にあるとは思えない。
 ところで、2年後に録音されたカラヤン盤よりも当盤の響きの方が分厚く、むしろカラヤンっぽく聞こえるのは非常に興味深い。これが唯一の収穫であった。エンジニアがクラウス・シャイベなのは同じだが、レコーディング・プロデューサー(ディレクターのことか?)はウォルフガング・ローゼとあり、カラヤン盤にあったハンス・ヴェーバーの名はない。「録音の魔術」というやつであろうか?

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