ヘルベルト・フォン・カラヤン

交響曲第1番ハ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第2番ハ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(70)←買ってはいけない
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(75)

交響曲第5番変ロ長調
 ウィーン交響楽団
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(76)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(80)

交響曲第6番イ長調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第7番ホ長調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(71)←買ってはいけない
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(75)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第8番ハ短調
 シュターツカペレ・プロイセン(44)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(57)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(75)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第9番ニ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(66)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(75)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(76)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(78)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(85)

 ベートーヴェンの時とはうって変わって、宇野功芳がカラヤンのブルックナーを評する時の歯切れの悪さはどうだろう。「普通の意味からすると、二つとも(註:フルトヴェングラー盤とカラヤン盤を指す)名演奏なのだが、前者はドラマティックすぎ、後者は素朴さを欠く。」 コソコソと申し訳程度に「素朴さを欠く」ときた。どんな意味であれ、「名演奏」以上に何を望むというのだろう?
 おそらく多くの人が気付いているとは思うが、「ベートーヴェンを感動的に指揮してくれないと、なかなか信用できない」という発言からも窺えるように、指揮者を評価する上でベートーヴェンという物差しに頼りすぎているところに彼の限界が見えてしまうのである。(最も重要なレパートリーであることは事実だが。)ベートーヴェンの演奏によって指揮者の格付け(序列化)を一度行ってしまえば、あとは非常に歯切れのいい評論が書ける。見かけ上は。しかし、何を格付けしたかといえば「精神性」「音楽性」「芸術性」といった具体性に乏しいものばかりであるから中身がない。(「骨粗鬆症評論」と形容したくなるほどだ。)これは致命的欠陥といえるのではないか? が、 ここで暴走してしまっては宇野ページの二の舞であるのでこれ以上は書かない、つもりだが・・・・・

 私がクラシックを聴き始めた当時(1986年)、唯一名前を知っていた(記憶の片隅にあった)指揮者がカラヤンである。とはいえ、彼が存命中なのか物故者なのかすら知らなかった。聴き始めが彼の全盛期と重なっておれば、ひょっとして熱心なファンあるいはアンチになっていたかもしれない。(彼が「帝王」と呼ばれていたことも、アンチ・カラヤンの評論家が何人かいることを知ったのも、かなり後になってからである。)ということで、カラヤンは特に好きでも嫌いでもない指揮者なのだが、ブルックナー以外も含めてディスクを数えてみたら48枚あった。購入理由が「中古屋でたまたま安いのを見つけたから」というのも少なくない。ベートーヴェンは全て交響曲で5枚持っている。が、宇野のページで述べたように、私はカラヤンのベートーヴェンには感心しない、というより好きではない。

> ところで、ベートーベンの5番(作曲者が自分で付けたもの以外の標題、
> 例えば「運命」「革命」「悲劇的」などは、僕は特定の意図がある場合を除
> いてなるべく使わないようにしています。)について、吉田秀和氏がNHK-FM
> 「名曲の楽しみ」のベートーヴェン・シリーズで述べたことが印象に残って
> いるので記します。第5を紹介した日、彼はガーディナーかブリュッヘン
> (どっちか忘れた)の演奏を取り挙げ、「この演奏を聴くと、我々がフルト
> ヴェングラーなどの演奏を通して抱いてきた重厚とか堂々としたというよう
> なイメージは、もしかしたら間違っていたんじゃないかと思う。」と述べま
> した。(たとえ過ちであっても潔く認めることを憚らない態度、僕は吉田氏
> のこういうところが特に好きです。)そして、全曲をかける前に「このよう
> な古楽器による演奏が盛んになる前に、既に同じような演奏スタイルを試み
> た例があった」として、カラヤン&ベルリン・フィルによる最後の録音の冒
> 頭部分を流したのです。吉田氏はさらに次のようにも述べていました。「こ
> れは現代オーケストラによる演奏だけれども、解釈は古楽器によるものと全
> く同じである。カラヤンのことを、特に彼が亡くなってからあれこれいう人
> がかなりいますが、(やや憤った口調で)それは間違いですよ!」僕は、あ
> の演奏はカラヤンの解釈とベルリン・フィルの重たい響き(&録音)がやや
> 噛み合っていない感じがして、それほど好きではなかったのですが、吉田氏
> の古楽的なアプローチという説明を聞いてなるほどと納得したものです。「テ
> ンポが速いだけの演奏」として切り捨てているだけの宇野氏よりも、吉田氏
> の方が演奏をより深く聴いていることは明らかです。(98/12/02)

 こんなことをKさんに書いていた。クラシックを聴き始めた頃、友人から5番と6番がカップリングされたカラヤン&BPOの83年盤を借りて聴いた。5番はまずまず聴けたけれども、「田園」はワルター盤とはあまりにも対照的にセカセカしたテンポが受け入れられなかったのである。(「カラヤンのベートーヴェンは田舎にスポーツカーで乗り付けたような嫌味な演奏」と書いていたのは誰だったか? ただし、私に言わせれば「『田舎を走るスポーツカー』を評論するのが仕事と違うんかい」で終わりであるが。)
 ベートーヴェンにのめり込むようになって全集をいくつか購入したことは別のページにも書いたが、ノリントンやブリュッヘンの演奏を聴いてみると、上には一応「なるほどと納得した」とあるものの、やはり快速テンポは古楽器オーケストラの軽快な響きにこそ相応しく、BPOの、というより「カラヤン・サウンド」ではもう一つ良さが出ていないように思った。例えばノリントン盤の5番は両翼配置ということもあるが、冒頭の主題をいろいろな楽器が交替で演奏しているのがわかる。手裏剣があちこちからゲリラ的に飛んでくるようでとても面白い。先述したカラヤンの83年盤ではそのようなことはない。
 私はスポーツカーで田舎を走っても別に悪くないと思う。(高速道路も顔負けという立派な広域農道だってある。)ただし、カラヤンのベートーヴェンはわざわざ重装備を付けた装甲車で圃場を走っている感じがする。やはりオンロードとオフロードにはそれぞれに相応しい車があるはずだ。さらに12468番などを聴くと、軟弱な湛水土壌すらも力ずくで進もうとしているかの印象を受ける。同じ農地でも水田と畑地では走行に適する農機は当然ながら全く異なる。(それでも「高性能の『カラヤンサウンド』はちゃんと走れるんだからいいじゃない」、さらには「そこがいいんじゃないか」という人もいるかもしれない。これ以上は「好きずき」の範疇に入るので言及しない。)私の好きな自転車に喩えると、スピードを出すのが得意なロードレーサー、長距離ツーリングに向くランドナー、峠越えならパスハンターというように、目的に応じて様々な種類があるにもかかわらず、カラヤンは1台の超高性能バイクでどこでもスイスイと走り抜けてしまっているようである。(私は琵琶湖一週も峠越えも全てプジョーのMTBなので親近感を覚える、わけがない。)さらに水陸両用で川も渡れるし、急な登りも電気モーターによる補助で楽々といった感じだ。これでは面白味がない。走っている本人は面白いかもしれないが、峠道ならそれなりに喘ぎ喘ぎしながら登ってもらわないとそれを見ている側は共感できないのだ。
 ここからテンポ設定の話に移る。ノリントンの全集は基本的に快速テンポである。ところが7番の第1楽章主部のテンポは他の曲ほど速くなく意外であった。クライバー&VPO盤に馴染んでいたため最初はもう一つ好きになれなかった。ところがブリュッヘンも同じく7番は速くなかったので「何で7番だけ?」と不思議に思った。ヴァントもここは堂々とやっている。クレンペラーは60年盤や68年盤も猛烈に遅いが、これは予想していたのでさほど驚きはなかった。けれども、彼をも上回るような超スローテンポでムラヴィンスキーが演奏しているのを耳にした時はさすがに仰天した。それ以降、理由はわからないまでも「ひょっとしたらこれが本来のテンポではなかろうか?」と考えるに至った。
 「構造って何やねん」でも書く予定だが、交響曲においては楽章内の部分部分だけでなく楽章間にもちゃんと関連性があるので、曲の「構造」を聴き手に理解してもらうためには、どの楽章も適切な(必然的な)テンポを設定しなければならないという考え方(構造主義?)がある。
 ここでいきなりヴァレリー・ゲルギエフに話を持っていってしまう。(彼の指揮によるブルックナーのディスクを持っていればそこに書くのだが、持ってないのだから仕方がない。)以下もKさん宛のメール(00/05/27)。

> CDJ4月号での渡辺和彦氏の「カリスマ虚名指揮者の時代」と題するエッセ
> イは非常に面白いものでした。マスコミが作り上げた80年代のカリスマ指揮
> 者である「あのトホホなシノーポリ」の後に君臨しているのは、ロシア人指
> 揮者ワレリー・ゲルギエフだということです。氏はゲルギエフの指揮したキー
> ロフ歌劇場公演を聴いて「下には下があるものだ」と思い、このエッセイを
> 執筆する気になったようです。(ちなみに、それまでの「下」、つまり「史
> 上最低」はクリスティアン・ティーレマン指揮のベルリン・ドイツ・オペラ
> 公演だそうで、彼は「カリスマ指揮者」としてシノーポリの後継者の座を一
> 時うかがいかけたものの、「賢明なファンによって早々に見破られてしまっ
> た」とのことです。)さらに、氏はこう続けていました。
>
>   ゲルギエフのことを「カリスマ指揮者」扱いしたのはいったい誰なのだ?
>  あのグシャグシャなチャイコフスキーの第5交響曲のライヴCDを聴けば、
>  その時点での彼の「実力」がわかりそうなものだ。
>
>  僕はゲルギエフ、それにティーレマンの演奏を未だ聴いたことがない (聴
> いたかもしれないが記憶に残っていない)ので、彼らのカリスマぶり、 じゃ
> なかった「トホホ」ぶりを確かめたいと思っています。
>  と書いている矢先、6月4日の「芸術劇場」(NHK教育)でゲルギエフ&
> ロッテルダム・フィル公演が放映されることを知りました。彼が「カリスマ」
> なのか「トホホ」なのかを見極める絶好のチャンス到来です。ちなみに、多
> くの評論家(キーロフ歌劇場公演にはクエスチョンを付けた評論家も含む)
> がこの公演には好意的であった模様です。
>
その後「芸術劇場」を観ての感想も送ったはずだが、送信簿を捜しても出てこなかった。ただし、メインとして演奏されたベートーヴェンの5番について言及し、「1つ1つの楽章はどれも決して悪い演奏とは思えなかったのだが、快速テンポでやりたかったのか、スローテンポで堂々とした演奏を繰り広げたかったのかが判らなかった」というようなことを書いたと記憶している。要は1楽章はやや遅め、2楽章はやや速めに振るなどしていたため、曲全体を貫くポリシーのようなものが全く見えない演奏だったのだ。シノーポリ亡き後、渡辺和彦は新たな飯の種としてゲルギエフに狙いを定めたのであろうか? それはともかくとして、私にとっても今のところ彼は「トホホ指揮者」である。
 閑話休題。ムラヴィンスキーのテンポ設定を正しいと仮定すると、名盤ランキングでは常に上位にあるクライバーの演奏も、第2楽章以降をそれこそ新幹線並の超特急テンポで演奏しなければ第1楽章とバランスが取れないということになる。カラヤンも同じである。もちろんこの前提には根拠がない。けれども、私が2種所有している4番の1楽章では、いずれも超ハイスピードで演奏しているムラヴィンスキーがあそこを遅くするのはよくよく考えてのことだと思う方が自然であろう。今ではクライバーとカラヤンの演奏が曲の上っ面を滑っているようにしか聞こえない。
 さて、後半は根拠薄弱の主張(こじつけ)まで持ってきてしまったが、カラヤンによるベートーヴェンの交響曲演奏では、曲想の違いに応じてスタイルを使い分けるということがなく、テンポ設定にも疑問を感じるというのが「感心できない」理由である。これに対して、ブラームスではそういった欠点があまり気にならない。4つの交響曲の特徴はかなり異なっている(はずだが、)にもかかわらず、どの曲のどの楽章でもフォルティッシモになると全く同じように重戦車の立てる地響きのような凄まじい鳴りっぷりである。けれども、あそこまで徹底してやられると文句を付ける気にもならない。それどころか、一つの道を究めた指揮者に対して賞賛の声すら送りたくなる。 楽章間のテンポの関係などどうでも良くなってしまう。(追記:朝比奈の目次ページに書いたが、このような誉め方をするのは結局最高とは認めていない場合である。)
 そしてブルックナーであるが、さらに気にならない。もともと全9曲(あるいは11曲)がベートーヴェンと比較すればはるかにモノトーンで書かれているため、ベートーヴェンでは欠点にしかならないカラヤンの「単調さ」が、ブルックナーではむしろプラスに作用するのではないか。また、「構造」がベートーヴェンよりガッチリしているため、テンポ設定に指揮者の裁量が入り込む余地が小さいことも原因ではないかと考えている。5番と8番で特に彼の持ち味が出ているように感じるのも、そしてその逆についても、「構造」と何か関係があるかもしれない。
 ブルックナーのページなのにこれで終わりではあんまりなので、もう少し書くことにする。浅岡はチェリビダッケのことを音を美しく磨くという点ではカラヤンと同じだと述べた。そうかもしれない。(ただ「音のドラマも全くない」はようわからん。彼の嫌いな宇野も「音のドラマ」を使っているが何が言いたいのか?)そうなると2人は今時の言い方をすれば「美音系」「磨き系」ということになるのだろうか? 特にシュトゥットガルト時代のチェリはテンポも速く、3番などはカラヤンとテンポも似ており、オーケストラの音色の違いや掛け声が入らなければ「似てるなあ」と思ってしまうかもしれない(ブラ1などもそう)。ところが、カラヤンが「ジャン」「グァン」とやるところでチェリは「フワン」と軟着陸したりする。カラヤンへの当てつけのように。「お前は何も解っちゃいないんだ」とでも言わんばかりである。そして、ミュンヘン時代のチェリはカラヤンとは似ても似つかぬものになってしまった。これに対して、ブルックナーに関して「カラヤンとヴァントは正反対」という意見をネット上で見たが、確かに「美音」と「構造」のどちらに重きを置くかという点で出発点は全く違う。ところが、出来上がってきた音楽はどちらもテンポは比較的速め、筋肉質というか鋼鉄のように頑丈な造りという点では似ているのである。
 生物進化の用語を借りれば、これら3人の指揮者の関係を「器官の相似と相同」に喩えることができるように思う。鳥類の翼と昆虫の翅のように別の器官が同じ機能を持つように変化する場合が「相似」、ヒトの手と鳥の翼のように起源の同じ器官が別の機能を持つように変化する場合が「相同」である。つまり、カラヤンとヴァントは「相似」、カラヤンとチェリビダッケは「相同」の関係にあると言える。(追記:鈴木淳史のページ作成中に、彼も「カラヤンとチェリビダッケの音楽的基盤は同根である」と書いているのを見つけてしまった。つまらん。)

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