交響曲第8番ハ短調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
88/11
Deutsche Grammophon POCG-20007〜8

 CDジャーナルのデータベースには「崩れる一歩手前」とあるが、すんでのところで踏みとどまっていると感じるのは翌年に録音された7番の方で、当盤には完全に崩壊してしまっているという印象を受ける。指揮者の統率力の衰え and/or オーケストラの技量の低下が原因だと思う。が、この演奏を聴いたムーティが「神の声を聴くようだ」と評したということだし、吉田秀和も「ところどころに綻びはあるものの、何とも言えない神々しさがある」というようなディスク評を朝日新聞に書いていた。私は今のところ、そういったものは感じ取れないでいる。私がまだ若すぎるのかもしれないし、チェリのページでさんざん書いた「随伴現象」が入っていないためかもしれない。あるいは、カラヤンが「ようわからん」型の指揮者であることと何か関係があるという気もする。つまり、彼はヴァントのように直線的に円熟に向かっていくタイプではなかったため、着地点の予想が全く不可能であり、それゆえヴァントの「ラスト・レコーディング」のページで書いたようなアンサンブルの乱れの先にある「何か」を聞き取ることができないのかもしれない。

余談
 当盤の解説を執筆した小林宗生は、「レコード芸術」編の「名曲名盤300」(93年発行)にてブルックナーの7番から9番までのベストスリーに、いずれもカラヤンのBPO盤とVPO盤を1種ずつ挙げるほどの「カラヤン大好きオヤジ」である。それはまあいいのだが、問題は推薦文である。以下は8番の書き出し。(ちょっと長い転載だが許せ。)

  カラヤンのウィーン・フィル盤は、カラヤンがウィーン・フィルから耽美的
 な美しさだけではなく、信じられないような迫力を引き出した名演で、すべて
 が厳しく聴き手に迫ってくる。また、洗練された中にも何処か素朴な味わいが
 見え隠れする演奏でもあり、最晩年のカラヤンがウィーンへと回帰したのが良
 く分かる内容を持っている。ベルリン・フィル盤もやはり想像を絶するすばら
 しさを持っており、その一音符たりとも疎かにしない集中力がもたらす緊張感
 はウィーン・フィル盤以上に圧倒的な迫力を持っている。三番目には・・・・

ところが9番の推薦文は、冒頭の「カラヤンのウィーン・フィル盤は」が「カラヤンのウィーン・フィルとの録音は」に変わるのと「美しさだけではなく」の後に読点が入る以外、最後の「持っている」まで全く同じなのだ。あまりにもお粗末な手抜き工事である。3番目が8番はヨッフム&SKD盤、9番がシューリヒト&VPO盤で、文章も全く違っているから、これは出版側のミスではない。このような「やっつけ仕事」と言われても仕方のないことを平気でやっている評論家の書くものは胡散臭くて信用する気には到底なれない。この「クラシック業界のムネオちゃん」も渡辺護と同様「カラヤン大好きっ子」のようであるが、ひょっとして彼らは荒俣育代が「クラシックB級グルメ読本」中の「クラシックの首を絞める者達」という長編(大力作)で批判の対象とした「グラモフォン・ライター」(DGの提灯記事担当)でもあるのだろうか?

8番のページ   カラヤンのページ