交響曲第7番ホ長調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
75/04
Deutsche Grammophon F35G-50386

 私が最初に買った7番のディスクである。(ハイティンクの498番が気に入っていたので、7番も出ていれば無条件に買っていたところだったが、まだCD化されていなかった。)番号からお判りのように、これはCDとしては初発盤である。「音楽の友」の新譜紹介コーナーで推薦盤として星1つが付けられ、「LP時代から名盤の評価の高かった演奏のCD化」などと書かれていたと記憶している。(当時、ウブな私は星2つの特薦盤は名演に違いないと決め込んでいたほどに音友誌のディスク評を信用していたのである。)それに釣られた訳であるが、「なるべく安価なものを買う」という方針に反してわざわざ3500円の当盤を購入したのかは今でもよくわからない。他に選択肢はなかったのだろうか?
 とはいえ、この演奏は決して悪くない。ヴァントNDR盤のページに書いた第1楽章の「構造無視」(6分11秒以降)は唯一いただけないが・・・・71年盤よりテンポが速いこともあって、響きは重厚であるが「アッサリ味」という印象を受ける。ラーメンに喩えたらトンコツと塩ぐらい違う。むさ苦しい71年盤、ヨレヨレの89年盤と比べると、淡々とした感じの当盤は完成度が最も高いと思わせるが、単独では入手困難な当盤をわざわざ求めるほどのことはないだろう。聴後の満足感は(先述した498番に比べたら)もう一つで、7番はその後長い間あまり好きになれなかった。それが曲との相性のせいなのか、演奏のせいなのかは今となっては確かめようがないけれども。(2007年3月追記:アダージョ3分過ぎでは金管の咆吼によって弦の厳かな主旋律がかき消されてしまっている。いかにもカラヤン・サウンドらしいと言ってしまえばそれまでだが、こういうバランス無視が嫌いな人にとっては絶対許せないだろうし、一部評論家が「構造に対する配慮の欠如」などと指摘したくなる気持ちも解らないではない。もちろん「精神性」云々は具体性皆無の戯言として却下するが。)
 ここで終わってもいいのだが、解説書についてコメントする。リチャード・オズボーンという人物が執筆したものが翻訳されている。2楽章の打楽器挿入に対して“適当でない”(gilt nicht)という書き込みがあったことを述べた後、このように書かれている。

 しかし、シンバルのクラッシュは、必ずしも陳腐ではない。
 たしかに、すぐれたブルックナー指揮者たちは、シンバルが
 “適当”か、あるいはそうでないかを見極める。

最初の文中にある「必ずしも」は、具体的な説明が一切ないので意味不明である。 次の文章も何が言いたいのかが全くわからない。ハース版をベースにしていてもシンバルを採用したカラヤンが「すぐれたブルックナー指揮者」であるというのなら、そのようにハッキリ書くべきである。ただし、それでは「陳腐ではない」のにシンバルを拒否した(ヴァントのような)指揮者はアホだと間接的ながら言ってしまうことにもなる。カラヤンは持ち上げたいけれども波風は立てたくなかったので、このようなボカした言い回しにしたのだろうか? あるいは、シンバルが演奏次第で「陳腐」にも「適当」にもなりうるということを述べたかったのかもしれない。それが「必ずしも陳腐ではない」の真意なのかもしれないが、そうだとしても説明不足の罪から免れることはできまい。
 オズボーンは本当にこんな曖昧なことを書いたのだろうか? そうだとしたらダメ評論家もいいところである。それとも訳者による勝手な「解釈」が加わっているのだろうか? “gilt nicht”の書き込みが必要なのは、もしかしたら訳文の方かもしれない。(というように、私も2通りの解釈を可能にするような主張によって逃げ道を残しておくのであった。)

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