交響曲第8番ハ短調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
75/01〜04
Deutsche Grammophon POCG-90058〜9

>>  何年か前にNHKか教育NHKで放送されたカラヤンの特集番組の
>> 中で、エンディングで誰かがそのようなことを言っていました。
>> 「彼にも苦手な作曲家はいました。モーツァルトとシューベルトです」
>>  特定の演奏を指して言った言葉ではないので、あくまでその傾向が
>> あったという程度のものなのかも知れません。

>  実は最近、吉田秀和氏の「世界の指揮者」を再読していて、カラヤンの項
> で「よく歌って、しかも、少しも力まず、無理しないというところから、モ
> ーツァルトやシューベルトでは、ときどき、ほんとうに神品といってもよい
> ような演奏がきかれることがある」という文章を目にしたので戸惑っている
> ところです。ただ、その文章の前に「近年(といっても文章の書かれた70年
> 代のはじめ)の彼がレガート奏法(弓を弦に密着させる)を重視するように
> なってきたこと」から、「ますますよく歌われるようになり、音も豊麗を極
> めるようになる」と書かれていましたから、吉田氏はそれが原因であると考
> えていたようです。反面、その傾向のために、「ハイドンやバルトークなど
> では、からっとした躍動性の不足を感じさす場合さえ出てきた」と述べられ
> ていました。
>  それ以前のカラヤンは全く違っていたそうで、例えばモーツァルトの40
> 番などでは、「まるでベートーヴェンの5番のように終楽章に向かって集中
> し、高まってゆくように設計されているのがはっきりわかる演奏になってお
> り」、その終楽章では「痛切を極めた悲嘆のほかは、黒い情熱がうずまくば
> かりとなってしまっている」などと書かれています。それにしても、カラヤ
> ンの音楽性の変化をここまでわかりやすく解説している吉田氏の文章力は大
> したものです。(98/12/18)

 上は例によってKさん宛のメール(>>はKさん執筆)である。カラヤンの演奏を「きれいごと」「深みがない」で片付けられるような単純思考の人達が私はうらやましくて仕方がない。「ようワカラン指揮者」と思ってきたということは既にあちこちに書いているが、当サイト作成のため彼のディスクをまとめて聴いたところ、その思いがますます強くなってしまった私の率直な感想である。
 目次ページではヴァント、チェリ、カラヤンの類似点&相違点について進化論的な考察を行ったが、ここではさらに悪乗りして彼らを壁画や彫刻などの修復に携わる考古学者に喩えて比較してみたい。失われた箇所に対して、ヴァントは「全体像から推察するとこんな絵が描かれていたはず」と考え、床に這いつくばって欠片をくまなく捜す。見つからなかったとしても、自分の信念に則って色の違う砂や土を材料に模様を描き出してしまう。チェリも完成時点の彫刻や絵を脳裏に思い描き、それを可能な限り忠実に復元しようとするタイプで、仕上げは極細の筆や何千番という目の細かい紙ヤスリを使って丹念に行う。ただし、「ここはこの方が美しいんじゃないか」と思った部分には自分のアイデアを反映させることも厭わない。それをもっと徹底させているのがカラヤンではないだろうか。失われた部分はセメントで埋め、その上から塗料で描き直してしまう。とはいえ、彼が用いたペンキは年代によって違うため色合いも当然変わっている。それも極彩色から渋い色調に変わっていった、というような単純な図式で説明できないところにカラヤンの面白さがあるのだ。18年前の57年盤よりも当盤の方が若々しい(荒々しい)のもいかにも彼らしいと言えるだろう。
 2枚組2000円(実際には大学生協の組合員価格=15%引で購入)の廉価盤であるからコスト・パフォーマンスは悪くない。ただし、第3楽章までをDISC1、4楽章のみDISC2に収録という分け方は大いに疑問だ。チェリ8番EMI盤ページにも書いたように、これは最悪パターンである。(スクロヴァチェフスキの全集中の8番もこれを採用している。)これが許されるのは、百歩譲ってもブルックナーの他の交響曲(3番とか9番など)、あるいは57年盤のようにワーグナーの管弦楽曲などをカップリングする場合のみである。(ただし、8番を聴いた後の余韻が妨げられるのはやはり好ましくない。終楽章のみ再生するようプログラミングするのも面倒だ。カップリング曲はDISC1の最初に入れるべきで、メインとなるブル8は1楽章のみDISC1、それ以降をDISC2とすべきであろう。)当盤は8番のみなので全くその必要がない。チェリの正規盤のページには「DISC1の途中で寝てしまうとディスク交換する気が失せる」などと書いたが、3楽章と4楽章の間で2枚に分けるのはそれ以上に大きな問題があると思う。アダージョが消え入るように終わった後は、アッタッカで(間髪おかず)勇ましい終楽章に突入するのがこの曲には最も相応しいからだ。(このパターンが似合う交響曲は決して少なくない。)オートチェンジャーを使ったとしても、数秒間のインターバルによって興が削がれてしまうのは避けられない。なにゆえに当盤を88年盤のように2楽章ずつ収録しなかったのか、私は制作者を問い詰めたくて仕方がない。(余談ついでであるが、マーラーの2番「復活」を単独で収録する場合、2楽章あるいは3楽章までをDISC1に入れるというパターンが多いようであるが、それは間違いである。作曲者が「少なくとも5分以上の間を置くこと」と注文を付けた1楽章のみDISC1に収録すべきである。聴き手は1楽章を聴いた後、ゆっくりコーヒーでも飲みながらディスク交換すれば良いのだ。残念なことにそういうパターンで区切ったディスクは多くないようだが・・・・・何と終楽章のみDISC2というのもあった。4楽章「原光」の後にディスク交換が来るという、ブル8最悪パターンをも下回る史上最低区切り方であろう。)
 長い脱線になってしまったが、毒を喰らわば皿までだ。解説執筆者の渡辺護によるコメント「なかでも(註:全集録音中で)この第8交響曲は特筆すべきものだ」もちょっとどうかと思う。例えば第1楽章の225から234小節(9分過ぎ)の急加速は前回録音と同じなのだが、金管とティンパニの目立つけばけばしい音色のため、この演奏は所々でせわしなく感じてしまう。小林宗生と並んでカラヤンのDG盤ブックレットでよく名前を見かける渡辺護であるが、他にもマーラー9番82年ライヴ盤に対するべた褒め(CDプレーヤーをお持ちの人は絶対にこのディスクを聴くべきであり、マーラーの第9のお好きな方はこのCDを聴かずしては何事も語れない ─ というのが私の聴後の感想であった)などを読むにつけ、彼に対しては「カラヤンの太鼓持ち」という印象がどうにも拭えない。(和彦とはどういう間柄なのだろう?)もちろんこの8番も決して悪い演奏ではないが、真に「特筆」に値するのは他の曲、つまり359番の演奏ではないかと私は思っている。

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