交響曲第9番ニ短調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
75/09/16
Deutsche Grammophon POCG-1347

 この演奏について出谷啓が「この美しさは『ウソの美しさ』である」などと評したらしい。「ウソの美しさ」とはどういうことなのか小一時間問い詰めたい気がする。彼は「名曲名盤300」でも「人工的」といういささか否定的なニュアンスながら「それでもここまで極めれば立派」のような理由でカラヤンのブルックナーを推薦盤に挙げたりしている。(ちなみにこの評論家に対しては、私は以前から「お調子者」という印象しか持っておらず、あまり評価していない。許光俊や鈴木淳史の本で紹介されているような盗作騒ぎやオーケストラ名を間違えての批評などは以ての外である。こういったスキャンダルが暴露されるのは、業界内部での評価も低いということを物語っているのだろうか?)カラヤン、あるいはショルティはしばしば「人工的」「無機的」と評されているが、演奏行為は人間がやるものなので「人工的」には意味がないと私は考えている。「無機的」についてはショルティ盤のページに書くつもりである。
 さて、私は当盤を聴いて「なんと果敢ない美しさであろうか」と思った。中でも第1楽章の「インフレーション」(2分26〜34秒)では、花びらが1枚1枚ヒラヒラと舞い落ちる様が目に浮かんでくる。9番の目次ページに書いたが、神は最初は気乗りしなかったものの、結局はまたしても宇宙を創造することになってしまった。まだ手を付けたばかりだというのに終末に思いを巡らしてしまう。「俺は何と悲しい性に生まれついているのだろう」という神の嘆きを聴かされているようで、こちらまで無性に悲しくなってしまう。何となくではあるが、「悲しみ」よりは「哀しみ」の方が相応しいように思う。そう。これはモーツァルトのト短調と共通する「宿命的な哀しみ」である。ブルックナーを聴いてそれを感じさせるのは当盤だけである。ただし、このような「哀しみ」は(私のような思い込みの激しい)聴き手が勝手に感じ取っているものである。指揮者はあくまで傍観者として距離を置き、節度を保っているように思える。カラヤンは曲あるいは作曲家と一体化して泣いたり笑ったりするということが、たぶん一生を通じて全くなかったのではないかと私は思っている。許が「世界最高のクラシック」にて、カラヤンによるアルビノーニの「アダージョ」の演奏について、「いくら聴いても悲しくならないところに、却って芸術家としての哀しさを感じてしまう」などと逆説めいたことを述べたが、もしかするとそれと通ずるところがあるかもしれない。
 「ブルックナー・ザ・ベスト」に投稿した「これは私が所有するブルックナーの全てのCDの中で最も美しい演奏であると断言することにためらいはありません」は誇張でも何でもない。5番のように同じオーケストラによるヴァント盤と比べようとしたが無益なことにすぐ気が付いた。指揮者が納得するまで録り直しができた当盤と、編集するにしても3日分しかなかった (←しかも「ボロボロ」だった日もあったという)ヴァント盤とは比較するまでもない。美しさ、完成度とも当盤の圧勝である。

2005年5月追記
 上の「ウソの美しさ」で思い出した。宇野功芳は「名演奏のクラシック」にて岡本太郎の「きれいであってはならない。うまくあってはならない。心地よくあってはならない。ほんとうの美とは、きれいとか、うまいとか、心地よいなどとは反対のものなのです。」を引用し、「その本物の美しさと正反対なのが、カラヤンの演奏だと思う。」という例の卑劣きわまる「第三者を利用したカラヤン攻撃」を行っている。
 一方、没後50周年記念の「フルトヴェングラー」(Gakken Mook)に掲っていた対談「フルトヴェングラー vs トスカニーニ 仁義なき戦い」では、佐藤眞の「君の演奏は何かに溺れるようなところがあって危なっかしさを感じる」「溺れちゃダメなんだよ。コンポジションなんだから(笑)。全体で見なくちゃ。」という指摘に対し、宇野は「しかし、ドイツの演奏家って全体を見ようとする考えがある一方で、非常に情緒的でもあるんだよ。構成を考えつつもそれを崩すくらいのロマン性も持っている。いわば二律背反の面を持つから面白いんだと思うよ。」などと自己の正当化を試みていた。確かにベートーヴェンではそれも許されるであろう。フルトヴェングラーのスタイルがまさにそれだし、専らハチャメチャだという噂の宇野盤にしても、まともなオケと共演さえすればそれなりに聴けるものに仕上がっていたかもしれない。しかし、ブルックナーではだめだ。だめだといったらだめだ。構成(構造)を崩してしまったらもはやブルックナーではない。これはヴァントが述べていたことである。
 戻って、「きれい」「うまい」は構成(構造)を維持するために欠かせない「技術」だと私は考えている。逆に「ロマン性」「情緒的」なんかはブルックナー、少なくともこの曲では不要である。ヘタにテンポいじりを施して構造を崩してしまった(もしくはオケがヘタでアンサンブルが勝手に崩れた)演奏など、私は生ぬるく感じてしまうため絶対に容認できない。ショルティ盤ページにも書いたが、何といっても宇宙は2.75K(−270.4℃)という極低温の世界なのだから。

2006年2月追記
 某掲示板のブラームス交響曲全集スレによると、出谷はカラヤンのマーラーの4番について「超一流のニセ物は、二流の本物よりも魅力があることをこの録音は証明した」と評していたそうである。「まともに勉強してないから、小手先で誤魔化してばっかりのことしか言わん奴やったし」というコメントもあったが、安易な「ニセ物」と「本物」の使用は評論家としての彼が前者(それも二流以下)に他ならないことを身をもって示している。

9番のページ   カラヤンのページ