交響曲第8番ハ短調(第2〜4楽章のみ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮シュターツカペレ・プロイセン
44/06/28(第2&3楽章),44/09/29(第4楽章)
Magic Master (CEDAR) MM37038

 浅岡弘和が自身のサイトに「先日(註:1996年4月20日)、輸入盤がコロムビアより国内発売(CXCO-1079)された戦時中のマグネトフォン録音の『第8』は例の一連のフルトヴェングラー物と共に返還されたテープのCD化で、フルトヴェングラーの『第6』同様首なしだがフィナーレは実験的にステレオで録られており50年前の物とは到底信じられないような音質である。現代のドイツのオケでは決して聴かれない土くさい響が魅力」と書いていたので少しは気になってはいたが、その1996年4月20日リリースの国内盤は既に生産中止、KOCHの輸入盤も入手不可だったため、いつの間にか忘れてしまっていた。「首なしなんか聴いてもしゃーないわな」と思っていたこともある。ところが、(毎度のことだが)ヤフオクにて500円で出品されていた当盤にちょっかいを出し、結局510円プラス諸経費で入手することになってしまった。
 聴いてみたところ、テープ劣化に起因すると思しき欠落や歪みこそ時に聴かれたものの、音質の素晴らしさは想像をはるかに上回るものだった。ステレオ録音の終楽章については、浅岡のみならず一般人によるサイト2箇所でも「60年代録音と騙っても通用する」などとコメントされていた。激しく同意である。さすがに拡がりこそもう一つだが、擬似ではない真正ステレオ録音でノイズ混入は全くといっていいほど聞かれない。鮮明さには乏しいものの、それが(この曲限定ながら)却って迫力を感じさせるという効果をもたらしている。また、モノラルながら第23楽章の音質もクリアーそのもの。私が所有する40年代録音の中ではダントツの優秀さで、コンヴィチュニーの7〜9番にも匹敵するクオリティを持っている。そういえば、同年の10月にはフルトヴェングラーもVPOとブル8を演奏し、DG他からリリースされているが、音質差はまさに月とスッポンである。それは措くとして、何があっても微動だにしないほどに安定感抜群のカラヤン盤に対し、フルヴェン盤は先んじた「Kという男」への敵愾心を剥き出しにしたかのように怒り狂っており、演奏自体も両極端といえるまでに異なっている。そこで、ふとこんな悪戯を試みたくなってしまった。
 これら2種のブル8をクラシック初心者、あるいはほとんど馴染みのない人に試聴してもらう。「堂々たる風格を備えている方が大家の演奏で、もう一方はいつも大袈裟な効果を狙って底の浅い演奏に終始していた三文指揮者によるものです」と言い添えて。それで大方はコロッと騙されてしまうことだろう。(敢えてその必要もないだろうと思ったので具体的に結果予想は書かない。)実際のところ、フルトヴェングラー崇拝者のセンセイ方(多くはアンチカラヤン派)のやってきたことも結局はこれと同じ「刷り込み」、もっと言ってしまえば「かどわかし」に過ぎないと私は思っている。「精神性」「芸術性」「音楽性」といった常套句(しかも具体性なし)を並べ立てて聞き手を思考停止に追い込もうとしていたのだから。やり口は新興宗教の勧誘と大差ない。(ブルックナーのディスク評執筆もそろそろ先が見えてきたことだし、今後は過激なことも忌憚なく述べるつもりである。)しかしながら私は思うのだが、もしカラヤンが前任者と同じく「切れば血の出るような」スタイルでベートーヴェンの交響曲を演奏していたらどうなったであろうか? それを先述の評論家連中が賞賛したとは到底思えない。そうなったらそうなったで、「所詮は模倣」などと貶しまくっていたに決まってる。(いわば「フルヴェンの劣化コピー」ことメータやバレンボイムの先駆けとなっていたであろう。)「最初に結論ありき」が彼らの常套手段であるから。そんなのはカラヤンにしてみれば真っ平御免だったに違いない。だから、戦後ベルリン・フィルの常任の座に就いた途端に颯爽としたスタイルへの転換を試みたのはむしろ当然である。そして、そういう事情もよくよく考慮した上で虚心に耳を傾ければ、あの60年代のベートーヴェンに「無機的」だの「外面的」などと散々難癖を付けて切り捨てることができる訳がない。それはそれで立派なものと感じられたはずだ。例えば「英雄」(63年盤)をして「外見への執着が曲の性格と適合して、彼のベートーヴェン演奏の中でひときわ成功している」と評価した許光俊のように。(とはいえ、私はあの最初の全集録音の内1〜3番しか持っていない。4番以降は「ギラギラスタイル」の80年代録音で、既にカラヤンの目次ページで述べたように正直なところあまり気に入ってはいない。)
 ここでブルックナーに戻ると、(この44年録音に、および8番に限らず)両指揮者の演奏に対する私の評価が大きく隔たっているのは既にお察しの通りである。(フルトヴェングラーが唯一比肩しうるのは晩年様式への転向後に録音された8番VPO54年盤だけだろう。)が、だからといって「指揮者の格とはこれほどにも一目瞭然なのである」などと述べるつもりはない。それでは同じ穴の狢になってしまうから。
 というより、フルヴェンにしても評価すべき所はちゃんと評価しているつもりである。ベートーヴェンやブラームスは演奏自体は立派なものが少なくないが、やはり新しい録音より相当聴き劣りするため手に取る機会はあまり多くない。けれども、シューマンの交響曲第4番だけは誰がなんといってもフルトヴェングラー(53年スタジオ録音のDG盤)がいちばんだ(←パクリ)。かつて私はチェリの演奏(ブル9他とカップリングされた海賊盤)を愛聴していたが、その印象が一瞬にして忘却の彼方に追いやられてしまったほどの強烈なインパクトを喰らった。とにかく凄味、殺気、荘重さなど桁外れである。(これらのワードは当サイトで散々使い回してインフレ現象を起こしている感があるけれども、そういうのとはまるでモノが違う。)ちなみに、「フルトヴェングラー 没後50周年記念」(Gakken Mook)の執筆者15人による「愛聴盤 ベスト3」にてそのディスクを挙げたのが5人でトップだったが、私としても納得の結果である(ちなみに3人推挙による同点2位は、「英雄」52年スタジオ盤、「運命」47年5月27日盤、バイロイトおよびルツェルンの「第九」の4種)。うち桧山浩介は、「フルトヴェングラーの残した録音で今後も凌駕されることは無いと考えられるものの筆頭に挙げたい」「バイロイトの『第九』やシューベルトの『グレート』は、或いはという気もするが、このシューマンだけはこれだけの完璧な演奏は二度と不可能といえる」と書いていた。それにも全く異存はない。この決定盤を残したというだけでもフルトヴェングラーの名は永遠に不滅であろう(←これまたパクリ)。何でもかんでも(取るに足らない逸話までも)賛美の対象にして無理矢理神棚に祭り上げたりする必要などない。ましてカラヤンを貶すことで相対的に持ち上げるような輩は外道中の外道である。一方、カラヤンの録音にしても(大して興味はないが)オペラ全曲盤やR・シュトラウスの管弦楽曲の一部だけで十二分に歴史に名を留める資格ありと考えている。(ちなみに、世評はさして高くないかもしれないがシベリウスの2番80年盤が私的には最高傑作である。)IMGレーベル発売の "Great Conductors of the 20th Century" シリーズのラインナップを眺めるにつけ、特定指揮者をやたらと神格化したり「○○は△△より格が上」などと差別化に躍起になっていた一部評論家が哀れに思われてならない今日この頃である。(ここからは毎度の括弧内脱線である。許光俊は「クラシックの聴き方が変わる本」にこんなことを書いていた。「リヒャルト・シュトラウスはカラヤンの演奏がスタンダードみたいに言われている。バカなことだと思う。シュトラウスは、何だかんだ言って当時の最高の芸術家たちと親交のある人だった。そんな人が、カラヤンの演奏みたいな、B級スペクトル映画ノリの効果をくそまじめに追求する曲を書くわけがない。冷笑されるに決まってる。」たとえ筆者の見方が私のそれと大きく異なっていたとしても、このようにちゃんとした内容さえあれば楽しんで読むことは可能だ。これに対し、先述した学研ムック掲載の「丸山眞男 vs 宇野功芳」によると、丸山は会食の席上で「カラヤンは、リヒャルト・シュトラウスを振らせたら最高ですねえ。この二人の音楽の共通点は“無内容”なんです」と解説して一同の爆笑を誘ったことがあるらしいが、それを紹介した筆者=中野雄の「談論風発」という見解にはハッキリ異を唱えたい。こんなのユーモアでも何でもない。極めてタチの悪い中傷ではないか! 鈴木淳史の貶しの方がよっぽどマシである。時に腰砕けであっても彼なりには根拠を提示しているから。丸山の著作には全く触れたことのない私だが、無駄な時間を潰さなくて済んだのは本当にラッキーだったと心底思う。そんな「無内容」の台詞を口にして悦に入っているような人間の書いたものなど高が知れているから。大暴走はここでおしまい。)
 さて、そのカラヤンであるが本当に食えない男である。トータルタイム71分15秒はシューリヒトの63年スタジオ盤の全曲演奏時間とほぼ同じである。(未聴だがAltusによる5日前のライヴ盤よりも長い。)もしスケルツォと同じく約16分で第1楽章が演奏されていたと仮定すると、トータル87分以上に及んだということになる。まさに「どこに出しても恥ずかしくない」堂々演奏だ。57年盤(約87分)も同じスタイルだったが、終楽章は当盤の方が1分15秒も長くなっている。(ただし、この楽章に限って当盤はピッチが心持ち低く感じられる。これがオケ本来のピッチであれば解釈の違いと見なすことができるが、もし調整によるものだとしたら両盤の正味の演奏時間にはほとんど差がなかったということになる。)つまり、彼の残した数多くのブル8録音中でも当44年録音は屈指の巨匠風演奏ということになるだろう。(「風」を付けたのは、脂の乗り切った時期の指揮者には似つかわしくないと判断したためである。)同様に格調の高い演奏を13年後に、しかも完全な形で(全4楽章をステレオ録音で)残すことができたため、「もう沢山、次は違うやり方で」と考えたのではないか。それが次第に派手派手スタイルへと傾いていった理由ではないかという気がしてならない。ただし、57年〜75年という隔たりはあまりにも大きい。「ミッシングリンク」を埋めるような60年代半ばの録音があれば是非聴いて確かめてみたいところだ。(追記:1967年3月12日のザルツブルク復活祭音楽祭ライヴを収録した2枚組がHunt/Arkadiaレーベルから出ていると知った。が、ヤフオクでは残念ながら競り負けた。)なお、最晩年の88年VPO盤も一聴すると巨匠型に回帰したかのようだが、演奏精度は当盤や57年盤よりかなり劣る。よって、老人性弛緩の結果としてスローテンポという外面的特徴が類似しただけというのが私の見方だ。
 ようやくにして当盤評に移ることができそうだが、例によってここまでの執筆にエネルギーを使い果たしてしまったため、モノラルの23楽章は割愛して終楽章のみ述べる。先に「巨匠風」と形容したが、楽章冒頭のティンパニ立ち回り(0分25秒〜)に象徴されているように、意欲満々(「Fという男」への対抗意識を相当に燃やしていたはず)の指揮者はスケール感の表出にトコトンまで拘ったと思われる。ところがオケはそれに十分応えていたとはいいがたい。直後の0分32秒でブラスが半歩出遅れるなど所々で縦の線が合っていないため、結果的に指揮者の気合いが空回りしているように感じてしまうのが残念である。名前に馴染みはないものの、一部サイトで "Preussische (Berlin) Staatskapelle" と記載されていることからベルリン・シュターツカペレの前身と思われる。だから当然といえば当然だが決して下手ではない。とはいえ、さすがにBPOと比較すれば合奏力や響きの美しさといった点で一歩を譲るのは仕方ないだろう。ということで、貴重な録音であることを認めるに吝かではないが、どうしてもその分だけ同タイプの57年盤より聴き劣りする。(もちろん首なし&モノの第23楽章がネックとなるため、ディスクとしてはさほど高く評価することはできない。)

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