交響曲第9番ニ短調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(85)
85/11/24
SONY Classical SIBC 5

 映像ソフトと純音楽ソフトの発売に関して必ずしも同一者(社)が権利を所有しているとは限らないことは十分承知しているつもりだが、かつてレーザーディスクやビデオテープとして出たっきりで一向に他媒体で再発される様子のない映像作品が決して少なくないという状況には全く苛々させられる。ブルックナーにおける代表格はチェリビダッケであろう。「MPOと90年代に演奏した6〜8番のLDやVHSをソニーが発売してからいったい何年が経ったと思っているのか? 誰か何とかせえ!」と喚き散らしたくなる。(7番については例の37年ぶりBPO客演コンサートも出ているようだが、とりあえずCDを確保しているから許す。)マタチッチ&N響による8番(84年の方)にしてもLDの方は音質良好であるとの定評にもかかわらず放置されたままだ。(CDとDVDが同時発売され今も現役というのは、ヴァント&NDRの「ライヴ・イン・ジャパン」など限られた例だけではないか?)
 カラヤンにしても似たり寄ったりである。アマゾンにてブルックナー交響曲のDVDを検索すると4件(8&9番が2種類ずつ)が見つかる。このうち新品が安価で入手可能なのは88年11月録音の8番VPO盤のみである。2002年にソニーから「カラヤンの遺産(レガシー)11」(SIBC13)としてリリースされた音源が今ならネット通販で2000円以下(HMVでは1500円ほど)で買える。(ただし米合衆国からの輸入廉価盤ゆえリージョンコードが1に設定されており、リージョン2の日本製プレーヤ等で再生する場合には注意が必要である。)とはいえ、DGの正規盤CDと同一演奏の可能性が高いため、買おうとは思わなかった。これに対し、同シリーズ3番目(SIBC5)の9番はカラヤン晩年の85年演奏、しかもオケがBPOということで以前から値段さえ折り合いが付けば買ってもいいと思っていたのだが、腹立たしいことに高価な初発国内盤しか出回っていない。(ついでに不満をぶちまけておくと、2001年にDGから出た2種のDVDは生産中止のようで、尼損の中古市場ではバカ高い値が付いている。どちらもオケはVPOだが、78年5月7〜8日にムジークフェラインザールで演奏された9番については、いくら余白に「テ・デウム」が収められているとはいっても肝心のブルックナーが既所有のAndante盤と同一演奏のようだから食指は動かされない。ちなみにAndante盤は2日目の演奏のみ採用しているとのことである。一方、79年6月19日付とされる聖フローリアン教会ライヴの8番は前年の9番ライヴが爆演だったから少なからず気になっており、激安中古を見つけたら手を出すことになると思う。ついでながら「DVD NAVIGATOR」データベースによる商品説明には「1976年10月」とあるが誤りのようだ。)
 さてさて、繰り返しになるが私が所有していたカラヤンの9番といえば先述の78年盤が最後だったから、何としてでも85年演奏の当盤が聴いてみたかった。最晩年にVPOと録音した7番(89年)および8番(88年)はヨレヨレだったが、85年ならまだ衰えていないだろうし、長いこと付き合ってきたオケゆえ精度もそれなりには保たれているだろうという予想もあった。ただし税込で5000円近い新品を買うのはアホらしいと思ったため、アマゾン・マーケットプレイスに少々無茶な買い注文(2000円)を入れておいた。当然ながら売り手は現れず。ところが、ある日偶然2980円(諸経費を加えて3220円)という何とも微妙な価格で出ているのを見つけてしまった。以前ならスルーしていたと思う。が、少し前に事情が変わっていた。DVDに記録されているVOBファイルから音声を取り出してAIFFに変換する方法を手に入れたからである。それまで私はDVDを再生できる装置としてパソコンしか持っていなかった。(このうち家のPowerBook G4は頻繁に映像が止まり音が途切れるため既に再生する気が失せてしまっているから、実質的には職場から貸与されているiMacG5のみだったのだ。)それが2種のアプリ(0SEx 0.0110a1→a52decX 0.25)を駆使して青裏に焼けるようになってみると一気に行動範囲(?)が拡がり、名演と認めつつもケースから取り出す意欲がなかなか湧かなかったマゼール&BRSOの8番を聴く機会も増えた。今後そそられた新譜DVDに注文を入れる可能性も高いと思う。
 先述したように価格には必ずしも納得していなかったし、DGの78年盤における「テ・デウム」のように何かオマケ(「“万礼節”メモリアル・コンサート」というのが何なのか全く知らない私が言うのも何だが、同じ日に演奏された他曲、あるいは「未完成」とかハイドン、モーツァルトの交響曲あたり)ぐらい付けてくれたって良さそうなものだという不満もない訳ではなかった。しかしながら、結局は先方の言い値を飲むことにした。それではようやくにしてディスク(試聴用に作成した青裏)評に入る。
 Berky氏のディスコグラフィに掲載されている各楽章のトラックタイムは24:13、10:36、24:29である。「さすがはカラヤン、両端楽章のバランスは見事に取れている」などと騙されてはいけない。実際には演奏前の拍手(1分強)も含まれているので第1楽章の演奏時間は約23分、そして終楽章は正味24分10秒ほどだから、どちらかといえば前掛かり気味の演奏に該当する。それはともかく、やはり23分そこそこの第1楽章は結構速く感じる。のみならず勢いもある。ビッグバンへの突入は、米原駅をのぞみが通過した時のような凄まじい迫力である。(新幹線には滅多に乗らない私だが、在来線のホームにボーッと立っているといつもビックリさせられる。)ただし、このような激しい演奏は既にVPO盤2種(76および78年盤)で耳にしていたから想定の範囲内だった。またブラスやティンパニの立てる大音量にしても既所有のCDで馴染んでいたものと何ら変わりはない。またベッタリ弦による重々しい響きという点では当盤が随一かもしれない。(ついでながらファイル圧縮による劣化は確認されず、音質に対する不満は一切なかった。)
 そんな訳で特に驚かされることもなく聴き進んでいたのだが、楽章の終わり(もうすぐコーダにさしかかろうという時)に突如事件は起こった。トラックタイム21分少し前のヴァイオリンが明らかにフライング。だがそれはカタストロフの入口に過ぎなかった。21分07秒から加わってきたトランペットがどういう訳か咆吼ではなく彷徨を始めたために金管のアンサンブルが崩壊。それはオケ全体にまで波及し、しばらくの間混沌状態を呈する。(この箇所について「この演奏には1楽章の後半でトランペットの一部が調子を崩していて、テンポの間違いがあり、一瞬fffでトランペット群が崩れる箇所がある。カラヤンの無表情ながらやや『何事?』と言わんばかりのハッとする箇所があり、理性を保ったまま、pppに下降させる。」というコメントを尼損のカスタマーレビュー内に見つけた。それで後に確認してみた。崩壊開始直後の映像はあいにく暴走ラッパのアップだったが、直後に口と両手で何とか合わせようとする指揮者に切り替わっていた。なお私には「無表情」というより視線がどことなく虚ろというか宙を漂っているように見えた。それどころか物悲しげで目が潤んでいるようにすら思われたが、まさか「儂の統率力も落ちたもんじゃのう」と心の中で嘆いていたのだろうか? ついでだが、その前に「ライヴ録音ですが、一糸乱れぬ演奏に、ベルリン・フィルの技術レヴェルの高さとカラヤンの集中力に圧倒されます」などと書き込んだ投稿者は芳一である。)
 その後はしっかり立て直し、壮絶なエンディングになだれ込むのは流石と思ったが、こんな代物が世に出回るのを完全主義者として知られた指揮者がよくもまあ許可したなあという気分である。ライヴ収録であっても後日撮り直して差し替えることは決して不可能ではなかったはずだが・・・・・(死後に初めてリリースされた先述のVPOライヴとは事情が異なり、少なくともチェックはしているだろうし、もしかしたら自分の手で編集したかもしれない。)思うに(同様の指摘は既になされていると想像するが)カラヤンは自分の芸術を後世に残すための手段は純オーディオ以外になく(だからこそ納得いくまで修正に修正を重ねた)、所詮ビデオは動く自分を観てもらうという娯楽を提供するための手段であると割り切っていたのではなかろうか? それゆえ演奏の完成度は二の次にされたのであろう。そうなるとCDの発売は断固として拒んでいたものの映像メディアによるリリースには許可を出したチェリビダッケとは目○鼻○であり、「○○コーラと○○○コーラの争い」という浅岡弘和の比喩がここでも使えるような気もしてきた。(ちなみに当盤の映像には楽員もそれなりに登場していたから、時に「独裁的」「非人間的」などと非難の的にされた独特のカメラワーク、つまり「個々のメンバーに主体性はない」という理由で自分以外をわざとピンぼけにしたり、楽器や奏者の指しか映さない等の一種の排斥手法は控え目であった。ティンパニについては最後まで手とバチだけだったが・・・・)そういえばNHK教育の何かの番組で「展覧会の絵」の「キエフの大門」を観たことがあるが、何の脈絡もなしに鐘が出てきたりするなど本当に酷かった。)
 以降の楽章はダイナミックでありながらソツがないという模範的演奏を繰り広げていたけれども、是非とも書き残しておかなければと思わせるようなことはなかった。より精密な合奏を聴かせてくれるのみならず、「はかなさ100%」(?)とでも言いたくなるほど繊細な75年盤の方が私の嗜好には圧倒的に適っているからである。それはさておき、いつまで経ってもカラヤンを「無機的」呼ばわりしているような評論家は耳が遠いか感性が鈍いかの何れか、さもなくば当盤のような生々しい演奏を全く聴いていない、あるいは聴こうともしない怠慢野郎であるのは確かだ。(そして私が同じことを何遍も書いているのも確かである。)

おまけ
 某掲示板でこんな投稿を見た。

 玉木正之によればバーンスタインは死後、高く評価され続けるのに対し、
 カラヤンは膨大な録音を残したにもかかわらず全く忘れ去られる・・・、
 と十数年前に大予言しとりました。

自分の願望をそのまま(客観性が必要な)予測に適用してしまうとは・・・・・・・こういうのを「究極の阿呆」という。

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