朝比奈隆
交響曲第0番ニ短調
大阪フィルハーモニー交響楽団
交響曲第1番ハ短調
日本フィルハーモニー交響楽団
交響曲第2番ハ短調
東京都交響楽団
交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
大阪フィルハーモニー交響楽団(84)
大阪フィルハーモニー交響楽団(94)
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
大阪フィルハーモニー交響楽団(89)
大阪フィルハーモニー交響楽団(93)
交響曲第5番変ロ長調
東京都交響楽団
新日本フィルハーモニー交響楽団
交響曲第6番イ長調
東京交響楽団
大阪フィルハーモニー交響楽団
交響曲第7番ホ長調
大阪フィルハーモニー交響楽団(75)
大阪フィルハーモニー交響楽団(83)
大阪フィルハーモニー交響楽団(92)
大阪フィルハーモニー交響楽団(01)
交響曲第8番ハ短調
大阪フィルハーモニー交響楽団(83)
大阪フィルハーモニー交響楽団(94)
NHK交響楽団
交響曲第9番ニ短調
新日本フィルハーモニー交響楽団
東京交響楽団(91)
大阪フィルハーモニー交響楽団
東京交響楽団(96)
所有枚数が多いにもかかわらず、この指揮者のページ公開がかなり後になったのは、(ビクター全集ページに挙げた理由の他に)この目次ページの作成に苦心することが最初から予想されていたからということもある。
最近は御大を洋食呼ばわりする本場物志向のお気楽な人もいるが、
固定観念に反し鈍感な西洋人が作るフランス料理より繊細な日本
人の作る洋食の方が遙に上ということも多々ある。ツールダルジ
ャンの鴨に山葵醤油をつけて食った魯山人の気概を朝比奈もまた
持っているのだ。
これは朝比奈のブルックナーを「洋食」扱いした評論家を揶揄した文章で、浅岡弘和のサイトに載っている。さながら「内股すかしで一本!」というところだろう。
ところで(いきなり飛んでしまうが)、将棋プロ棋士の羽生善治はチェスの腕前も大したもので、将棋世界2004年6月号によると初の対外試合となる国内大会に出ていきなり優勝してしまったという。こうなると、もはや趣味の域を完全に超えている。(ライバルの森内俊之や佐藤康光も相当強いらしい。)とはいえ、彼はポーンを敵陣3段目でいきなりクイーンにプロモーションさせたとか、取った相手の駒を再度盤に打ち込んだ(←色を塗らんとアカンな)などということはもちろんしていない。ちゃんとチェスのルールで戦って好成績を残しているのだ。多忙なスケジュールの合間を縫って国際大会にも積極的に参加しているが、さすがにいきなりの上位進出というのは無理のようだ。しかしながら、羽生らは知識の通用しない「力戦」、つまり未知の戦いになると将棋で鍛えた読みの威力を発揮するそうである。「無理」はあくまで現時点での話である。彼らがチェス一筋の人間には想像もつかないような鬼手を放つ、どころか将来は新定跡まで生み出してしまうかもしれない。「本場物」に安住している限り、そのような可能性に胸を躍らせることは絶対にできない。(ネット上にも批判が出ているが、「退屈で死んでしまう!」と書いていたのはどこの誰だったか?)
さて、ここからが本題である。当然と言えばあまりに当然なのだが、羽生がいかに将棋界の第一人者だとしても、チェスの実力を評価するのはあくまでチェス大会での成績以外にない。チェスの棋力を表すには、段や級ではなく「レーティング」という数値が用いられる。羽生の国際レーティング2339は、日本では2番目(1位は2365)、世界ランキングでは3940位に相当する。世界チャンピオンのカスパロフ(レーティング2817)にはまだ遠いとしても、彼が国際レベルでどの辺りに位置するのかはちゃんとわかる。もし将棋界での実績によって、ましてや囲碁や連珠、オセロなどのトップ棋士との比較によって羽生のチェスの棋力を推し量ろうとする者がいるとしたら、そいつは単なる大馬鹿者である。
朝比奈のブルックナーも羽生のチェスと同じだ。ルールに則って(日本独自の楽器や奏法などを持ち込んだりせず)、ヨーロッパの伝統音楽という相手の土俵での戦いを堂々と繰り広げたという点で。それを「洋食」呼ばわりしたり、「他の日本の伝統芸能と比較すべき」のように扱ったりするのは、指揮者およびオーケストラに対してあまりにも失礼というものである。何となくではあるけれども、K−1のリングに上がって相手のローキックでKOされたボクサーに対して、「彼はあくまでボクシングのリングの上に留まっているべきだった」などと評すのと似ているような気がする。要はわかりやすいけれども底が浅い、というより内容がない。彼が不利なルールの下でどのように戦ったか、それを承知でなぜリングに上ったかを書かなければプロの批評とは言えない。戻って、あれこれと曖昧(抽象的)な比喩や理屈をひねり出した挙げ句に、「ヴァントやチェリビダッケとの比較は無意味」などと勝手に決めつけて悦に入っている連中というのは、結局は朝比奈のブルックナーをまともに評論する気(あるいは能力)がないので逃げを打ったということである。そんなことはプロとしての責任を自覚している評論家であれば不可能なはずだ。「洋食」「伝統芸能」の範疇で語ることが許されるのは、例えば日本音楽集団のような和楽器オーケストラであろう。(琵琶、三味線、和太鼓などが奏でる「剣の舞」の演奏を以前「題名のない音楽会」で観たことがある。とても、おもしろかった。)勘違いも甚だしい。ただし、「下手なフットボール」という喩えだけはわからないでもなかった。サッカーにも「FIFA世界ランキング」という(勝てば上がり、負ければ下がるという点でチェスのレーティングと同様の、ただし結構いい加減な)客観的指標があるからだ。
実のところ、私もこの人のブルックナーは「運良く本大会に出られたとしても、グループリーグを突破して決勝トーナメント(ベスト16)に進出するのはまず無理というレベル」程度にしか評価していなかった。以下にKさんへのメール中から朝比奈について述べた部分を掲載する。
> 今朝(3日)、大阪朝日放送の新春クラシックスペシャルで、朝比奈隆の
> ブラームス交響曲全曲演奏会の模様が放映されました。予想に反して軽快な
> テンポで進められており、実に素晴らしい演奏でした。放送時間の制限によ
> って、全曲でなく一部の楽章だけだったのが残念です。どの曲も終わった途
> 端、会場から一斉に「ブラヴォー」の嵐でした。(僕はこの「ブラヴォー」
> やフライング的な拍手は好きではありません。少しでいいから静寂さが欲し
> い。ただ、あの場にいたら自分も叫んでいるかも・・・・ちなみに、FMで
> 聴く東京の演奏会では「ブラヴォー」は「叫ぶ」感じですが、大阪の場合は
> 「吠える」と形容した方がピッタリです。)日本のオケのメンバーは技術的
> には世界レベルだが何かが足りないとよく言われますが、この演奏会では明
> らかにその足りない何かがプラスアルファとして備わっていたように感じま
> した。それは大フィルのメンバー全員が、この大指揮者のもとで演奏できる
> ことに感謝し、誇りに感じているということではないかと考えています。朝
> 比奈がN響を振った時も素晴らしい演奏だったそうですし、N響にベームや
> 最近ではヴァントが客演した時も、やはり同じ理由があったからこそ名演が
> 生まれたのでしょう。
> さて、実は僕はこれまで朝比奈のベートーヴェンやブルックナーを聴いて
> も、それほど感心しなかったのです。あまりにも遅すぎる、緩んでいると感
> じられたのです。(ジュリーニのVPOライブ録音と同じで、将来好きになる
> かもしれませんが・・・・・)以前、教育テレビで彼がシカゴ響に客演して
> 演奏したブルックナーの5番を観ましたが、終了後の聴衆の表情を見ると、
> 満場の拍手にもかかわらず「ノー」とばかりに首を振っている人がいました。
> 僕もその場にいたら「ブー」だったでしょう。(99/01/04)
最後の文について補足
上の「首を振っている人」が、もし日本語を話せたら「ダメだコリャ」と言
っていただろう。ちなみに当サイトに何度も登場する某M氏は、NHK-BSで生中
継されたヴァント&ブル9演奏会について、こんなことを書いていた。
ということで,やはり「ヴァントは歳とってもヴァントだった」
という感じで,やはり,期待した私が悪かったということでした。
もっとも,終わった後はすぐに帰っている人がかなりの数にのぼる
ことが映されていましたが,残った人のかなりはスタンディング・
オペレーションをしていました。まあ,頑固に座っている人もいま
したが。もっとも,拍手している人はその演奏より老齢の指揮者
(歩くのもやっとという感じでしたし)が指揮をし終えたということ
に拍手をしていたように見えましたが。
聴衆が何に対して拍手していたかについては知る由もないので私はコメント
しないが、彼による客席の描写は私が観た朝比奈&CSOによるブル5演奏会の情
景そっくりそのままではないか。観客の動向(時には終演後拍手が起こるまで
の時間までも判断材料として)によって演奏の評価を試みるといった芸当は、
常人には到底真似のできないものである。(ついでに書くと、2000年11月のヴ
ァント来日公演に対するM氏の感想の最終文に使われている「ヴァントは所詮
ヴァント」は、その後あちこちで引用されることになる名文句である。その前
の「結論から言えば、」で始まる文がまたいい。)
当然ながら、ちゃんとディスクを聴かなくては批評はできないので、最初に名盤の声が高い「聖フローリアンの7番」を買った。続いてオークションでビクターの全集を入手。7500円という出品価格のままで落ちたので「えらい安いなあ」と思っていたが、ディスクの中心付近には「SAMPLE 非売品」という刻印があった。何度か同じ品が出ていたので、あるいはサンプル盤の横流しだろうか? もちろん鑑賞に支障はないので全く不満はなかった。ただし、この全集の完成度はもう一つで、晩年に「巨匠」扱いされていた朝比奈の実力を推し量ることはできないと思われた。そのため、90年代に大阪フィルと録音した新全集を聴く必要があると判断し、安く手に入る機会を狙っていた。そして東京出張の際に、ポニーキャニオンの全集バラ売り廉価盤4678番をディスクユニオン新宿店で格安(確か600〜800円程度、2枚組の8番までも!)でゲットした。その後、他の曲も各種経路で入手。(ただし5番は理由があって別演奏にした。)。さらに後期3曲は、上記リストにあるような別音源も所有することになった。今回それらをディスク評執筆のためまとめて聴くことになるが、それによって評価が上がるのか、それともさらに下がるのかは今のところ判らない。
なお、朝比奈のブラームスについては老人性弛緩症候群が観察されないため、以前より肯定的に評価していたのだが、ベートーヴェンについても彼の逝去後まもなく、NHK-BSの追悼特集でまとめて放映された交響曲演奏を観て考えを改めた。「英雄」などはどうしてどうして立派な演奏じゃないか、と思ったのである。2001年後半からベートーヴェンを集中して聴くようになり(ベートーヴェンのページ参照)、嗜好が変わっていたからではないかと思う。
最後に余計なことを書くが、この指揮者の演奏を絶賛した文章中によく見られていたのが、「気にならない」「問題とならない」「どうでもいいと感じる」等の終止形で、お決まりのフレーズといった感もあった。しかしながら、それ自体が完成度の低さ(大雑把さ、詰めの甘さ etc.)を物語るような言い回しはいかがなものかと私はいつも疑問に思っていた。(それが気になって仕方がなかったし、どうでもいいとも思えなかった。)これでは最初っから「最高レベルには達していませんよ」と断りを入れているのと一緒じゃないか?
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