交響曲第8番ハ短調
朝比奈隆指揮NHK交響楽団
97/03/06
fontec FOCD-9184〜5

 このN響の第1317回定期公演を、浅岡弘和は「朝比奈の自力のブルックナーの頂点だったようで、気魄も凄く、豪快な名演だった」、鈴木淳史は「スケールこそ大きく見せていたけれど、ハリボテのような演奏だった」と聴いた。同じ演奏の評価がこれほどまで極端に分かれるのだからクラシックというのは面白い。
 ところで、浅岡は親鸞の研究家でもあるのだろうか? 「親鸞」「歎異抄」「他力」は彼の音楽評論のキーワードのような感があるし、ウェブサイト(The classix)内には「モーツアルトと歎異抄」「親鸞とベートーベン」というページまで存在する。ブルックナーについても「絶対他力」を唱えた親鸞との共通点を見い出しているらしく、こんなことを述べている。

 ブルックナーは「自力」の音楽ではない。
 ベートーヴェンのように神の許へ自分が行くのではない。
 神を待ち望む、神を呼ばわる「他力」の音楽なのである。

そして、ブルックナーに対する適性についてもこれで論じている。

 指揮者を「自力」型と「他力」型に分けてみると、
 前者の典型はフルトヴェングラー、後者はクナッパーツブッシュ
 となるだろう。チェリビダッケも「他力」型であり、もちろん
 ブルックナーにはこちらの方が向いている。

基本的には同意する。テンポを激しく動かし自ら音楽を作っていくフルトヴェングラーのスタイルは、ベートーヴェンとは相性バッチシでも、ブルックナーの場合は却って感動が削がれてしまうこともこれでちゃんと説明ができている。(ただし、ならばヴァントはどうかと考えたのだが、「構造」に徹底的にこだわり、指揮者の「解釈」を聴き手には絶対に感じさせないよう凄まじい執念を燃やすという点では「自力」じゃないかという気もする。その結果出てくる音楽は「他力」そのものなのだが。要は「自力」「他力」などと簡単に割り切ることはできないということではなかろうか。親鸞が唱えた「他力」というのも、実は何もしないで待つのではなく、「自力」を尽くしたところで初めて出てくる「他力」なのだし。ちなみに私も親鸞関係は一時期手当たり次第に読んだ。)ならば、「朝比奈の自力のブルックナー」が仮に「頂点」だったとしても大したことないんじゃないか、と思ってしまったのだが、これについても以下の基準を適用すれば一応は矛盾なく解決できるようである。

 だがそれ以上に重要なのが「響」の造型感覚であり、
 マタチッチのように「自力」型でもすばらしい、
 ブルックナーを振れる指揮者がいるというのもそのためなのだ。

9番96年東響盤ページに書いたように、私は「『響』の造型感覚」がもう一つピンとこないので、これも宇野のような「ダブル・スタンダード(救済措置)」ではないかという気がしないでもないのだが、彼の内部ではちゃんと筋が通っているのだろう。なので、これ以上は突っ込むのは止めにする。
 実はこの演奏は私もNHK-FMで聴いているはずである。97年だからまだ名古屋に住んでいた頃だ。下宿で生中継を聴いたのか、それとも留守録しておいて帰宅後にテープを聴いたのかはよく憶えていないが、どっちにしても大して印象には残らなかったはずである。サッサと忘れてしまった。(もしエアチェックしていたとしたら、すぐ重ね録りしてしまったということだ。)けれども、当盤を聴いたところ「なかなかに気力充実した熱演」と私の耳には聞こえた。そういえば、浅岡は「実際にサントリーホールで耳にしたのだが、ホールの音響効果の良さが逆にわざわいしてうるさく感じがちであまり感動しなかった覚えがある」(4番大フィル93年盤収録の演奏)、あるいは「オーチャードホールの席のバラつきのためかもやついて聞こえた」(91年の東響との9番)といった例を挙げて「両方共実演よりCDの方がはるかによかった」と書いていたが、あるいはここでも録音の方が実演より印象が良くなっているのかもしれない。
 当盤からはマタチッチの新旧両盤(DENON、Altus)よりもライブの臨場感(熱気、迫力など)が伝わってくるし(同じNHKホールで録音されたAltusのヨッフム&バンベルク響盤と比較してもその点では上)、少なくとも「ハリボテ」とは感じさせないだけの音密度もある。演奏にも耳を覆いたくなるような致命的ミスはない。(金管やティンパニは時に荒々しさを通り越しているようなところがあり、特に後者は終楽章冒頭など力任せに叩いているだけと聞こえる。だが、今更そんなことをいちいち論っても仕方がないと判断した。ただし、「N響のきわめて高い合奏能力」について述べた解説には疑問符を付けずにはいられない。)第1楽章9分08〜11秒、9分30〜33秒のセカセカは相変わらずだが、その前の8分41〜54秒のアッチェレランドはかなり控え目になった。この他にも「あざとい」と感じるところは少なくなっているし、94年盤より余分な力が抜けているとも聞こえる。よって、私はこの演奏を浅岡のいう「自力のブルックナーの頂点」というよりは既に「自力」から「他力」への脱却過程に入ったものとして位置づけたいのである。(この後2001年にも大フィルとの8番録音が残されているようである。そちらは未聴だが、さらに「他力」型の演奏になっているのだろうか? 思い出したが、ヨッフムが本当に「他力」の境地に入ったと感じさせる演奏は、死の2ヶ月前に当たる87年1月の9番MPO盤のみである。)
 何にせよ、私は生を聴いていないのであるから、「わが国のブルックナー演奏史に残る超名演」などと誰かが絶賛したとしても、それに異を唱えるつもりは全くない。と、逃げを打った形で当盤評を終わる。

追記1
 鈴木淳史による上記「ハリボテ」発言は「朝比奈とは、へたなブルックナーという意味だ」(「こんな名盤は、いらない」80頁)に出ている。本稿執筆のためそこを開いたのだが、同ページの終わりから3行目の(私も「はじめに」のページで使っている)「アニミズム」が目を引いたこともあって改めて読み返してみた。そして、今更ながら大落胆した。彼は朝比奈のブルックナーの終演後、客席で「近代に対するイラダチが朝比奈人気を生み、そういう批判を日本的なアニミズムによって解決しようとする朝比奈の勇敢な姿を(その方法では何も乗り越えることができないと承知しながらも)頼もしくさえ思った」のだという。そもそも「近代に対するイラダチ」をいきなり「そういう批判」に置き換えるのがかなり無茶だし、彼が勝手に朝比奈人気の原因とした「批判」をこれまた朝比奈が(聴衆のために一肌脱いで)解決しようとしているなどと勝手に決めつけるのは無茶苦茶である。(ましてや、「近代」の対立概念として「日本的なアニミズム」を安易に持ち出すなど言語道断、幼稚極まりない。)その勝手に創り上げた無茶苦茶を、またしても勝手に「何も乗り越えることができない」と一方的に断ずるのだから、時間をかけて造った砂の城を自分で壊して喜んでいる子供と一緒である。あるいは自己虫の日記みたいである。(もちろん「地下室の手記」ほど上等なものではない。)「何も乗り越えることができないと承知しながら」「頼もしく思う」のような矛盾を平気で書いているが、それが些細に感じるほどプロの手になるものとしては恥ずかしい文章ではなかろうか。

追記2
 後日、(某所のような完全匿名ではない)クラシック専門掲示板上で当盤の演奏について活発に議論されているのを見つけたが、上の浅岡と鈴木同様、実演を聴いた人達の間には「感激しました」「とてつもない凡演に聞こえました」と賛否両論あった。一方、ディスクで初めて聴いたらしき投稿者でも事情は同じであった。満足したという好意的な意見が複数から寄せられていたのであるが、それに対して「正直、この演奏がなぜ伝説といわれるのか、私には全く理解ができませんでした」という試聴後の感想を書き込んでいたS氏が目を引いた。氏は特にN響の雑な演奏を繰り返し糾弾していた(テイクを編集してCDを製造販売したレーベルへの攻撃も執拗であった)が、極めつけというべきがこれ↓

 多くの方が朝比奈がN響を振ったブル8だ!ということで過大評価しすぎていると
 思います。私はこれでも朝比奈先生のファンです(笑)大変尊敬もしております。
 しかし世の中のオーケストラの実情を知れば、必ずしもいつも本気で取り組んで
 るわけではないという事が分かりますよ。
 例えば97年当時、「朝比奈がブル8振りに来る!!」という事態になっても突然
 本気になったり、トップを全て最優秀メンバーで固めたり、というようなことは
 しないのです。
 ベルリンフィルやウィーンフィルならば、また話が違いますがね。

 もしも、世界の巨匠朝比奈隆が、日本が誇るオーケストラNHK交響楽団で、ブル
 ックナーの交響曲第8番を演奏した録音である、ということで、オーケストラのメ
 ンバーも死に物狂いで必死に弾いたに違いない!音のヒックリ返りやアンサンブ
 ルのズレもそれ故だろう!などと考えておられる方がおりましたら(いないと思
 いますが)、そういうことは全て頭から消し去って演奏を聴くべきだと思います。
 思い込みで演奏を評価することは評論家さんたちだけで十分です(笑)

「最後のはともかく、第1節の『(笑)』はいかんやろ」と思ったが、それは措く。 それにしても、実演を聴いたか否かを問わず、ここまで毀誉褒貶の激しい演奏というのはいったい何なんだろう?(94年盤はここまで極端ではない。)要は当盤から「何か」を感じ取れた人にとっては「かけがえのないもの」であるし、そうでなければ「まったく無価値」なのであるが、その「何か」が何であるかが私には全くわからないのだ。( よって、長々と書いた割に本文では奥歯に物がはさまったような中途半端な評価になってしまったのであろう。)やっぱり「触らぬ何とかに祟りなし」のままにしておくのが良さそうだ。

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