交響曲第9番ニ短調
朝比奈隆指揮東京交響楽団
96/04/13
Pony Canyon PCCL-00519

 本来なら入手しているはずがなかったディスクである。実は不覚にも大フィル95年盤と間違えて買ってしまったのだ。朝比奈3度目全集の内で未入手だったその大フィル盤を購入することにしたが、たまたまhmv.co.jpがセール中で生協価格と同じく15%引きだった。同価格なら各種ポイントが付く分だけ得をするため、(フロリアン7番と同じく)そっちに注文したのだが、散々待たされた挙げ句に入荷遅れのメールを送ってきた。やむなくキャンセルし、結局は生協オンラインショップで買うことになった。ところがである。seikyou-internetが別サイトに移行してからは購入手続きが非常に煩わしくなっていた。検索はやりづらく、結果も一覧表示ができなくなり詳細データも見られなくなった。あらゆる点で改悪である。(そもそもNetscapeでは全く使えなくなってしまった。)それで手間取ってイライラしている内に、つい魔が差したように同じレーベルの東響96年盤をカートに入れてしまった。(余談ついでだが、hmv.co.jpもシステム変更の度に使い勝手が悪くなっており、2004年の変更時にはネット掲示板でも大いに不評を買っていた。私は既にその前の変更によって自室の8500では重すぎて見られなくなってしまった。また、ここでもExplorerでないとうまく表示されず、わざわざ実験室に行ってG4で閲覧する羽目になった。非常に面倒くさく、この点では「塔」と「尼損」のサイトよりも圧倒的に劣る。ところで、あの店が「犬」と呼ばれているのはなぜだろう?)
 当盤は朝比奈の9番としてはあまり高く評価されていないらしい。晩年の録音をことごとく「超名演」としているサイトですら、この演奏には例外的にダメ出ししていたので、後で注文間違いに気付いた私は入荷前からいやーな予感がしていたのだが、不幸にもそれは的中してしまった。相変わらずのテンポユサユサ攻撃、つまり私にとっては許し難い逸脱行為である。それも「結局この人は何も学ばなかったのだろうか」(暴言)と思ってしまったほど酷い。しかも間延びしまくりのユルユル演奏で、終楽章ラストのホルンの持続音など聴いていて情けない限りだが、オケが下手というよりは指揮者のノロノロテンポ設定に付いていけない感じである。ところが、第1楽章が約28分なのに対し(表記されているトラックタイムは拍手込みなので正味では)終楽章はわずか24分48秒しかかかっていない。シューリヒト&VPO盤ほど酷くはないが、両端楽章のバランスは良くない。そして、彼の95年盤よりも悪化している。これも途中の無茶なテンポいじりのせいである。「頼むからいじるのは庭だけにしてくれ」(またしても暴言)と言いたくなるほど失望した。(ある朝比奈のブルックナー比較試聴サイトの「全体に厳しさと生命力に欠け、何かモタついた印象を受ける。聞いていて余り楽しさを感じさせない演奏だ。」というコメントに言い尽くされている気がしたので、これ以上は書かない。)見事なまでに金をドブに捨てた格好だが、とりあえずディスク評だけは残しておくことにする。(あとは知らん。)こんなことなら同じ東響でも名盤の声が高い91年盤(「テ・デウム」との2枚組)や帯に「全ての演奏を凌駕する」と書かれているらしき93年都響盤にすれば良かった。特にトータル60分を切る快速演奏らしき前者は、他盤との比較という点でも価値があったと思うが、すべては後の祭りである。(ただし、宇野功芳は9番大フィル95年盤の解説にて、それら2種の録音は「マイクの位置が遠く、ときに隔靴掻痒の憾みがあった」と書いている。)
 ところが、当盤収録の演奏(東響第425回定期演奏会)を実際に聴いた浅岡弘和は「朝比奈隆がまたしても驚くべきブルックナーの9番を振った」として非常に高く評価していた。(先述したように私はそうとは全く聞こえなかったが、某氏のように「名演とは技術ではなく雰囲気から生まれるもの」といった低次元の意見を述べるつもりは更々ない。) 私の印象と同じく、技術的には難のある演奏と彼も思ったようだが、「朝比奈の確信に満ちた強靱な音楽作りの中では響きが混濁したり、ミュートした金管が下品な音を立てたりしても全く気にならない」らしい。(しかしながら、同じコンサートに居合わせてもアンチ朝比奈派は完成度の低さに嫌気がさして席を立ちたくなってしまうのだろう。)さらに、「思いがけぬ激しいアッチェレランドの掛けられた第1楽章第1主題提示」や「音楽がとりとめもなくさまよっている内に勝手に第1主題が再現されてしまう」など、私は読むだけで聴く気が失せてしまうけれども、(そして確かにその通りの演奏なのだが、)それも彼には「超人的巨大さ」「融通無礙さ」と感じられたようである。おそらくは「確信に満ちた強靱な音楽作り」といったものがディスクには入らない「随伴効果」の類なので、実演を聴かないことにはどうにもならないということだろう。また、「ゴッホの『画』と一緒で造形が確かなら細部の多少の乱れなど問題にはならない」とあるから、彼がこの演奏を「造形が確か」と思っているのは間違いないが、それも私との決定的違いである。(ちなみに、私は絵画ではモネとミレーがとりわけ好きで、ルノワールはあまり好きではない。ゴッホもまあまあ好きだが、もちろん彼の造形はしっかりしていると思っている。)また、浅岡の「朝比奈がゴッホならルノワールはカラヤンだ」というのもピンとこなかった。(私の好みは断然「カラヤン>ルノワール」だが)後半部はまあ解る。しかし、「朝比奈がゴッホ」は全く不可解である。聖職者になりたかったというゴッホに近いのは、(浅岡によると)世俗性には長けていないはずのヴァントではないかと思うのだ。「プロテスタント風ブルックナー」というのはまさにピッタリだし。

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