交響曲第7番ホ長調
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
01/05/10
EXTON OVCL-00068

 当盤のトラックタイムは92年盤のそれと似ており、快速テンポによる若々しい演奏となっている。 朝比奈のブル7としてはラス前に当たる演奏(大阪ではラスト)ということだが、最晩年にもかかわらず弛緩していないのは立派だ。録音年月日を見ると1日だけだから1発録りだろうか。部分的に修正はあるのかもしれないが、時に「決定盤」扱いをされることもあるフロリアン盤よりも精度ははるかに高いし、スケルツォのテンポが92年盤より若干遅くなったため4つの楽章のバランスも良くなっている。好き嫌いでいえば勢いを買って92年盤だが、完成度では当盤がやや上回ると思う。ただし、チェリやマタチッチのディスク評ページに書いているはずだが、トラック5(ボーナス)のリハーサル風景が邪魔で大減点。別CDに収録するというならまだ許せるが、これでは観賞の妨げにしかなっていない。
 ところで、解説(またしても宇野だぁ!)によると当盤録音の15日後に演奏された都響盤では、「従来のこの指揮者のイメージをくつがえすような美演」を繰り広げたらしい。これに対して当盤は「硬質で結晶化されたひびきが目立つ」ということである。(余談だが、この評論家が好んで使う「結晶化された」という褒め言葉は私にとってまったく意味不明である。尿道や膀胱の結石は結晶そのものだし、痛風の原因となるのも針状に結晶化した尿酸である。「結晶化すなわち善」では決してない。何が結晶化したのか、それによって以前と比べてどう変わったのかを説明しなければ、結局は何も述べていないのと同じではないかと私は思っている。結晶構造を持たないがゆえ優れた特性を示すアモルファス合金のような素材もあるのだし。ちょっと理屈っぽいかな?)浅岡弘和も、わずか3週間しか日付の違わない朝比奈の7番演奏2種(92年9月の大フィルとのキャニオン盤と新日フィルとのフォンテック盤)が全然違うとして、「日々、新たなる境地をめざす巨匠朝比奈隆!」と絶賛していた。それに関係したエピソード(ブルックナーではなくてブラームスだが)をあるサイトで見かけたので、以下はそれを引きながら延々と脱線するつもりだ。
 そのサイトでは「朝日名 隆」「西条石頁夫」などと名前を捩っていたが、誰を指しているのかはすぐ判る。何でもその評論家が朝比奈のブラ1の演奏を聴いた後に指揮者の楽屋を訪れ、予想外に速いテンポだったことに触れると、「巨匠」はこのように語ったということだ。

 実はこの間クレンペラーのレコードを聴いたのでね。
 フルトヴェングラー大先生の真似したらバチが当たるけど、
 クレンペラーならまあいいかなってんで、
 今度はちょっと試してみた。ハハハ。

それを聞いた評論家は「92歳になっても相変わらずしゃれっ気の旺盛な人だ」と思ったらしい。そして、それを読んだサイト作成者の感想がこれ。

 私はこれを読んで「こいつは、バカか。」と思った。
 反射的に心底そう思った。
 それをヘラヘラ書いているこの評論家も同罪だなと思った。

スクロヴァチェフスキを高く評価する一方で、ノリントンには「三行半を突き付けた」と書いているなど、私はこの人とはあまり趣味が合わないのであるが、ここで彼の書いたことは正論だと思った。(ちなみに、この逸話は他のサイトでも目にした記憶がある。)
 その日の思いつきでテンポをガラッと変えるのは、本人としては面白かったのかもしれないが、そして(ディスクからはそれほどの演奏とは感じられなくとも)コンサートに詰めかけた聴衆には超名演と聞こえていたことまでは否定しないが、このような話を聞くと「結局この人は何がやりたかったんだろう」と思わずにはいられない。どうも頑固爺ヴァントのように1つの道をどこまでも突き詰めるということには興味がなかったようである。けれども、朝比奈のブルックナーの目まぐるしいスタイルの変化を「螺旋の山登り」に喩え、さらに「巡礼とは決して辿り着いてはならずブルックナーへの道は『迷い』すなわち試行錯誤以外には有り得ない」などと肯定的に評価していた浅岡には、むしろヴァントの求道的なやり方が「唯一つの正しいブルックナーなどというお気楽な代物」と映っていたのかもしれない。(2005年6月追記:食い下がるようだが、三次元的に位置が変わっていなければ「山を登る」でも「深く掘り下げる」でもない。そういうのは「堂々巡り」という。あるいは私の立って眺める場所が悪かったのでそう見えていたのだろうか?)
 ついでに書くと、朝比奈の3度の3番録音ではエーザー版→ノヴァーク2稿→改訂版と全て使用版を変えていたし、8番ではハース版を基本にしながら例のアダージョ10節をカットしたり、逆にノヴァーク版にそれを付加したりと実にちゃらんぽらんなことをやっていたらしい。これも浅岡にとっては「弘法筆を選ばず」ならぬ「朝比奈、版を選ばず」として格好の絶賛話の種になるらしく、それはそれで別にどうでもいい。ただし、ならば日頃この指揮者が語っていたらしき「私は愚直、ブルックナーも愚直」に対しては疑問を投げかけずにはいられない。(そういえば、浅岡も最初は「いかにも愚直をモットーとする彼らしい」などと書いていたのに、いつの間にか「愚直どころではない。こんなにうるさいオッサンとは思わなかった」に変わってしまっている。)臨機応変に版やテンポを変えるというのは、「愚直」というよりはむしろ非常に目先の利く「小器用」タイプの指揮者のやることではないか。これに比べたら、9曲とも重々しい響きでベートーヴェンを録音してしまったカラヤンの方がよっぽど融通の利かない「不器用」タイプではないかと思うのだ。(音質の違いこそあれ、60〜80年代の全集録音が全部そうなのだから。)朝比奈の「愚直」は単なる照れ隠し、あるいは何かの冗談と受け取った方が良くはないだろうか? 何せ彼はお笑いの総本山、関西の人間なのだから。(生まれは東京らしいが。)「関西人」でまたしても脱線話が閃いたのでさらに逸脱する。
 とにかく「ブルックナーの交響曲」でも何でも、朝比奈のインタビューからは知性があまり感じられない。(「ギュンター・ヴァント大いに語る」とは大違いである。彼は版のことになると怒りを露わにするなど感情的になり、また自分の名声に関わることでは世俗への執着が顔を覗かせるものの、基本的には理性的に受け答えするという姿勢を崩さない。)「私の方は『ああ、そうですか』なんていい加減なものです(笑)」といった半ば投げ遣りな答え方からは、彼の大雑把な性格がそのまま音楽にも表れているんじゃないかとすら思っていた。しかしながら、それは関西人特有のサービス精神の表れとして好意的に受け取るべきではないかという気がだんだんとしてきた。要は笑いを取ろうとしただけなのだ。上で書いたようにマジで腹を立てたりするのは野暮というものだろう。(関西では一般人も自然とボケとツッコミのタイミングを会得するようになる。テレビに出てくる素人の話が面白いのはそのためである。ちなみに、朝日新聞社による「日本人と笑い」をテーマとした定期国民意識調査の結果が2005年1月3日朝刊に掲載されたが、それによると「冗談が最も通じそうな地域」は近畿が44%で圧倒的1位だった。)先ほどは「知性が感じられない」などと失礼なことを書いてしまったが、テレビで観た彼の話しぶりからはいつも頭の回転の良さが感じられた。(年齢を考えたら驚異的である。)漫談や落語の道を選んでいたとしても(←間違っても顰蹙を買う「いたら」はダメ)一流になっていただろう。
 ここから先はさらにどうでもいい脱線話。朝比奈が使っているのは耳にしたことはないが、関西弁は「ちゃいまんがな」「なにゆうてまんねん」といった字面あるいは言葉の響きだけでも何となく可笑しさを感じさせる。(ちなみに、私は近畿地方、関西地方としては極東地域に住んでいるので、いわゆる「コテコテ」の関西弁は話せない。とはいえ、本場でもお笑い芸人のような話し方は見られないということである。しかし、テレビの影響というのは恐ろしいもので、 最近は児童が漫才コンビみたいな「関西弁」の会話をするようになったと嘆く教師の談話が新聞に載っていた。)以前から疑問に、そして不満に思っているのだが、外国文学の翻訳では、どうして方言に関西弁を使わないのだろうか。例えば米合衆国の南部を首都のある(つまり関東に相当する)北部に対抗する一大勢力と考えるのであれば、その訛のきつい英語は関西弁にこそ訳すのが適当だと思うのだが。ところが、マーク・トウェインの作品中では、アフリカ系奴隷の台詞に「おら・・・・思っただよ」「・・・・だべ」のような言い回しが用いられている。フォークナーもそうだし、農村を舞台としたロシア文学でも状況は似たり寄ったりだ。やっぱり雰囲気がぶち壊しになってしまうことを恐れるあまり、関西弁は敬遠されているのかもしれない。私がこれまで読んだところでは、日本の北部地方で話されている方言から、いかにもそれらしく響くような表現を抽出し、それらをまとめた一種の「方言」が一般的に用いられているように思うが、これは北日本に対する差別には該当しないのだろうか?(関西もそうだが、南方の言葉が翻訳で使われているのも見たことがない。「じゃけん」「ばってん」「ですたい」等々、悪くないと思うけどね。→2005年10月追記:今月からNHKラジオドイツ語講座を聴いている。完全に忘れてしまわないためである。土曜日の "Deutsch ist easy" はその名の通りだが、金曜日の「読んで味わうドイツ語」は語彙が圧倒的に不足している私にはかなり難しい。とりあえず聞き流すだけでも続けてみよう。ところで、14日放送分のテキストでは試みとして南独出身女性の台詞を京都弁に翻訳していた。「あれ、この坊(ぼん)を見とくれやす、やきもち焼いたらあかんえ、パウル!」なかなかいい。)

おまけ
 上の「こいつは、バカか。」で思い出した。これは「レコード芸術」の朝比奈追悼特集で紹介されていたティンパニ奏者の話だったと思うが、ブルックナーの土壇場で大音響のため他の楽器が全く聞こえず、どこで止めていいのか判らなくなった、仕方なしに目をつぶって「エイヤッ」とばかりにトドメの一発を思いっ切り叩いたら、丁度そこで音楽が終わり演奏会は大成功だったという。これには呆れてしまった。(ヴァントが知ったら鼻でせせら笑うような話だ。彼なら最後の1音が寸分の狂いもなくピッタリ合うまで執拗にリハーサルを繰り返したに違いないし、あるいはこのような事態までも予め想定し、奏者に耳栓をさせて目だけでも百発百中「バシッ」と決められるようになるまで決して家に帰さなかったかもしれない。)宇野&日大管の4番のようにエンディングが崩壊しなかったのは運が良かったというだけではないか? こんな「結果オーライ」みたいな逸話(アマチュア並)までが「美談」に祭り上げられるという風潮は大いに問題ありと私は思うのだが、あるいは「これを偶然の出来事と笑う者に、芸術の心は決して理解できないであろう」と誰かに非難されるかもしれないな。

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