交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(93)
93/07/21&22, 23, 25
Pony Canyon PCCL-00472

 録音年月日が少々ややこしい書き方になっているのは私のせいではない。最初は「93/07/21〜25」としていたのだが、やはり3会場(延べ4日間)で収録された音源を使用した(浅岡弘和は「いいとこ取り」と書いている)ブレンド盤であることを正確に示すため後に修正した。(他サイトには23日サントリーホールでの演奏が主体で、それのみを使用した別盤も後に出たとある。)浅岡弘和も 「いいとこ取り」と書いているが、不自然なところはなく鑑賞にも問題はない。
 その浅岡だが、かつては自身のサイトにこのようなことを書いていた。

 もっともクナッパーツブッシュや朝比奈も「ロマンティック」だけはダメなので、
 この曲はブルックナー指揮者にとって鬼門といえるかもしれない。

 この曲に関してはクナ、シューリヒトを始め、マタチッチ、ヨッフム、朝比奈、
 レークナーと並み居るブルックナー指揮者達が枕を並べて討ち死にしており、
 「ロマンティック」はブルックナー指揮者の鬼門なのであろうか。

最初の引用箇所の「だけ」には大いに異論があるが、それについてはここでは触れない。下の「討ち死に」は言いすぎのようにも思うが、どちらも「ブルックナー指揮者は4番は苦手」で内容としては同じである。私はシューリヒトのSDR盤(スイス・ロマンド管とのChaconne盤は改訂版使用なので評価が難しい)やヨッフムでもACO盤(Tahra)などはなかなかの演奏と評価しているのだが、彼はそれらを聴いたのだろうか?(入手容易なSKD盤はさすがに聴いているだろうから、ヨッフムについては「討ち死に」と考えているのはたぶん間違いないが。)また、レークナー(レーグナー)盤も初めから異色演奏として聴けば感心する所は少なくない。それはともかくとして、ならば4番で名演奏を成し遂げた指揮者は、彼の「ブルックナー指揮者リスト」からは外れると考えても良いのだろうか? (蛇足だが「ブルックナー指揮者であるならば4番演奏は苦手である」の対偶は「4番演奏の得意な指揮者はブルックナー指揮者ではない」なので、論理的にはそうなる。)ここが非常に気になる。(ちなみに、おそらく大したものにはならないだろうが、「『ブルックナー指揮者』について考える」という文章をそのうち「その他」ページ用に執筆するつもりである。)例えば、「彼の新録音はウィーン・フィルによる『ロマンティック』としては最美のものであった」とまで褒め称えていたアバドにしても、あくまで「装われた優等生」であって「ブルックナー指揮者」としてはまだ「見習い」程度ということであろうか? 他に彼が取り上げたヴァントやチェリビダッケに加え、私にはブロムシュテットやスウィトナーなども実にさりげないスタイルで(=特に困難さを感じさせることなく)名演を実現してしまっていると映るのだが、それも「ブルックナー指揮者でもない彼らが偶然上手くいっただけ」ということになるのだろうか? さすがにこれは飛躍し過ぎかもしれないので、「『どんな指揮者にも向き不向きの曲がある』ではいけないのだろうか?」という問題提起にしておく。そういえば宇野功芳も「ドイツ・ロマン的な要素が強い4番は、通常のブルックナー・スタイルでアプローチすると無味なものになりやすく」などとあちこちに書いている。(これはヴァントBPO盤の解説から引いた。なお、朝比奈のブルックナーCDとしては極めて異例のことであるが当盤の解説は宇野ではない。)けれども、彼らのようにこの曲だけを特別視するというのが私にはどうもよく解らない。(宇野などはそれに留まらず、自分で振る場合には好き放題やっているのでさらに始末が悪い。とはいえ、私も3番2稿や6番については「フツーにやると退屈」などと勝手なことを喚いてきたので、これ以上トーンを上げると自分の唾を顔面で受ける事態に陥ってしまう、いや既にそうなってるような気がしてきたので、この位でブレーキを踏んだ方が良さそうだ。)何にしても、そんな風に朝比奈の4番にはダメ出ししてきた浅岡が、当盤を聴いてそれまでの評価をガラッと変える。

 「ロマンティック」となるとさらに驚かされる。いったい昔の朝比奈の
 ブルックナーの特徴であった力みがこの曲の場合、それまでことごとく
 マイナスに作用し、響きを汚くしていたのだが、この盤ではそういった
 欠点が全て解消されている。

確かに響きが汚いと感じるところは全くなかった。 が、そんなムツカシイこと言わんでも、録音が超優秀であること、そしてアンサンブルの精度が89年盤より数段上がっている分だけ聴き応えのあるものになっている、で済んでしまうように私は思うのだが。(冒頭のホルンにも全く危なっかしいところがない。まさか奏者が編集可能であることを予め知っていたため、ノープレッシャーだったからという訳でもあるまいが。)「力み」に関しては新旧両盤に大きな違いは認められないと私は思った。ビクター全集盤ページにも書いたが、朝比奈の4番はスケール感よりも推進力を前面に出す快速型で一貫していた。(そのため最晩年でも弛緩することがなく、N響との演奏でも9番は例によって全くダメ、8番も忘却の彼方へ直行したのだが、4番は予想外に若々しい演奏として最後まで興味深く聴くことができたのもあちらに書いた通りである。)その点でも、音色が明るくて響きが開放的であるという点でもヨッフム&SKD盤と何となく似ている。いやいや、印象はヨッフムの4番中で私が最も高く評価しているACO盤と比較しても互角以上である。
 上手く言えないので感覚的な表現になってしまうが、楽員が積極的に曲に取り組む姿勢が伝わってくるような演奏である。トータル68分台というのは決して短い部類には入らず、ハイティンク&VPO盤とほぼ同じなのだが、躍動感ははるかに上である。「前へ前へ」という気概が感じられるが、決して前のめりになっていないのはテンポ設定が妥当なことと、アンサンブルがキチッとしていてリズムが正確なためであろう。特に感心したのは終楽章の静かな部分である。例えば冒頭の騒ぎが静まってから、3分30秒以降のゆったりした歩みは少しも乱れない。この位の精度があって初めて「滋味溢れる表現」というのが生きてくる。(というより、そういうレベルに達していない粗雑演奏に対しては、決してそんな言い回しを使ってはいけないのではないか。)4番の方が9番よりも揺さぶり攻撃には強いと私は考えているのだが、ここではなぜか朝比奈は恣意的なテンポ変更をあまり使っていない。ならば、どうしてこういうスタイルで9番を演奏してくれなかったのか、とそれが残念でならない。
 最後にまたしても浅岡から引かせてもらう。

 ブルックナーの特徴であった力みがこの曲の場合、それまでことごとく
 特筆すべきはフィナーレのコーダだろう。ナマではさっぱり聞こえなか
 った呻くようなヴィオラの対旋律が最優秀の録音により、くっきりと浮
 かび上がってくる。この部分、チェリビダッケの超常的解釈(恐らくシ
 ベリウスの「6番」の第3楽章がヒントになっていると思われる)に対
 抗するにはこれしかあるまい。

上を読んでいたのでジックリ耳を傾けて聴いた。確かにやっていた。が、耳に付くのは18分15秒からの1分ほどで、次第に他のパートの中に埋もれていく。「対抗」なのか「模倣」なのかは知る由もないが、何にせよチェリと比べたら随分と控え目であり、「一度聴いたら耳を離れない」というようなことはない。こうなると、やはりミュンヘンと・・・・・エッ?「もおええ」って? ハイ、そうですね。

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