緊急企画!(←大袈裟な)「パラグアイの音楽家たち(Los músicos paraguayos)」
 〜「ウパカライ(註)の思い出」と「鐘つき鳥」しか知らない人のためのパラグアイ音楽入門〜

(註:グアラニ語の "y" は仏語の口を丸めない方の「ウ」音に近い。なので "Ypacarai" を西語風に「イパカライ」と表記するのは明らかに誤りである。実際聴いてみたら判りそうなものだが・・・・酷いのになると原題まで "Ipacarai" と改竄している国内盤もある。到底許せん。私としては本来西語とは縁もゆかりもない地名であることを示すため、"Ypakarai" と記したいぐらいだ。)

 年末年始休みを利用してちょっと書いてみようかという気になった。パラグアイ音楽にはグアラニ語で歌われる曲もあるが、ひとまず西語圏音楽のページに入れることにした。
 最初は大嫌いだった。既に他ページに書いたが、ほとんどクラシックしか聴かなかった人間がその大好物をいきなり取り上げられてしまったのだから、その苦痛は並大抵のものではない。しかも地元の中波ラジオ曲(後述)から流れてくる音楽といえば、「パラグアイよいとこ一度はおいで、あーこりゃこりゃ」みたいな脳天気なものばかりだったのである()。冗談抜きに「もう勘弁してよ」という気分だった。もっと詳しく述べると、私が聴かされていたのはポルカやガローパに分類されるらしき3拍子または6拍子の舞踊系音楽で、ヴォーカル(西語あるいはグアラニ語)付きのものが多かった。伴奏はアルパ(パラグアイハープ)とギターが受け持ち、時にパーカッション、キーボード、あるいはアコーディオンが加わることもあった。特徴的なのがエンディングで、アルパが「ドミソドミソ・・・」と分散和音(アルペジオ?)で2〜3オクターヴ駆け上がった後、1オクターヴ下の「ドー」の全奏で締め括る。あまりのワンパターンに終いには腹が立ってきた。一時は「こんなんばっかし聴いてたらアホになる」などと暴言を内心つぶやいていたはずである。
 ところがである。滞在も2年目に入ると、どういう訳か「こんなん」が次第に心地良くなっていった。自分でもビックリするほどの心境の変化である。日陰でも気温が40度前後に達する夏の午後、炎天下で作業をしようものなら間違いなく熱射病でぶっ倒れてしまう。そんな酷暑の中では何も考えず(ボケーッとしながら)マテ茶を飲みながら日が沈むのを待つに限る。(なお熱い湯で出すマテ茶は "mate" だが、冷たい水で入れるのを "terere" と呼ぶ。テレレは電気冷蔵庫が使える場所なら氷水で飲むのが常道だが、私が住んでいた村では夢のまた夢だったので、どっかで書いたように水差しを濡れタオルで巻いたり素焼きの瓶を使うなど、気化熱を利用して少しでも水温を下げるべく工夫していた。)そういう状況で聴くものとしてパラグアイの音楽はまさにピッタリだったのだ。というより、そのために発展してきた音楽という気さえする。(そういう場合、シリアスな音楽は全く不向きである。そういえば、私がブラームス好きと知った同僚 (音楽が専門) が第3&4交響曲のダビングテープをくれた。それを何度か聴いたのだが、例のやたらと渋くて陰気な曲調はあまりにも場違いに響き、TPOに相応しい音楽というのは確かにあると痛感した。なお、夜間に欧州の海外短波放送やウルグアイの中波局でクラシックを聴いていたのは既に他ページに記した。日中は電波が遠くまで届かないので仕方がなかった訳だが・・・・)
 私が愛聴していたのは平日夕方(たしか16〜18時)のリクエスト番組だったが、やがてリスナーの人気が特に高い曲があると分かってきた。それらを何度も繰り返し聴く内に題名やメロディはおろか歌詞の一部まで憶えてしまうほど愛着を抱くようになるものも出てきた。帰国の半年ほど前からだったろうか? それらを日本に戻ってからも聴けるようにとラジカセ(先輩の置き土産)でセッセと録音するようになった。最終的に46分テープで3本になった。それらは今も手元にある。(大切な音源ゆえ劣化が気になりだした頃、コンポを買ってMDに移したことも既述の通りである。とはいえ、件の放送局は近年になって一部インターネット配信を始めているし、音楽番組をMP3ファイルとしてダウンロードすることも可能になっている。更新も時折行われている模様であるから、集めようと思えばコレクションも増えるだろう。ということで稀少価値は随分と減少してしまった。)
 ちょっと横道に逸れるかもしれないが、例のH氏の見解によると、私が集めた音楽は必ずしも典型的なパラグアイ音楽ばかりではないということである。以下、記憶の糸を辿りながら綴ってみる。(ちなみに氏は後にボリビア人女性を娶ることになったが、そこに至るまでの実に遠大な構想には感嘆せずにいられなかった。又聞きゆえ大まかなことしか知らないし、それ以前にプライベート話への深入りは避けるべきなので具体的には書かないが、その用意周到さは何事につけ面倒くさがりの私には絶対に真似のできないものである。)私が住んでいたのは "Chaco" と呼ばれる西部地域である。(なお「グラン・チャコ」は日本の社会や地理の授業で使う地図帳にも記載されており、アルゼンチンとパラグアイの両国にまたがっている。)面積は国土の6割を占めながら人口比は数パーセントに過ぎないという超過疎地帯だった。(シベリアを想像していただきたい。)何でそうなるかといえば気温が高く降水量が少ない。(パラグアイは西へ、そして北へ行くほどその傾向が強くなる。)しかも常時流れている河川は皆無、さらに地下水には飲用や耕作が不可能となるような濃度の塩分が含まれている。要は劣悪環境ということである。古くから先住民(indígena、決してindioに非ず!)が住んでいた。(まあ一種の隔離政策である。ちなみに現地で "paraguayo" (パラグアイ人) というのはあくまで圧倒的多数派の混血 (mestizo) を指し、生粋の先住民はそうとは見なされていなかった。というより双方とも同列扱いを極端に嫌がっていた節がある。)ただし、首都アスンシオンから北西に500kmほど離れたところにはプロテスタントの一派であるメノナイト(西語では "menonita")の大規模な入植地があり、様々な先住民部族と共存していた。彼らは教義上の理由で兵役を拒否したため欧州にはいられなくなり、北米に渡った後も度重なる迫害を受けたが、ようやく南米各地に安住の地を見つけたという非常に暗い過去を持っている。彼らの日常会話は「ナショナル・ジオグラフィック」2006年7月号で取り上げられたハテライトと同じく低地ドイツ語(niederdeutsch)で行われていたが、大学の教養で第2外国語として独語を学んだ程度の私ではほとんど理解できなかった。さて、今もそうかは知らないが、当時パラグアイのチャコ地方には "Colonia Menno" (1927年入植)、"Colonia Fernheim" (1930年入植)、"Colonia Neuland" (1948年入植)という3つの居住地があり、うち "Fernheim" の最大都市が Filadelfiaだった。先に触れたリクエスト番組を制作していたラジオ局 "La Voz de Chaco Paraguayo" (略称の "VCP" の他、コールサインの "ZP-30" も符帳としてよく使われていた) の所在地でもある。今思い出したが西語およびグアラニ語のアナウンサーは "Elvio Sárate" と "Miguel Ángel Florentín" という名前だった。)この放送局にはパラグアイの公用語である西語とグアラニ語、メノニータ向けの標準ドイツ語と低地ドイツ語のみならず、先住民の複数言語(私が確認しただけでもニバクレ語、レングア語、アジョレオ語)、さらにブラジルからの出稼ぎ労働者向けのポルトガル語や少数派のカナダ系を対象とした英語の番組まであった。ちょっとした国際放送並みである。(パラグアイは「二重言語国家」と言われるが、実際には国民の大部分、つまり混血とグアラニ系先住民の多くは両方を話す。農村ではグアラニ語しか話さない者もいるがメディアの普及で減少しつつあり、逆に西語しか使わない若い世代が都市部で急増しているということだ。それはともかく、先住民の母国語はケチュア語やアイマラ語、それ以外はスペイン語とはっきり分化しているアンデス諸国とは事情がまるで異なる。ちなみに幼い頃から両言語をごちゃ混ぜで使っていることが仇となり、パラグアイの西語レベルはラテンアメリカで異例といえるほど低いという噂を聞いたことがある。)以後さらに脱線。私が住んでいた村では生活物資がほとんど何も手に入らなかったため、約50km離れたフィラデルフィアへの買い出し便がだいたい週に1度出た。時速20km程度のトラクターで。とにかくメノニータ達は(少なくとも見かけ上は)禁欲的な生活を送っていたため、もちろんアルコールは御法度。スーパーマーケットや生協の店内では一切扱っていなかった。とはいえ、別にブラックマーケットなどに行かずともビールやワインは決まった場所で手に入った。それゆえ部外者にはある程度寛容だったと私は思っているのだが、村で年一度開催されるカーニバルでのドンチャン騒ぎがメノニータのオバハンから「悪魔の祭り」呼ばわりされたことに後輩は今でも腹を立てている。ちなみに私達を受け入れてくれたグアラヨ族はカトリックだったが、「改宗すれば援助してやる」という申し出を(隣村が受け入れたのと対照的に)「酒が飲めなくなるのは嫌だ」という理由でキッパリ断ったという実に尊敬&愛すべき勇者達である。
 閑話休題。そんな訳で私の録った音楽は全てVCP所蔵の音源(当時CDはほとんど普及していなかったからアナログディスクかテープ)である。ところがそれを一緒に聴いていた時のH氏のコメントは、首都や彼が派遣された地方小都市の位置する「オリエンタル」(東部地域)で聞かれる音楽とは傾向を異にしているというものだった。確かにそう言われてみれば、私がたまにアスンシオンに出てラジオを聴いても耳に馴染みのある曲が流れてきたのはたった1回である。パラグアイは私が赴いた1989年まで何と35年間もストロエスネル大統領による統治が続いていた。インドネシアのスハルト時代(30年)をも上回る独裁政権だったのである。(その年の初めに起こったクーデターで大統領が失脚→ブラジルに亡命したが、それも首謀者が娘婿だったので出来レースだったとの説もある。ここで唐突に小話。ジャーナリストが南米の某国を訪れ、大統領にインタビューを行った。「あなたの国で一番盛んなスポーツは何ですか?」「もちろんサッカーです。」「クーデターじゃないんですか?」「それは二番目に盛んなスポーツです。」)真偽は定かでないけれど、政治犯が飛行機に乗せられて上空からチャコの密林に落とされていたという恐い話も聞いた。また、最近あるサイトで「拷問、殺人、不正選挙を行って国を支配していました」「一部の政府の建物の写真撮影は、以前は死刑に処されました」という記述も見た。となれば体制の意に添わない音楽が一切許されなかったということも十分考えられる。(ショスタコーヴィチが苦しめられた「社会主義リアリズム」に近いものがあったのだろうか? そういえば彼の回顧録「ショスタコーヴィチの証言」(ただし偽書の疑いが強い)には、生活の苦しさを詠うような吟遊詩人がことごとく処刑され、国家公認の「詩人」 ─実際には音楽はおろか読み書きすらできないような、ただし「印税」という単語だけは知っていたという─ がただ1人活動していたという暴露話が出てくる。さすがにそこまでは酷くなかっただろうが。)その後遺症なのかは知らないが、89〜91年頃はまだ放送できる音楽に制約があったのだろうか。任地で深刻な内容の曲を耳にすることが氏はほとんどなかったそうである。一方、私のコレクションの中にはご当地ソングやラブソング(嘆き節が大半)とは明らかに毛色の違うものも混じっている。例えば最初から最後まで短調による悲痛な曲調のまま、しかも掟破り(?)の4拍子を用いた "Mandyju" (グアラニ語で「棉」)など、まるでアンデスのフォルクローレのようだった。また、綿花の収穫作業を哀愁タップリに歌い上げた名曲 "Cosechero" もしょっちゅう聴いた。歌詞に "La tierra de Chaco ...." とあったので、私はてっきり地元の音楽だと思い込んでいたが、実は正真正銘のアルゼンチン民謡(チャコはチャコでもあちら側)で Mercedes Sosa も録音していると最近知った。他にもVCPからは(もちろん西語やグアラニ語以外の曲は別として)全然パラグアイっぽくない音楽がしばしば流れていたのを思い出す。(日系人がパラグアイ人同様に兵役や公立学校での義務教育が課せられていたのに対し、)チャコのメノニータは国に対する多大な経済的貢献と引き替えに信仰の自由と兵役の免除、および独自の教育を行う権利を得ていたらしいが、音楽についても特に束縛されるようなことはなかったのだろう。このように氏は分析していた。とはいえ、私が帰国直前に首都の宿舎で先述の労働歌を再生していた時のことであるが、小学校で音楽を指導していた別の同僚がそれを聴き、自分の送別会で教え子達が歌ってくれた曲だと教えてくれたから、東部地域における当局の検閲がどの程度のものだったかは正直わからない。長々書いてきて結局これでは情けないが・・・・とにかく私にできるのは自分が聴いてきた音楽について語ることだけだ。
 戻って、特にお気に入りだったのは女性ではリッサ・ボガード("Lisa" と思い込んでいたが、後年H氏にもらったテープで "Lizza"と知ってビックリ)、男性ではラファエル・バルガス(アナウンサーは親愛の情を込めて "Rafaelito Valgas" と示小辞を付けていた)とオスカル・ペレス(こちらはなぜか "Oscarsito Pérez" と呼ばれることは希だった)、グループではケミール・ジャンバイ(Quemil Yambay)、および私の滞在中にデビューしたと思しきテノンデペ(Grupo Tenondépe)あたりである。が、あくまで当サイトではディスク評にこだわりたい。(エアチェックのテープは批評対象外とする。)実は2002年3〜4月に2度目の訪問が実現し、その際に首都のレコード屋でCDを何枚か買ったので主にそれらについて書いてみようと思っている。(実は昨年=2006年夏に3度目の話が持ち上がったのだが、どうやらお流れの公算が大である。私がゴネたのが最大の原因と思われる。)
 ここでトリビアだが、パラグアイは小国ながら私が知っているだけでも世界一に輝いた項目が2つある。(そういえば国旗の裏表の模様が違う唯一の国でもある。それを「トリビアの泉」で紹介すべくフジテレビが取材中であるとの情報をメーリングリストから得たが、その後放送されたという話は聞かない。イマイチ盛り上がりに欠けるネタゆえ没になったのかもしれない。)1つ目は何と政府の汚職度ランキングである。誰が作成しているかは知らないけれど毎年公表されているようだ。私が注目していた頃はアフリカ諸国が上位を占めており、アジアではインドネシア、ラテンアメリカではパラグアイが常連だった。ある年にパラグアイは見事1位に輝き、翌年もカメルーンにトップこそ譲ったものの堂々2位に食い込んだ。ただし「2年連続はさすがにイメージが悪すぎるので審査員に賄賂を贈って2位にしてもらったのだ」という辛口のブラック・ジョークが飛び交った。(これを何で読んだか思い出せなかったので調べてみたところ、上のMLの主催者Tさんのサイトであると判明した。彼のパラグアイ在住歴が長い (90年に移住) こともあり、あそこは日本語による同国関係ウェブサイトとしては質量ともに他を圧倒している。上記出張時には大変お世話になったので、ここに改めて御礼申し上げる。)もう1つは最近になって知ったが音楽ソフトに占める海賊版の普及率である。それにしても99%というのは凄い数字だ。2位中国の85%、3位インドの80%を大きく引き離しダントツである。(これは2003年の調査結果であるが、その後どうなっているのだろうか? この際だから最下位にランクされてはいるものの決して悪くない話もついでに紹介しておく。2006年の世界144都市の生計費調査によると「世界で最も生活費が高い都市」ランキングで前年4位だったモスクワが初めて1位になったそうである。3年連続トップだった東京は3位に転落し、大阪も2位から6位に後退。ちなみにソウルが2位、香港が4位へと順位を上げた。サッカーの不甲斐なさとは裏腹に、アジアはトップテンに4つも送り込んでおり大健闘といえる。さて本題だが、既に匂わせておいたように最下位はアスンシオンで、モスクワの1/3の生活費で暮らせるということだ。やっぱり移住するならあの国かな。)確かに中心街では明らかに違法コピーと思しき商品を所狭しと並べる露天商が道路沿いにひしめき合っていた。私はそれなりに構えのちゃんとした店で十数枚を購入したつもりだが、やはり確率で考えたら多くは海賊盤なのかもしれない。(価格は1枚1000〜1500円程度だったが、一度にこんなにまとめて買う客は珍しいらしく、2枚おまけしてくれた。)試聴はお望みのままにという大らかな国柄のためかビニール包装はなく、それはまあ許せるとしても帰国後再生しようとしたら信号面が傷だらけで、根気よく研磨して何とか聴けるようになった品も何枚かあった。それはともかく、モノラル録音あるいは音楽自体が凡庸というディスクが半分以上だったので大いに落胆した。(今書いていても申し訳ない気分だが、それらはお土産として職場の同僚達に押し付けてしまった。)前段落で触れたお目当ての歌手/グループのうち一握りしか入手できなかったのが何といっても痛い。結局残したのは6枚だけである。また、2006年3月の東京出張時にレコファン渋谷店で見つけたパラグアイ音楽の国内盤2種も持っているので、それらについても併せてコメントすることとした。

Americanta(アメリカンタ)
Lizza Bogado(リッサ・ボガード)
Betty Figueredo(ベティ・フィゲレド)
Aparicio González(アパリシオ・ゴンサーレス)
Los Hijos del Paraguay(ロス・イホス・デル・パラグアイ)
Papi Basaldúa y su Grupo Cantares(パピとグルーポ・カンターレス)
Martín Portillo y Americanta(マルティン・ポルティージョとアメリカンタ)
Quemil Yambay y "Los Alfonsinos" (ケミール・ジャンバイと「ロス・アルフォンシーノス」)

追記
 何とかかんとか(脱線まみれながら)上記音楽家たちの紹介およびディスク評(8ページ分)の執筆を終えたのであるが、一部に80点以上の高得点を付けた歌手はいるものの多分に身贔屓が混じっていることは否めない。これが一線級の実力だとすれば、同国の音楽レベルは残念ながら今後執筆予定の隣国(ブラジル、アルゼンチン、およびボリビア)よりも一段以上低いことを認めない訳にはいかない。最初からアーティスト単位でのページを設けることが躊躇われたのは実はそのためである。

追記2
 本稿執筆直後に早川智三著「アルパの調べと歌 〜南米パラグアイの音楽〜」(知玄舎)という書物の存在を知った。そこそこ値が張る(税込定価2940円)けれども購入を検討中である。なお出版社のサイトで目次を見たが、中で扱われている音楽家の大部分を私は知らない。当サイトで採り上げている歌手および団体の他に見覚えのあるのはホセ・マグノ・ソレールとフリオ・セサル・デル・パラグアイぐらいか。(前者はパラグアイで最も人気のある蹴球団、Olympiaの応援歌 "Olympia es campeón de los campeones (オリンピアはチャンピオンの中のチャンピオン)" を歌っていたはず。ここから長文脱線:私がパ国に滞在していた1990年、オリンピアはあれよあれの快進撃でリベルタドーレス杯を制し、トヨタカップの南米代表として東京で戦うことになった。しかしながら、国立競技場ではACミランを相手に0─3という正真正銘の惨敗を喫した。私は深夜にラジオの生中継を聴いていたが、アホらしくて途中で寝てしまった。ただし、Radio Nacional del Paraguayのアナウンサー、Luis Euriquéの実況だけは忘れられない。あるページに「なさけない声」などと書いた人である。3点目を取られた時、彼は "Gol, gol de Milan" とボソッと言って、つまり南米の中継において敵側が得点した場合の常套手段で流そうとしたのだが、直後に思わず "¡Que fuerte equipo, Milan! (なんちゅう強いチームなんやミランは!)" と大声を上げてしまった。本当に悲痛な叫びだった。が、それくらいミランの攻撃力は圧倒的だった。実のところ周囲は「オリンピアが出るくらいだから勝てるはずがない」などと言っていた。「パラグアイ人」とは見なされていない先住民達の予想ではあったが。翌年の第12回大会でもチリのコロコロがその名の通りにアッサリと敗退。同じく0─3の完封負けだった。今思うに欧州代表との力量差が最も開いていた時代ではなかったか。ちなみにオリンピアは2002年にもトヨタカップ出場を果たしているが、糞イレアル戦 (@横浜国際総合競技場) は惜敗だった。ボールこそ圧倒的に支配されていたものの、枠内に飛んだシュートはさほど多くなかったから私は落ち着いて観ていられたし、後半の終わりにダメ押し点を奪われるまでは勝てると思っていた。金満蹴球団の雑なプレーに「億単位の金を注ぎ込んでこの程度か」と薄笑いを浮かべていたほどである。一方、オリンピアの決定機はGKカシーリャスの美技にことごとく阻まれ、同点かと思ったボレーシュートもポストに跳ね返されてしまった。だからあの試合のMVPは先制点を決めたロナウドではなくゴールキーパー&ポストだと今でも思っている。)こんな体たらくで「入門」ページを立ち上げても「看板に偽りあり」として一笑に付されるだけかもしれない。ただし、私にとって非常に思い入れが深いだけでなく、VCPのリクエスト番組でも圧倒的に人気の高かったQ・ジャンバイ、R・バルガス、O・ペレスなどが件の本では無視されていることを考えると、やはりチャコ住民の音楽の嗜好がオリエンタルのそれと大きく隔たっているのは確かだという思いを改めて強くした。

追記3
 来年の今頃は正真正銘の「緊急企画」を立ち上げてみようかと思っている。ただし、いったん手を付けたからには相当大がかりなものにならざるを得ないため、正直私の手に負えるのか自信が持てない。なのでポシャる可能性も多分にある。

2007年2月追記
 上で触れた本を楽天ブックスから買った。(楽天カード入会やら何やらで2300ポイントほど貯まっていたので持ち出しは僅かで済んだ。)ノーツを除けば客観的記述が並んでいるだけなので、読み物としては決して面白いとはいえないが資料的価値は非常に高い。案の定というべきか、私がパラグアイ音楽についてほとんど何も知らなかったということを改めて認識させられた。だからといって看板を下ろす気は更々ないが・・・・
 なお、紹介されていた何人かの女性歌手のディスクを(本当に入荷するかはともかく)HMV通販が扱っている模様なので、とりあえずカートに突っ込んでいる。ただし、いずれも「発売国:South America」(南米製作盤)でマルチバイキャンペーン税込価格(25%OFF)が適用されたとしても安いもので約2200円、高いものは2800円以上するから、注文に踏み切るかは未定である。(昨年流れた再訪の話が浮上しかけたのだが、やっぱりポシャってしまった。CDを安く入手するチャンスでもあったのだが・・・・残念。)
 それとは別に以下の音楽家のディスク(中古盤)を買ったので評をアップしておく。

 Diana Barboza(ディアナ・バルボーサ)

2007年3月追記
 2月末日をもって長きに渡って実施されてきた「犬」通販のマルチバイキャンペーンが終了してしまうと知り、後悔せぬようにとショッピングカート内の品の注文に踏み切った。とりあえず届いたCDについて評を追加。なお今回上げた2枚やAmericantaなどのディスクはここ(制作レーベルのサイト)で一部のトラックが試聴できる。もっと前にそれを知ってたら片方は買わなかったのに!(結局後悔する羽目になった。)

 Fanny(ファニー)
 Luz Mabel(ルス・マベール)

2008年1月追記
 久しぶりに以下の1件を追加

 Perla(ペルラ)

2008年12月追記
 11ヶ月ぶりに以下の1件を追加

 Los Alfonso(ロス・アルフォンソ)

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註:これまで私が聴いてきたパラグアイの唄からエッセンスのみを抽出すればこんな感じになるだろうか。誰か曲付けて歌ってくれないかな?

 Añatôi mbaraka, jajeroky japurahéi.
 Rohayhu kuñataî, ne porâ eterei.
 Tranquilo, che irû nguéra. Ndaipóri problema.
 Paraguay, ñane retâ, ndaipóri ñembojojaha.

作詩の心得など全くない私だが、韻についても一応は考慮したつもりである。敢えて訳は付けない。(ちなみにパラグアイ音楽の特徴を一語で表すとすれば「トランキーロ」しかないだろう。ブラジルの「サウダージ」同様に他国語への翻訳は非常に難しいけれど。)何にしても日本語の読めるパ国人がここ見たら怒るだろーな、きっと。

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