パピとグルーポ・カンターレス(Papi Basaldúa y su Grupo Cantares)

鐘つき鳥(Songs of Paraguay)
1994
Victor VICG-5341

 ポルティージョ&アメリカンタの中古盤を購入した際、同じ棚に並んでいたので思わず手に取った。ビクターレーベルによる "JVC WORLD SOUNDS" シリーズは既にアジアものを4枚(インドネシア2、インド1、中国1)持っている私だが、パラグアイ編が出ていたとは知らなかった。
 タイトル曲(トラック1)の "Pájaro campana" は、もう飽き飽きの気分なので当然ながら聞き流す。次の "Pedro Canoero" からが本番だ。だが、歌が始まる前の「パラパーパーパ、パラパーパーパ・・・・」の繰り返しによるコーラスからして絶妙。この時点で相当な実力の持ち主ではないかと思ったが、果たしてその通りだった。以後 "Galopera"、"India"、"Recuerdo de Ypacarai"、"Paloma blanca" といった既によく知った曲が並んでいるが、それらの何れもが高完成度。これまで聴いた他演奏に混じっても少なくとも同等以上の出来映えを示している。各人の声はテノンデペ以上にアクが強い。しかもソロパートではかなり大胆な抑揚を付けているので、いかにも仰々しいという印象を受けてしまう。しかし、それがコーラスとなると非常に充実したハーモニーへと変身するのが素晴らしい。(ケース裏に記載されているメンバーは、PAPI、HUGO、YIYO、HILDA MARÍAの4人。ブックレット表紙の写真でアルパを持っているのがリーダーのパピで、その弟2人がギター奏者。女性はヴォーカル専任らしい。ただし、男性3人もコーラスのみならずソロでも歌っている。)解説によるとメンバーは正真正銘の兄弟同士のようだが、おそらく幼い頃から一緒に歌ってきたのだろう。4人の息がピッタリなのも肯ける。(ついでながら、当盤の解説も読み応え十分であるが、執筆したのはクラシック関係でもお馴染みの濱田滋郎である。)ちなみに、この音楽集団の演奏は当盤購入のはるか以前から耳にしていた可能性が高い。チャコでの活動もあと数ヶ月を残すというところでパラグアイ音楽のコレクションを作ろうと思い立ったが、最初にカセットテープに録音した "Che kamba mi" ("kamba" は「黒髪の人」を指すが「私の愛しい人よ」ぐらいの意味だろう)および "Ñemongeta oka"(外での会話)という2曲がたぶんそうだ。合唱時の響きがとてもよく似ている。当時から質の高い音楽だなあと思っていたのだが、改めて聴き返してもその印象は全く変わらなかった。
 当盤でも惜しまれるのが他ジャンルからアルパ独奏用に編曲された2曲だ。(一方、オリジナル曲の トラック8 "cascada" は大変見事な演奏である。)トラック9の "Sinfonía No.40" は、言うまでもなくモーツァルトのト短調である。それを(変音記号を減らすために)ニ短調に移して弾いているけれど、それでもたどたどしく奏でられる例の主題(ファミミーファミミーファミミードー、ドシラーラソファーファミレーレー)を耳にすると白けてくる。次の "Romance anónimo"(禁じられた遊び)も同様。「何でわざわざ苦労して」と言いたい気持ちを抑えられない。せっかく名曲を揃えたのに、これらの凡庸な演奏によって希釈されてしまっている感じだ。とはいえ、それで減点(マイナス5点×2)されたとしても80点は残る。同じ国内盤ながら「パラグアイの大地と香り」より安い(税込定価2500円)し、コスト・パフォーマンスでは圧倒的に上回っているから買うなら当然こっちである。もし今も入手可能であるならば、だが・・・・・なお、"Papi Basaldúa" 名義による同内容の輸入盤 "Tiempo de Amar" がAlulaというレーベルから2005年に発売され、国内外のアマゾン通販で扱っていた模様である。ただし、こちらも現在は例外なく「在庫切れ」ないし "out of stock" となっている。

おまけ
 本文中にモーツァルトの編曲の話が出てきたので、Mecanoの "Descanso Dominical" のページに「おまけ」として記した「バッハ型」と「モーツァルト型」の音楽についてここに書く。
 バッハの音楽はあらゆるアレンジを許容するとともに、それがプロとしての水準さえ保っていれば名演が成し遂げられるという印象を私は持っている。それゆえジョン・ルイスやジャック・ルーシエ、オイゲン・キケロなどジャズのミュージシャンがこぞって採り上げたのだろう。他に「G線上のアリア100%」、「フックト・オン・クラシックス」、「ラヴァーズ・コンチェルト」など成功例は枚挙にいとまがないし、それどころかオリジナルよりも良かったりする。そもそもバッハが残した楽譜に楽器指定が書かれていないことすらある。例えば最後の作品とされる「フーガの技法」がそうで、チェンバロ、オルガン、クラヴィーア (ピアノ) といった鍵盤楽器以外にもギター独奏や室内オーケストラでも演奏されるが、どの形態においても名盤を輩出している。(フォーレもバッハと同種の音楽のような気がする。)
 対照的なのはモーツァルトだ。当盤にも収録されている「哀しみのシンフォニー」こと交響曲第40番ト短調K.550の第1楽章を私はこれまで様々な編曲で聴いてきたけれども、ポール・モーリアにせよ、ジャズにせよ、キューバ音楽風(マンボ)にせよ、ことごとくパッとしなかった。ところがところが、オーケストラによる演奏は大抵のものなら受け入れられるのだ。(もちろんヘタなのは除く。)所有しているディスク7種(トスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルター、セル、クーベリック、ヴァント、そしてアーノンクール)の異演奏に私はそれぞれ美点を認めている。日頃から嫌っている「ハッタリ野郎」の解釈であっても。器楽曲にしてもそうだ。グールドによるピアノ・ソナタ8番イ短調の出だしは何か強迫観念に駆られているとしか思えないほどの超スピード(とても小林秀雄の「疾走するかなしさ」どころではない)、逆に第11番イ長調「トルコ行進曲付き」の両端楽章は常軌を逸しているとしか言いようのないノロノロ演奏である。が、どちらも聴けるし世評も結構高い。かといって、多くのピアニストが採用している中庸テンポの演奏が決して凡庸に聞こえるということもない。そういえば、音楽之友社の人気投票企画「名曲名盤300」では、ベートーヴェンやブラームス、あるいはブルックナーの交響曲では1種もしくは数種に票が集中し、しばしば「決定盤」の様相を呈する(特にベートーヴェンの場合それが後年にも引き継がれる)のに対し、モーツァルトでは散らばる傾向があり、「名盤」が出にくいことが特徴であるといえる。それは協奏曲でも室内楽曲でも声楽曲でも一緒である。作曲者の指定した編成で演奏される限りにおいて、モーツァルトの作品はあらゆるスタイルを受容する。つまりバッハとは異なる意味で包容力を持っているという訳である。そういえば横浜のKさんにも何か書いていたはずと思い当たったので、捜してみたらこんなのが見つかった。

  モーツァルトの音楽の特徴パート2。決定盤が出にくい。これは人気投票を
 見れば明らかで、他の作曲家にはみられないほど票が割れます。これが例えば
 ベートーヴェンなら、おそらく究極というか理想の演奏像というものがあって、
 それに近いものほど支持を集めるということになるのでしょう。つまり演奏す
 る側の問題です。ところが、モーツァルトの場合ははっきりした理想像がなく、
 演奏家の数だけ演奏スタイルが存在し、それが(技巧はともかくとして、まあ
 プロの演奏であれば)音楽性ということではどれも価値を持つ。どうもうまく
 言えてませんね。とにかく多様な演奏が許される。あとはどれが好きかという
 聴き手の問題になってしまう。結局はこういうことではないかと考えています。
  ですから、交響曲についてもワルターだ、ベームだ、いやカラヤンやムーテ
 ィの豪華絢爛な演奏がいい、否とんでもない、やはり古楽器演奏に限るという
 ように意見がバラバラになるのでしょう。ちなみに、僕はクーベリック&バイ
 エルン放送響の後期6大交響曲の3枚組を中古で2000円で買いましたが、こ
 の素朴で中庸なテンポの演奏はなかなか気に入っています。先に述べた決定盤
 がないという理由によって、モーツァルトについては聴き比べをしようとか、
 もっといい演奏を探し求めようという気は起こりません。   (99/01/04)
 
おまけ2
 ところがである。上の印象を覆すに足るようなディスクに昨年巡り会った。ご存知のように2006年はモーツァルトの生誕250年に当たっていたため様々な企画CDが発売されたのであるが、ジャズへの編曲盤もその例に漏れず、再発やオムニバスへの再録も含めて何点も出た。それらの中から私はレイ・ケネディ・トリオが前年に録音した「モーツァルト・イン・ジャズ」(4月発売)を買った。Swing Journal誌の選定による「ゴールド・ディスク」との宣伝文句につられたためである。(6月に発売されたアーロン・ディール・トリオによる同趣旨のCDは25%安かったが、「いじりすぎ」というネット評がネックとなり落選。)
 それまで私はモーツァルトのジャズアレンジを複数団体で聴いてきたが、既に記したように印象は「良くてイマイチ」というものだった。大御所オイゲン・キケロのベスト盤に収録されていた4曲はJ・S・バッハの5曲と比べたら明らかに聴き劣りした。最近ではヨーロピアン・ジャズ・トリオが「哀しみのシンフォニー」に3曲入れているが、(彼らのフランスものはラヴェルでもフォーレでも秀逸だったが)どれも大スカだった。それゆえ「モーツァルトにジャズはダメ」の烙印を押したのだ。しかし、このレイ・ケネディらの演奏は何と快く耳に響いたことか!
 解説に(モーツァルト関連のCDで)「もっとも異色で、またもっとも成功したアルバムとなるにちがいない」とあったが激しく同意である。ちなみに執筆者の岩浪洋三も(ジャズ化が一時流行したバッハとは異なり)当盤以前には「モーツァルト・モダン」というアルバム、それにキケロが少し演奏していたぐらいであった、などと述べている。さて当盤のどこが良いかといえば、私は「オリジナルの旋律に執着しないこと」ではないかと考えている。例えばトラック1の「トルコ行進曲」(ピアノ・ソナタ第11番第3楽章)では、例のイ短調のメロディを1回なぞったらサッサと決別して即興を始めてしまう。ヨーロピアン・ジャズ・トリオが長調に移ってからも未練タラタラと続けていたため、冗長かつ散漫と感じさせるだけに終わってしまっていたのとは全く対照的だ。(ちなみにト短調交響曲でも両団体には同様の傾向が認められた。)小林秀雄はモオツァルトのシンフォニイの特徴(ハイドンのそれと決定的に異なる点)として「器楽主題の異常に感情の豊かな歌うような性質」を挙げていた。また彼は部屋の窓から明け方の空に赤く染まった小さな雲のきれぎれが動く様を見て、まるでモーツァルトの交響曲第39番終楽章の冒頭のような形(十六分音符の不安定な集まり)をしているとふと思った、とも記している。「幾つかの短い主題が、矢継ぎ早に現われてくる、耳が一つのものを、しっかり捕えきらぬうちに、新しいものが鳴る、また、新しいものがあわわれる(以下続くが省略)」ようなモーツァルトの音楽は、それ自体がジャズといえるのかもしれない。ならば、それを忠実になぞっていては結局「出来損ないの二番煎じ」にしかなりえないのも当然だ。小林によるとモーツァルトは「主題が明確になったら死んでしまう」という作曲上の信条を持っていたという話だから、やはり本家何するものぞとの対決姿勢で即興に臨むしかない。岩浪はレイ・ケネディ・トリオの成功の理由について「なによりもまずモーツァルトの音楽をよく理解した上でジャズ化しているからである」として具体的には何も綴っていないが、おそらくこういうことであろう。(ところが、これに味をしめて続けて買った彼らの「バッハ・イン・ジャズ」では、本来ならもっとジャズ化に向いているはずの素材を扱ったにもかかわらず平凡な出来に終わっていたのだから音楽というのは難しい。そして面白い。)
 そんな訳で、昨年は思いもかけず「ジャズ・モーツァルト開眼の年」となったのであるが、11月にリリースされたロマンティック・ジャズ・トリオのCDもなかなかに好評ながら見送った。キリがないから。代わって同月に発売されたユリ・ケイン・アンサンブルによる「プレイズ・モーツァルト」の購入を検討中(安売り品を物色中)である。既にバッハやマーラーで抱腹絶倒の編曲や変奏を聴かせてくれているから。彼らのアレンジは「反則スレスレ」を通り越し、「手段を選ばず」という形容がピッタリである。今思ったが、マーラーの編曲ものはちょくちょく出ているというのにブルックナーではそんな話は(ピアノやオルガン独奏によるシンプルな演奏はあるものの)あんまり聞かない。もちろんモーツァルトと同じではないだろうが、何かアレンジに不向きの理由があるに違いない。

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