ウィルヘルム・フルトヴェングラー

交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第5番変ロ長調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第6番イ長調(第2〜4楽章のみ)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第7番ホ長調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(49)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(51)

交響曲第8番ハ短調
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(44)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(49/03/14)
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(49/03/15)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(54)

交響曲第9番ニ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 「ベートーヴェンのページ」に書いたように、その交響曲の聴き比べの面白さに目覚めてから、相当数のフルトヴェングラーのCD(ほとんどが交響曲で協奏曲が数種)を買った。が、ブルックナーはここに挙げただけである。ただし、ベームのディスク評ページで採り上げているような、フルトヴェングラーのブルックナーに対する宇野功芳の評価に影響された訳ではない。(端から信用していない。)ベートーヴェンならともかく、劣悪録音のブルックナーを聴いても苦痛なだけで音楽に浸れるはずがない、と考えていたからに過ぎない。 ちなみにブラームスも同じ理由により、私は1番から4番まで順に3、1、1、2種、計7枚しか所有していない。(そもそも残されている音源の絶対数からして、ブルとブラはベーよりはるかに少ないのであるが・・・・)
 さて、最初に買ったきっかけは、フルトヴェングラーのベートーヴェンに関して某巨大掲示板で調べものをしていた時、偶然に入った過去ログ倉庫にて上記8番BPO盤(Archipel)に関するやり取りを読んだことだった。とにかく「音が良い」と音質については絶賛の嵐。で、hmv.co.jpで見たところ1000円程度と決して高くない。(私はこのレーベルのことは全く知らなかった。)この値段ならダメ元だと思って即座に注文した。過去ログによると発売直後は人気沸騰のため品薄になっていたらしいが、ほとぼりが冷めていたためか速やかに入荷した。聴いてみたら確かにこの時代の録音としては高水準といえる音質で満足した。(フルトヴェングラー協会が会員だけに頒布しているいわば「協会盤」のコピーらしいので、これは当然といえば当然なのだが・・・・それにしても「協会盤」は何であんなに高いのか?)それ以上に、宇野の評論やネット評から予想していたような、まさに「やりたい放題」の極致とでもいうべき演奏は大いに楽しむことができた。また、こういう演奏が幅を利かせていた時代というのも何となく想像できて面白かった。私の好み(遅めの堂々としたテンポで進むだけでなく、同一ブロック内での速度変化は極力抑えるというやり方、もちろんハース版が理想)とは全く違う演奏なので感動こそできなかったけれども。
 ちなみに、「クラシック名盤&裏名盤ガイド」にてこの曲のページを執筆した海老忠は、私が入手したArchipel盤と同一日である1949年3月15日の演奏を収録したEVANGEL盤を「対抗」に挙げ(「本命」はチェリのリスボン・ライヴ)、そのコメントを以下のように始めている。

 まず気づくことは、ここでもフルトヴェングラーがいつもの、
 いわゆる「フルヴェン様式」(註:太字)を忠実に守っている点。

その「フルヴェン様式」とは、「同一音型の繰り返しやクライマックスでは、必ずアッチェレランドし、メロディアスで緩徐な部分は濃厚に歌い上げるというわかりやすい手法」のことであると解説している。指揮者にとってはブルックナーも特別な作曲家ではなかった(=ベートーヴェンやシューベルト、ブラームスといった作曲家と同様の存在)ゆえに、いつもの「オレ流」で臨んだという訳である。それが「いつもながらのデフォルメが効果的に施され、聴き応え抜群の姿かたちが整えられた」という結果を生んでいるして、海老はこう結論している。

 どうしてそれがブルックナーの場合のみ問題になるのか(註:ここまで太字)
 は理解に苦しむところだが、客観的にみても面白いのだから、これはこれで
 十分な価値を有する名演(爆演?)であろう。

ここで問題にしたいのは、上の「問題」である。おそらくは宇野(その他)による「フルトヴェングラーはベートーヴェンは良いがブルックナーはダメ(ぼくはとらない)」という評価が海老の頭の中にあったのだろう。私の目には、「ベートーヴェンの演奏はこうであらねばならぬ」のような決め付け(そして、それに合わないものの切り捨て)を濫用する評論家よりも、海老の態度の方がはるかに大人と映るし、主張にも説得力があると思う。(ただし、海老の見方が公平なのは間違いないけれども、本当に「客観的」であるかは微妙であるようにも思う。)
 何にせよ8番が予想以上に良かったので、直後に4579番のArchipel盤(全て同価格)を注文した。が、その内の1点(たしか7番だった)だけがなかなか入荷せず、長いこと待っているうちになぜか気が変わったので、その後hmv.co.jpから送られてきた「入荷せず」の連絡メールに応えて、私は「すべてキャンセル」処理を選択してしまった。しばらく経って5番だけ改めて注文を入れたが、ここでもフルヴェンの5番に対する海老のコメントに興味を覚えたためである(5番ページ参照、ただし彼が推していたのはVPOとの51年ザルツブルク音楽祭ライヴのEMI盤)。479番は後に正規盤の中古を入手した。3番以前の演奏記録がなく、6番には第1楽章が欠けているので、これで完全な形で残されている曲のディスクが揃った訳である。(いやしくもブルックナーのサイトを作成している人間が、20世紀を代表する指揮者の演奏をろくに聴いていないのはさすがに拙い、などと思ったためではない。単に安かったからである。)最後にリストに加わったのが8番VPO54年盤であるが、わざわざ高価な(「特価品」でも安くなかった)Andante4枚組の新品を買ったのはカラヤンの78年盤が聴きたかったからであり、いわば「本命盤」の「おまけ」として入手したものである。とはいえ、演奏は決して悪くなかった、どころかArchipel盤とは全く違うスタイルによる(上記私の好みにも近い)名演で、大いに満足した。
 それ以外にも4578番には別音源が存在するようだが、既所有のディスクよりも音質や演奏が格段に優れるものは存在しないようなので、枚数がこれ以上増えることはたぶんないと思う。6番は「首なし」が痛すぎる。(2005年9月追記:ここでも予想大ハズレで、先月から今月にかけて6番、7番49年盤、8番44年盤を立て続けに入手してしまった。 →2008年7月追記:さらに8番の49年3月14日盤が増えた。)

2005年6月追記
 Gakken Mook「フルトヴェングラー 没後50周年記念」(宇野功芳企画・編集)に「ヴィルヘルムに捧ぐ 親愛と畏敬を込めた考察」を寄稿した渡辺政徳は、「四十歳になった頃、忽然と森羅万象イコール、ブルックナーと気づいた」そうである。(つまり私が「はじめに」に書いたのと同じである。)生地(栃木)で農業を営む筆者は「ベートーヴェンやブラームスと違いドラマ(動)ではないため、創作をそのまま色づけせずに再創造(音にする)した時のみ名演奏になる」ことを「自然との対話」で知ったらしい。(私も農作業には結構縁のある人間だが、別にそんな経験を持たずとも虚心に耳を傾けている内に気が付く人は気が付くだろうと思う。)そこまではよいが、筆者にとっては最も近いところにまとわりついている森羅万象(=ブルックナーのシンフォニー)もフルトヴェングラーにとってはかなり距離が遠かったのでは、というのは一体何という勝手な言い草かと私は憤った。フルヴェンにとっては、ベートーヴェンやブラームスと同様、ブルックナーも対決してねじ伏せるべき対象であったというだけのことなのだ。要は欧州人が自然に立ち向かう姿勢そのものである。アニミズムが心身ともに染みつき、仏教の共生思想からも少なからず影響を受けてきた日本人がそれに違和感を覚えるのは事実だとしても、必死で格闘していた指揮者に対して「距離がかなり遠い」などというのは(筆者が「失礼であるが」と書いているに留まらず)あまりに不遜な見方というものだろう。噛み付きついでに書くと、「ドラマの含有割合が多い4番のみフルトヴェングラーが成功しているのにのがその証明といえようし」とか、「朝比奈やヴァントが弱点としていたのも頷ける」のような記述も甚だ不愉快である。フルヴェンのスタイルを成功していると見る人にとっては「全て成功」、逆の見方をする人にとっては「全て失敗」、それ以外ありえないと思う。かくいう私は何番だろうと体調が良い時にはあの劇的演奏を楽しめるが、そうでない場合はメチャクチャ気に障る。4番だけを特別視する理由はどこにも見当たらない。結局のところ、音楽聴学を師事したという宇野功芳にかぶれてしまっているのではないか? まあ、渡辺がどう思おうと自由だし、朝比奈についても「そう考えたければどうぞ」と言いたい気分だが、ヴァントについてはどうしたって異を唱えない訳にはいかない。超名演の98年BPO盤、あるいは(完成度は落ちるが)澄み切った境地そのものの「ラスト・レコーディング」を彼は聴いていないのだろうか? また90年NDR盤にしたところでスケールこそ小さいものの他に欠点はどこにも見当たらないのだ。

戻る