交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
51/10/29
KING International (Orfeo) KICC-4347〜8 (C559 002)

 改訂版による演奏である。とはいえ、オーケストレーションの改変については、カラヤンなど部分的に採用している演奏を知っていることもあってさほど意識しなかった。むしろ気になって仕方がなかったのは、やはり音の悪さ、そしてこの指揮者独特のテンポの激変である。シノーポリの4番ページで触れるつもりだが、浅岡弘和は「31小節あたりからアッチェレランドを掛け始め、43小節からは51小節のフォルティッシモに向かって突進する」という彼のやり方を「最悪」と酷評している。一方で、改訂版を採用したフルトヴェングラーは43小節以降にテンポを落とすという指定に従ったお陰で、「作曲者自身の指定よりも却って曲想を生かしているのは興味深い」のだそうだ。だが、私はそのようには思わなかった。確かに当盤のフルトヴェングラーは第1楽章の1分10秒から徐々に加速するが、1分21秒で減速する。けれども、(私が長いこと第1主題と勘違いしていた)「ドーソーファミレド」から再度早足になってしまうのである。これでは「その場の思いつきによる尻軽演奏」という印象しか受けない。一貫性のあるシノーポリの方がはるかに良いと私には聞こえる。最初の騒ぎが収まったあとは落ち着いたテンポになるが、以後も3分40秒や8分過ぎに加速する。特に後のアッチェレランドはもの凄い。好きな人にはたまらないだろう。そして、その逆も然り。
 第2楽章は一転してスローテンポで押し通しており、何と前楽章よりもトラックタイムが長い。それも珍しいが、18分以上かかるというのもかなり異例である。(小節数は原典版と改訂版とは同じじゃなかったっけ?)しかし、この2楽章は良い。たしかマタチッチ盤ページでもそう書いたが、改訂版の2楽章は原典版を部分的には上回っているのかもしれない。当盤でも屈指の出来だと思う。特に暗黒に支配されているような重苦しい雰囲気をうち破る金管の輝かしい音色には魅了された。(これに対し、マタ盤やクナ盤は低弦が私は好きである。)快速の第1楽章 vs 超スローテンポの第2楽章というような思い切った対比のさせ方を聞けば、この指揮者が部分部分に留まらず曲全体においても、やはり統一性よりはドラマ性を重視するタイプであることが判る。
 第3楽章は主部の最後が例によってショボい終わり方。ただし、トラックタイムが10分17秒で(改訂版にもかかわらず)まともなのは、スケルツォ主部の再現部をノーカットで演奏しているからである。この辺は金子建志の「ブルックナーの交響曲」に詳しいが、ダ・カーポ後のスケルツォ主部の27〜92小節の66小節というかなり大幅なカットを行き過ぎと判断したため、指揮者はレーヴェのアホカット指定を無視したということである。(ただし「51年の録音では」という但し書きがあるので、以前の演奏では採用していたのかもしれない。)これによって、スケルツォにシンメトリーが回復したのは喜ばしい。金子は「フルトヴェングラーのブルックナーの形式に対する洞察の深さが、象徴的に示された箇所と言えよう」と述べていた。(何となく宇野口調ではあるが、「言えよう」と漢字を使用した辺りは彼独自のスタイルを象徴的に示したものであるといえよう。)さらに、金子が「フルトヴェングラーが(ハースに対する批判はしていても)その古典主義的な造形観の正当性はきちんと評価していた」と述べたように、クナ(あるいは宇野)のようなエンターテイメント一筋型(聴き手を喜ばせるために何でもやるタイプ)とは毛色の異なる指揮者であることは明らかだ。(やはり複雑な人間性が反映しているに違いない。)
 終楽章は第1楽章以上に本領発揮であり、目次ページで触れた海老忠などは「面白い!」と手を叩いて喜ぶかもしれないが、私はあまり書く気がしない。原典版なら神秘性という点でブルックナーの全交響曲中でも屈指といえるこの楽章のエンディングも、改訂版だとせいぜいドタバタ喜劇の幕引き位にしか聞こえないからだ。

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