クリストフ・フォン・ドホナーニ

交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
交響曲第5番変ロ長調
交響曲第6番イ長調
交響曲第7番ホ長調
交響曲第8番ハ短調
交響曲第9番ニ短調
(全てクリーヴランド管弦楽団)

 「ドホナーニ」という名前を最初に目にしたのは、ショルティ&シフによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のCDのケース裏のはずである。フィルアップ用に収録されていた「童謡の主題による変奏曲」の作曲者として名前が載っていた。(ショルティ&CSOはフォルティッシモで可能な限りデカい音を出そうとしており、PC同様に面白く聴くことができた。)念のため書いておくが、このエルンスト・フォン・ドホナーニ(1877〜1960)は当サイトで採り上げる指揮者の祖父である。
 これに対して、「クリストフ」の方はクラシックを聴き始めた頃に定期購読していたFM誌にて「マゼールによってグチャグチャにされたクリーヴランド管を、ようやくセル時代のレベルまで立て直したドホナーニ」という紹介文が最初だったと思う。(マゼールについては、「クリーヴランド管の常任指揮者になってから急につまらなくなった」といったコメントは当時あちこちで見たが、「グチャグチャにした」というような評価は後にも先にもあの時だけだったように思う。)他に思い出すのは、ヴァントと仲が良かったこと、それから宇野功芳がボロクソに貶していたことである。前者は「ラスト・レコーディング」の別冊ブックレットに掲載されていたインタビュー中で見つかった。ヴァントはドホナーニについて「それでも私たちはよい友達でしたよ。お互いに全く違うタイプの人間ですがね。」と語っている。(ちなみに、第2文はその少し前に紹介されているエピソードを受けての発言である。ドホナーニがケルンの自宅にいるヴァントを訪ねた際、彼が書斎でスコアをもとにハイドンの交響曲の研究をしていたのに驚き、「自分ならまず指揮台に行ってオーケストラから何が出てくるか待つ」と言ったという。)後にドホナーニは、歌劇場に客演してもらうためにヴァントをフランクフルトに呼んだこともあったらしい。一方、宇野発言は「名演奏のクラシック」より。ブリュッヘンの項にて、「現代の管楽器は改良されて吹きやすくなった半面、調による色合いのちがいがまったくなくなり、シンセサイザーのようにひびく」という指揮者の発言を受け、「そういわれればそうだし、ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団によるベートーヴェンなど、その最たる例といえよう」と書いている。さらに宇神幸男との対談でも「小沢(原文ママ)とショルティとドホナーニは僕から最も遠い指揮者といえるでしょう」と述べていた。(ついでに書くと、箸にも棒にもかからない男の耳には「ドホナーニはのっぺりして血が通っていない」と聞こえたらしい。)
 さて、晩年になってからヴァントを褒め始めた宇野であるが、自分にとって最も遠い指揮者の1人であったドホナーニと「よい友達」であったことについてはどう思っていたのかが気になるところだ。(○木△之にとってのカラヤンとC・クライバーの親密な関係と同じく、悩みの種になったりはしなかったのだろうか?)というよりも、私にとっては宇野がヴァントを褒めていたこと自体がいまだに謎である。ヴァントのベートーヴェンも人間味というかドロドロしたところは全くなく、極めて洗練された音楽である。(この辺は許光俊が「モダニズムの極致」として見事に解説している。・・・・・と思っていたが、捜してもどこに書かれていたのかが分からない。よって、見つかるまでは「世界最高のクラシック」から一節を引いておくことにした。「彼ら(フルトヴェングラーやトスカニーニやクナッパーツブッシュ)の後でヴァントの『英雄』を聴くと、何とモダンでスマートで洗練されていることだろう。もはや作曲家や演奏者の汗くささや血の匂いや体温は感じられない。」 これに対して、宇野の「名演奏のクラシック」からはアッサリとこんなのが見つかった。「だいたい、ベートーヴェンの音楽自体、人間自体、どうしてカラヤンやアバドのような都会的に洗練された、スマートなものであり得ようか。」 おやおや、「都会的に洗練された、スマートなもの」というのは許が述べたヴァントの音楽づくりの特徴そのままではないか。つまり、宇野が「きれいごと」「時間の無駄」などとして切り捨てようとしたベートーヴェンの演奏スタイルに他ならないということである。そして、宇野からは最も遠いはずで、彼のお友達も「オーケストラのガラス磨き」「実にさわやかで頬を撫でる風のよう」と評していた小澤ともヴァントは近いということになるだろう。)宇野が特に好んできたフルトヴェングラーとはタイプが正反対といっていいほど異なっているのは明らかだ。よく考えたら、彼はヴァントのベートーヴェンについてはさほど絶賛していなかったようであるが、ブルックナーにしてもヴァントの芸風は(宇野が長いこと「自分だけが注目してきた」などと語っていた)朝比奈のそれとはまさに「水と油」である。ということで、宇野の批評方針には一貫性がまるでなく、その時の気分次第でテキトーに褒めたり貶したりしていたとしか私には思えないのだ。もしくは自分の好き嫌いによって。
 ゴチャゴチャ書いてきたが、私が言いたいのは、そして疑っているのは、事あるごとに「本質」とか「正統」のような抽象的で曖昧な単語を持ち出してくる評論家には、ブルックナーの音楽が本当のところはちっとも解っていないのではないかということである。許の言葉を借りるならば、(宇野が遅蒔きながら開眼する契機となった)クナッパーツブッシュ&MPOの8番を聴いた時の<まちがった感動>状態から未だに脱却できていないのではないか?(クナの演奏に接してブルックナーに入門するのはよいが、初歩の段階をすぎたら・・・・以下ry)だから自分が振ってもあんなお笑い演奏になってしまうのではないかという気もする。まだまだ材料不足であるため断言は控えるが、もっと多くのネタを仕入れることができたら、この点についてさらに深く考察してみたい。(2005年10月追記:最近ネット上でこんなコメントを見つけた。「朝比奈とギュンター・ヴァントという、同じブルックナー指揮者にしても、作品に対する見通しの緻密さ、細部の彫啄の入念さ、アンサンブルに対する要求水準の高さなどの、どの点をとっても正反対に位置する指揮者の演奏を、ともに高く評価できる人が、職業的評論家のなかにもあまたおられるのには驚かされます。かれらはいったいどんな『耳』をもっているのでしょうか。」ちょっと長いが転載させてもらった。私が単に「水と油」で片付けたところを具体的に3点挙げているのが立派である。その直後に「まさか、勝ち馬にのればなんでもよい、というのではないのでしょうが…。」という結びが来るが、評論家の多くが他ならぬその「まさか」であったと私は考えている。ただし、彼だけは常人に想像できないほど特異な「耳」を持っているという可能性を捨て切れないでいる。)
 脱線はこれくらいにして、この指揮者のディスクはここに挙げたのが全部である。3&8、4&9、5&7という輸入盤2枚組がいずれも中古屋にて安価で手に入った。3番以降では6番が欠けているが、国内輸入とも廃盤らしく入手は容易ではないだろうし特に固執もしていない(はずだったのに、2006年4月に買ってしまった。)

おまけ
 本文で触れた「調による色合いのちがい」について、以前から私が考えていることをここに書くことにした。
 「色と同様、音楽も調性によって感じ方に違いがある」とはよく言われることである。まず色から入ると、虹を構成するのは「赤橙黄緑青藍紫」という7色(たしか藍の代わりに黄緑を入れている本もあった)とされるが、もちろんこれは人間が便宜的に決めたもので、どこからどこまでが赤だというような区切りは本来ない。パソコンの画面上で色を設定する時に表示される円を見れば明らかなように、実際には色は連続的(無段階)に変化し、数直線上の点と同じく無限に存在する。が、ここでは敢えて7色として話を進めると、赤を中心とする「暖色系」、青を中心とする「寒色系」に大別されるのは周知の通りである。一方、音の高さも無段階に変化するものであるが、これまたご存知のように西洋音階では和音をつくる必要上から1オクターヴを12等分している(平均律)。そして、それぞれの音を主音とする長調と短調が存在する(12×2=24)。ここからはまず長調について述べる。
 私は「寒色系」と「暖色系」に近いものを調でも感じ取っている。(もちろん私だけではないだろう。)前者はハ長調からヘ長調まで、後者はト長調から変ロ長調まで。ただし、色から感じる温度差とは少し異なっており、「地上系」と「天上系」(あるいは「この世系」と「あの世系」)の方が相応しい。「地上系」でもハ長調はドッシリと地に足が着いたというか根がしっかり張った感じなのに対し、高くなるほどに軽くなって、ヘ長調はフワフワ、ウキウキしてくる。(「田園」第1楽章がまさにそれだ。)「人間味」も増してくるようだ。一方、「天上系」にはそれほどの違いは感じないが、高い調ほど輝かしさの度合いが強くなるような気がする。そうなると、両系の中間にある嬰ヘ長調とロ長調は「この世とあの世の境目(あるいは緩衝地帯)」ということになる。とにかく聴いているうちに気分が不安定になってくるのがこれら2つの調である。(「色」も何となく似ているように感じる。)それゆえ、「悲愴」第1楽章のラスト、第10交響曲の第1楽章にて、チャイコフスキーとマーラーがこれらを採用したのではないかと私は考えている。そういえば、前者による「マンフレッド交響曲」のラスト(主人公が昇天)もロ長調だった。他にも変音記号がいっぱい付く調は中途半端というか曖昧な印象で、これも相当ヤバい境地を示すのではないかと思う。後者が9番の終楽章を第1楽章のニ長調から半音下げたのもその顕れではないだろうか? 「死にかけ」の音楽にはピッタリだ。
 この際ついでに各長調から受けるイメージも記しておく。(思い出したが、例えば「変ト長調」と「嬰ヘ長調」は厳密には異なる2つの調らしい。けれども私には全くチンプンカンプンなので、どっちか一方だけ記しておく。ご容赦を。)

 ハ長調・・・・宇宙、天体
 変ニ長調・・・結構ヤバい
 ニ長調・・・・大地、自然
 変ホ長調・・・人間の勇ましい行為(やっぱ「英雄」の影響大)
 ホ長調・・・・特になし(中途半端)
 ヘ長調・・・・自然との戯れ、神への賛美
 嬰ヘ長調・・・相当ヤバい
 ト長調・・・・天国
 変イ長調・・・特になし(やはり中途半端)
 イ長調・・・・喜悦
 変ロ長調・・・栄光
 ロ長調・・・・相当ヤバい

上でホ長調について「中途半端」(漫才の「ざ・ちゃらんぽらん」なら、「人を称える変ホ長調でもなし、神を讃えるヘ長調でもなし、ちゅうとはんぱなやぁ」で笑いを取るところだ)としたが、それはブルックナーが第7番をどっちつかず的なホ長調で書いたことが、他でもない私の心に暗い影を落としているからである(ショルティ6番ページ下も参照のこと)。この調だと、どうしても「くすんだ感じの音楽」に聞こえてしまうのだ。
 もひとつオマケとして短調についても載せておく。「特になし」が多いのは、すぐに思い付くメロディがないためである。

 ハ短調・・・・宿命、天災
 嬰ハ短調・・・特になし
 ニ短調・・・・戦争、人災
 変ホ短調・・・特になし
 ホ短調・・・・感傷
 ヘ短調・・・・情緒不安定
 嬰ヘ短調・・・特になし
 ト短調・・・・哀愁(あの曲のせいでどうしてもこうなってしまう)
 嬰ト短調・・・特になし
 イ短調・・・・寂寥、孤独
 変ロ短調・・・憂鬱
 ロ短調・・・・どん底

いずれも「悲しい」のは共通しているが微妙に違う。ただし長調みたいな「色」は感じないので「○○系」のようなグループ化はできない。
 ところで、某掲示板にて「調から色を感じる」について激しいやり取りがあり、しまいには荒れまくっていたのを見たことがある。「そんなのない」と主張する側から、「長調が明るい(あるいは楽しい)とか短調が暗い(あるいは悲しい)というのも、所詮は教育によって刷り込まれるイメージに過ぎない」という書き込みがあった。一見もっともな意見のようにも思うが、よく考えたら違うという気がしてきた。短調の音楽(たしか日本民謡だった)を聴かせると決まって悲しげに吠える犬をテレビで観たことがあるし、長調で書かれたモーツァルトの軽快な曲を牛舎に流すようになってから乳の出が良くなったというニュースも耳にしたことがある。といって、動物たちはもちろん音楽教育など受けたことはない。あるレベル以上に脳が発達した動物では、長調と短調によって感情を左右される方向が先天的に決まっていると私は思う。(植物についてはどうなのだろうか? 非常に興味のあるところだが、ヘタに植物心理学など研究しようものなら間違いなく「オカルト」あるいは「マッド・サイエンティスト」扱いされてしまうだろう。)

追記
 上を脱稿した後のことであるが、2005年5月15日放送のN響アワーにて、スクリャービンの提唱した色と調との関係を司会の池辺晋一郎が紹介していた。光と音楽の融合を試みたというこのロシアの作曲家は全24調をそれぞれ色と対応させていたが、それが(鍵盤上の並びによるグループ化を試みた)私とは全く異なっていたのが非常に興味深かった。ネットで調べてみると、ハ長調が赤、ト長調が橙、ニ長調が黄というようにシャープが1つ増えるごとに「寒色系」に近づいていく。つまり、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」ように半音刻みではなく、ショパンの「24の前奏曲」等の曲の並びのように5度違うものを「隣り合った調」として組み立てた理論のようである。(それに留まらず、鍵盤を押すと対応する色が光るという「色光ピアノ」まで考案し、交響曲第5番「プロメテウス」の演奏で使うよう指定しているらしい。一度でいいから見聞きしてみたいものだ。)また、ある人のブログでは「フラットやシャープを多用する調に暖色系、多用しない調が寒色系の色のイメージがある」というコメントを見た。どうやら調から感じる「色」には人によってかなり違いがありそうだ。

2006年3月11日追記
 上記「プロメテウス」が第1562回N響定期演奏会で採り上げられ、私はその模様を昨日のNHK-BS2「クラシック倶楽部」で観た。公演のため特別に開発された色光ピアノが使用される(←通常ピアノと別奏者が弾くとは知らなんだ)との字幕説明があり、さらに「スクリーンに映し出される色彩は最新の研究をもとにデザインされており」→「作曲者自身の望んだ『プロメテウス』を忠実に再現する世界初の試みである」と続いたので大いに期待した。ところが、いざ蓋を開けてみたら天上から、あるいは舞台裏スクリーンに赤青緑の光が絶え間なく照射されただけであった。クラシックのコンサートでは極めて異例かもしれないが、オペラや他ジャンルのもっと派手なライトアップによる舞台演出を知っている現代人(私を含む)にとっては拍子抜けだったに違いない。これが作曲当時に実現されていたら大センセーションを巻き起こしていたかもしれないが・・・・

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