交響曲第5番変ロ長調
クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団
91/01/20〜21
DECCA 466 336-2

 音楽之友社「名曲名盤300」98年版では2位にランクインしていたので少しは興味はあった。とはいえ票は結構割れており、当盤には2人が点を入れただけであったが。そのうちの1人平野昭は以下のような推薦文を書いている。(インバルの8番ページでボロクソに書いた評論家だが、あのような悪文の数々はやっぱり彼が書いたものではないのだろう。)

 ブルックナーの音楽に宗教性を感じとるのは不思議ではない。
 後期交響曲に窺える個人的な宗教観と自然観ではなく、この
 作品には純粋なカトリシズムの表現が窺える。開始冒頭の敬虔
 な緩徐序奏とこれに続く金管のコラールの表情がドホナーニ
 の卓見を象徴する。

しかしながら、改めて聴いてみると「カトリシズム」云々とはちょっと違うのではないかという気がしてきた。(その単語自体ようわからんし。)
 ここでもドホナーニは結構せわしないテンポいじりをやっているに違いないと予想していたのであるが、耐震構造がしっかりしている曲ゆえその点については安心していた。ところが実際には控えめ(第1楽章8分台が耳に付いた程度)だったので拍子抜けした。音色は明るい、というよりケバい。あと少しメタリックさが加わっていたらショルティ&シカゴ響の演奏と聞き分けるのも困難だっただろう。(ティンパニの弾力ある音など瓜二つである。)ところでショルティといえば、シカゴ響との全集録音の第1弾である6番の帯(紛失)には「これぞ現代的ブルックナー!」と書かれていたように記憶している。あるいは「こうしたブルックナーは、あまりにも現代的ということで反撥を招くかも知れないが」という小石忠男の解説から取ったのかもしれない。私にはこの「現代的」というのが未だによくわからんのだが、「教会」とか「大聖堂」といった従来のブルックナー演奏に対する宗教的イメージ(決まり文句)から脱却しているという意味であると解釈するならば、当盤もそう呼ばれる資格は十分にあるだろう。第2楽章5分37〜46秒での非常に明確な弦の刻み方を聴いてそう思った。
 ということで、私にはブルックナー総合サイトのオーナーによる「信仰心とか敬虔さとから解放された、新世代のブルックナー演奏」というコメントの方が的確であると思われた。また、別サイトにも「乱暴に言ってしまえば『現代的な』演奏になっています」「そこで聴かれるのは神秘的な精神の高揚ではなく美しい音の集合の輝きなのです」とあった。決して乱暴ではなく、まさに当を得た批評である。よって、「赤点学生の作文」という汚名こそ何とか晴らすことができた平野だが、「ディスクをちゃんと聴いて推薦したのか?」という新たな疑惑が生じることとなった。結局ここでもディスク評ではなく評論家評になってしまったな。

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