ニコラウス・アーノンクール

交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

交響曲第5番変ロ長調
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第7番ホ長調
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第8番ハ短調
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

交響曲第9番ニ短調
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 カラヤンを認めないことが音楽評論家の見識であるかのような風潮が前世紀にはあった。(別ページにも書いていると思うが、「遺物」になっていることにまだ気が付かない連中による公害、いや老害の垂れ流しを取り締まるため、そろそろ何らかの方策が取られないものだろうか?)代わってスケープゴートにされたのはカラヤンの後にBPOのシェフの座を引き継いだアバドである。しかし、病に倒れた彼がゲキ痩せした姿で再び指揮台に上るようになってからは、ほとんど誰も批判しなくなってしまった。(「死人に鞭打つ気か、この人でなしめ!」と逆に非難されるのが恐いからであろう。ちなみに90年代以降のアバドに対する私の評価は「特に良くも悪くもなし」である。)それ以後(あくまで「自称」だが)「良識派」たる評論家の拠り所となるような「大物」は登場していない。ところで、ある出版社が発売しているクラシック関係の共著本ではバレンボイムや小澤、時にはマズアなどを貶したり嗤い者にしたりする一方で、「音楽が解っている実力派」などとしてアーノンクールを持ち上げるという傾向が妙に一致しているように思われた。というより、それは「ある一派」の特徴そのものであると私は考えているのだが、やはりグループの総帥に逆らうような意見は口にできないということだろうか?
 さて、私がこの指揮者の演奏を初めて聴いたのはヘンデルの「水上の音楽」である。クラシックを聴き始めて間もない院生時代のことである。なにせ有名曲なのでレンタル屋で借りてきたCDを期待を抱きつつ再生したのだが、冒頭のラッパのけたたましい音にビックリしてしまった。その後も喧しいだけでとても感動するどころではない。見事なまでに金をドブに捨てた格好となった。同じ日に借りたガーディナーの「メサイア」は結構良かったのに・・・・後年Kさんにこんなメールを送っているが、この日の記憶がトラウマになっていたからに他ならない。

>  脱線しますと、古楽器演奏についてはアーノンクール→ピノック→ホグウ
> ッド→ブリュッヘン→ガーディナーの順に後のものほど面白い演奏をしてい
> ると思います。(それほど豊富とは言えない古学体験からですが・・・)前
> の方のは何かカサカサした感じで、聴いていてもつまらない。後の方ほどワ
> クワクさせてくれる、そんな印象を持っています。あと何をやっても楽天的
> になってしまうコープマン、宗教性を強く感じさせるクイケンやレオンハル
> トは、ここに挙げた序列の外に位置しており、彼らの演奏の特徴や音色に向
> いている曲では素晴らしい演奏をしていると思います。   (98/12/25)

これに応えて、マゼールが徹底したアンチ古楽でインタビューでも「音が汚い」「胸がむかつく」などと語っていたとKさんは返信で教えてくれた。私は「それは言い過ぎではないか」などと書いたものの、基本的には同感だった。とにかく、「水上の音楽」でも後に聴くことになるディスクでも、とにかくアーノンクールの演奏からは美しさが全然感じられないという点は共通していた。後に許光俊が「世界最高のクラシック」で「アーノンクールの演奏が示す最大の特徴は、まったく美しくないことだろう」と述べていたのを読み、その思いをさらに強くした。
 これも同じ頃(院生時代)であるが、当時下宿していた名古屋市千種区の公立図書館から私はクラシック関係の本を時々借りていた。砂川しげひさによるバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンを扱った単行本三部作を私は全て読み、結構愉しませてもらったが、このうちバッハ本の欄外には宗教カンタータの全作品試聴記が載っていた。たしか星1つから5つまでの五段階評価も付いていた。砂川はリヒター盤を高く評価する一方で、アーノンクール盤は良くて星2つ、多くは最低ランクの1つだったと記憶している。その理由として彼は「気持ち悪いゾ、カウンターテノール」を繰り返し述べていた。当時の私も全く同意見で、CTの声を聴いた途端に虫酸が走るため慌てて電源を切るか消音しなければならなかった。ところがかなり経ってから、わが国でカウンターテノールのちょっとしたブームが訪れ、とうとう「三大カウンターテノール」とかいうタイトルのCDまで発売された頃のことであるが、FM放送にてドミニク・ヴィスか誰かが歌っていた「カルメン」のハバネラを聴き、自分もおふざけで真似てみたら結構面白かったのである。その時初めて気が付いたのだが、聴くのは気持ち悪くても自分で歌う分にはなかなかに楽しいものである。お陰で私のレパートリーが少し広がった。(米良美一がテレビに出てくると今でも拒絶反応が出るが、あれは声よりも容貌のせいである。)
 閑話休題。そんな訳で安値更新続きのアーノンクールだったが、ある日転機が訪れた。私はモーツァルトのピアノ協奏曲第20〜27番をアシュケナージ(弾き振り)&イギリス室内管盤のダビングテープで所有し、長いこと愛聴していたのだが、そろそろディスクで所有していても良い頃ではないかと考え、廉価盤を捜していた。そしてHMV通販サイトにてバレンボイム(やはり弾き振り)&BPOの演奏がULTIMAシリーズの廉価盤として2000円以下で手に入ることを知った。ただし気になることがあった。ピアノ協奏曲(20〜27番を4枚に収録)に加えて既にクーベリック&BRSO盤を所有しているため別に欲しくもない交響曲38〜41番(2枚に収録)も付いてくるというのである。それもかつて酷い目に遭わされたアーノンクールの演奏(ヨーロッパ室内管との新録音)とは! ヤバすぎである。が、「まあ人に押し付けるか燃えないゴミの日に出せば済むことだから」と気を取り直し、注文に踏み切った。間もなく入荷した箱が届いた。(肝心のピアノ協奏曲は正直アシュケナージの方が良かったと思うが、バレンボイムの演奏も決して悪くない。それに、そうしょっちゅう聴く曲でもないからまあいい。)
 などと勿体ぶった書き方をしたけれども、実は交響曲にも少しは興味があった。宇野功芳が「名演奏のクラシック」にて(「魔笛」については「才能に乏しい二流の指揮者がいろいろ細工を施し、失敗した感じに終わっている」と批判しつつも)「交響曲では部分的に面白い効果を見せている」と肯定的に評価し、39番(ただしACOとの旧盤)を「いちばんの成功例」と褒めていたからである。(もっとも、「いつもこれくらいのモーツァルトを鳴らせてくれれば、アーノンクールもすばらしいのだが・・・・・」のように決して手放しの称賛ではない。)実際に聴いてみた。またしてもだが、38番「プラハ」第1楽章の序奏で仰天してしまった。何なんだ、このバカでかいティンパニ音は? 後では普通に叩いている箇所もあるから、明らかに聴き手を驚かせることを意図している。 ハイドンじゃあるまいし・・・・フレージングも妙ちきりんで、クーベリックがレガート気味にして流麗に聴かせてくれている所で、わざわざ音をブツ切りにしている。要は「天の邪鬼」なのである。そこに例の騒音ティンパニが乱入してがなり立てるのだからたまったものではない。(かつて某巨大掲示板に「アーノンクールはただのチンドン屋じゃないよ」というスレッドが立ち、そのタイトルが笑いを誘ったことがあった。「ただの」かどうかは措くとしても、こういう演奏を聴いたら「チンドン屋」という形容もあながち不当とはいえないように思う。)お陰でまったくモーツァルトらしく聞こえない。(許は先に引いた文に続けて「美の化身のように見なされるモーツァルト作品ですら、彼に指揮されると全く美しくなくなる」と書いていた。これも激しく同意である。)とはいえ、この曲や39番、41番「ジュピター」は結構面白く聴くことができたため、それなりに満足感があったのも事実である。(ちっとも哀しくない40番はさすがに抵抗感ありまくりだったが・・・・)こういうヘンテコ演奏を成し遂げるために工夫を凝らしてきた指揮者にとっても、聴き手に笑い転げてもらうのは本望に違いない。これらのディスクを聴いて私はこの指揮者が初めて解ったような気がした。(←こういうのを「聞いた風なような口を利く」という。)彼は独特のアーティキュレーションを誇示したかったのだ。とにかく何でもいいから皆に注目されたいと考える人間がやりそうなことである。
 ここで宇野の「名演奏のクラシック」に戻る。アーノンクールはこのように語ったということだ。

 二十世紀も終わりに近い現代、モーツァルトを普通に演奏したと
 してなんの意味もない。モーツァルトは当時の画期的な現代音楽
 だったのだ。十八世紀のウィーンの人々に、彼の作品はどれほど
 衝撃をあたえたことだろう。現代の指揮者は、それと同じ衝撃を
 現代の聴衆にあたえなくてはならないのである。

「モーツァルトの作品(そのもの)」と「モーツァルトの演奏」の斬新性がゴッチャになったまま論じられている(=「衝撃」の定義が曖昧である)ため、「同じ衝撃」が意味不明であるように思えてならないし、「同時代の作品の演奏」と「約200年前の作品の演奏」、あるいは「自作自演」と「別人=後代の指揮者による演奏」といった状況の違いまで考慮した上で「ならない」と言い切ったのかも気になるところである。消化不良のままに吐き出された主張という印象がどうにも拭えない。(あるいは訳者や引用した人間の責任かもしれない。)それはともかくとして、「そのいうところは一理ある」と理解を示しつつも「音楽とはこのような主義主張によって演奏すべきものであろうか」と異を唱えた宇野の側に私も立ちたい。(シノーポリもそうだったが、どうやらコーホー先生は理屈をこねるタイプの指揮者がお嫌いのようである。)けれども「自分の主義主張にとらわれて、かえって自由さや自然さを失ってしまうのではないか」は少し違うのではないかと思った。アーノンクールは「自由さ」とか「自然さ」が重要だとはこれっぽっちも考えていないように私には映る。むしろ「声高に主義主張をまくし立てる」こと自体が彼の目的だったのである。そのために自分の演奏が「不自由」「不自然」になろうとも、彼にとっては百も承知のことだったに違いない。また、音楽にしたところで自己主張の手段としてたまたま選んだだけのことで、別に美術でも何かの路上パフォーマンスでも構わなかったはずである。(「まさに目的のためには手段を選ばず」はさすがに言い過ぎか?)
 好き放題に書いているのは既に自覚しているけれども、もうちょっと絡んでみる。「なんの意味もない」と間接的ながら同時代の指揮者による「普通の演奏」を批判しているが、「じゃあお前さんは一体どういう『意味』を付与したというんだ?」と私は問わずにはいられない。ここで少し脱線する。かつて「若手研究者のお経」というウェブサイトに入ったことがある。作成者は東北大学の教官で、経験に乏しい若者向けに科学論文の作成を指南する目的で立ち上げたということである。後にそれを発展させた「これから論文を書く若者のために」という本を知人が見せてくれた。(著者は地元サッカーチームの熱烈なサポーターのようで、「ベガルタ仙台の選手が驚異的な身体能力を誇るのは牛タン定食をいつも食べているからだ」という仮説を検証するというのがとても面白かった。)その中からイントロダクション(緒言)を書く時の心得について述べられた部分を思い起こしてみる。実験あるいは試験を行った理由について「過去に全くやられてないから」などど書くのは絶対ダメで、イントロに説得力を持たせるためには「これが明らかになれば、こういう役に立つからやった」のように書かなければならないのだという。「そこに穴がないから穴を掘る」ではなく「そこに宝物が埋まっているから穴を掘る」などと喩えてあったようにも記憶している。何が言いたいかといえば、私にはアーノンクールが「他に誰もやってないから自分は普通でない演奏をする」以上のことを全く述べていないと感じられるのが大いに不満なのである。(そもそも演奏スタイルの絶対的な規準ではなく、結局は多少の問題に過ぎない「普通/普通でない」を持ち出している時点で主張は曖昧とならざるを得ないし、もっと言ってしまえば「まやかし同然」ではないか?)「現代の聴衆に衝撃をあたえる」は決して十分な動機(意味づけ)ではない。(ならば圧倒的に「宇野>アーノンクール」であるが、だからといって宇野の演奏の方が価値がある、とは絶対ならないはずである。)それは単なる自己満足である。少し戻るが、モーツァルト自身の指揮による演奏は自分の作品を世に出すことが何よりの目的だった訳であり、それが結果的に聴衆に衝撃を与えたことになったとしても、最初からの目的であったはずがない。だから、「衝撃」を目的とする考え方自体が誤りであるとハッキリ言わせてもらう。ヘンテコ演奏から彼は何を生み出そうとしたのか、その「何か」によって聴き手にどのような「宝物」(メリット)がもたらされるというのか、それがサッパリ判らないゆえ、私にとっては(関西にはよくいそうな)「目立ちたがりのオッサン」と一緒である。ゆえに、許は「彼は奏でる音楽も問題ではあるけれど、存在自体に意味があるような演奏家なのである」と書いていたけれども、いくら何でもこればっかりは全く同意できない。私にとっては「いてもいなくてもいい演奏家」である(暴言)。だいたいブックレット表紙のギョロッと目を剥いた指揮者の表情からして気に入らない。顔で凄んで相手を威圧しようなどというのは、実際にはからっきし弱い人間が好んで使う「こけおどし」ではないか。あんな悪趣味な写真を使うレーベル(TELDEC)もレーベルだが、それを使わせている指揮者も情けない。BMG移籍後も似たり寄ったりである。いつまでもこんな状況が続くようなら「ハッタリ野郎」とも呼ばせてもらう。そもそも理論や理屈の好きな指揮者にロクな奴はいないと相場は決まったもので、実力のなさを自認しているからこそ口数で勝負しようとするのである。わざわざ宇野を引くまでもなかった(大暴言)。
 とはいったものの、自分自身がある程度そうだからでもあるが、「目立ちたがり」は決して嫌いではない。(かくいう私も「新たに立ち上げる意義など全くない」はずだったサイトのために少なからぬ時間とエネルギーを費やしている人間なのだ。)ナンセンス芸術、大いに結構ではないか。こういう理由もなく騒がしい音楽について、あれこれ自分勝手に意味深長な講釈をしたがる評論家はもちろん好まない。と思っていたら、「世界最高のクラシック」で今度はこんなのを見つけてしまった。

  そう、アーノンクールは七十歳を越えた今となっても、
 基本的に不良なのである、世の中に対して不満たらたら
 なのである。だから、不良が意味もなく暴れて物を壊し
 たり、大人が大事にしている物を嘲笑するのと同様、あ
 えて美の破壊工作に勤しむのだ。

そうと割り切ってしまえば、ブルックナーも最低限「爆笑もの」には仕上がっているはずなので、モーツァルト同様それなりに愉しめるに違いない。そう考えてここに挙げたディスクを聴いたのであるが・・・・あとは各ディスク評ページに譲る。(ちなみにブルとモツ以外は1枚も持っていない。誰が買うもんですか!)

2005年10月追記
 「クラシックB級グルメ読本」でもアーノンクールに対する許光俊のコメントを見つけた。序「クラシックB級批評宣言」の3番目「ドンジャカは生命のほとばしりだ!」には「当初、意味もなく騒がしいと思われ、拒絶を受けたアーノンクールだって、今では一種の権威になった。ドンジャカも長く続けたほうが勝ちだ。」とある。要はラジオ体操の皆勤賞みたいなものだろうか? また「一種の権威」というのも「不良の親玉」みたいなニュアンスが「一種の」に込められているように思われる。

2006年1月追記
 アーノンクールがAERAの表紙に登場しているという情報を某掲示板から得たため、昼休みに図書館で閲覧してきた。確かに1月16日号は奴の顔写真全開である。例によって嫌悪感を催さずに済ますことの難しい顔だが、我慢してページをめくってみた。ところが、記事によるとウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(CMW)の結成当初は生活費を稼ぐためウィーン響のチェリストを続けなければならなかったし、その給料にしても大半は古楽器の購入や散逸していた楽譜の捜索に消えていったそうである。ちょっぴり感動&見直した。「当時、私たち家族はサラダとジャガイモばかり食べていました」と述べていたように紛れもない苦労人である。昨年の京都賞受賞もこの人にとっては「ささやかながらの御褒美」なのかもしれない。(嫌いな指揮者でも褒めるときは褒める。当サイトの公正さを端的に示しているといえよう。)

おまけ(思いっ切りこじつけだが「理論つながり」としてここに書く。)
 先月末(2005年7月30日)に一般公開に踏み切るまでは極秘裏(←大袈裟な)に作成を進めるはずだった当サイトであるが、実はそれ以前からその存在を不覚にも世間に知られてしまっていた。ネットでやり取り(←プライバシーに関わるため内容は伏せる)したある人につい漏らしたところ、彼は数日後に自身のサイトから此処へのリンクを貼ったのである。それ以後、少数ながら学外からも閲覧者が訪れていたようである。まあリンクも転載も自由なのでいちいち断る必要なしと私は考えているから全く気にしなかったが、ある日、某掲示板の許光俊スレッドからkyo.htmlへの直リンを貼られた時はさすがに少し焦った。もしかして先述したサイトの閲覧者による仕業か、と思ったが、いつの間にか yahoo.co.jp の検索結果に当サイトのコンテンツが表示されるようになっていた。(現時点で「許光俊」で捜すと1ページ目に出てくるが、そういう状況はいつまで続くやら。)実に恐るべしサーチエンジン。その後、当サイトにゲスト出演して頂いているある方から私信が届き、気が付けばそのサイトからもリンクが貼られていた。(私が把握しているのはこれら2箇所のみである。なお、私自身はリンクページすら設けるつもりがないので、相互リンクは永久にあり得ない。)ところで後者のサイトに出ていた紹介文に私は思わずズッコケてしまった。「非常に理路整然と筋道の通った書き方をされる方です」とあったからである。既にお見通しのことと想像するが、私はここで筋が通っていようが通っていまいが全くお構いなしに思いついたままを書き散らしているだけである。そこそこ時間をかけて慎重に作成しているはずの業務用の書き物ですら「論旨がおかしい」「飛躍している」などとしょっちゅう指摘されているというのに、ましてや脱線しまくり暴走しまくりが日常茶飯事となっている当サイトの文章が理論整然であるはずがないではないか。ふと有名な心理学者と同名の犬が作成しているクラシック総合サイトのことを思い出した。当サイトは分量こそ負けていないかもしれないが、向こうの方が質は圧倒的に上である。主張は常にスッキリしており理解しやすい。もちろん論理破綻などない。(此処とは似て非なる名サイトであるといえよう。)「理論整然」はあのようなサイトにこそ相応しいと思う。であるから、ここに謹んで返上したい。

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