交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
ニコラウス・アーノンクール指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
94/12/07〜09
Teldec 4509-98405-2

 98年発行の「名曲名盤300」(音楽之友社)ではヴァント&NDR盤に続いて何と2位に入っている。(とはいえ、今冷静に考えれば、たまたま2人が点を入れただけで混戦の中をドサクサ紛れで食い込んだという感じである。)それで、そこそこ聴ける演奏だろうと考えた私は7番と併せてamazon.co.jpに注文したのだが、結果は惨憺たるものだった。安売り品ではなく2000円強払ったのでダメージも大きかった。
 ブルックナー総合サイトの投稿ページには、こんな批評が載っている。(ドホナーニの9番もそうだったが、このN氏は自分が気に入らなかった演奏に対してはこのように徹底的な辛口コメントを述べることが多い。)

  このアーノンクールの『第3』はすべてのブルックナーファンにとって
 聞いておかなければならないCDといえよう。
  しかし、その理由は解釈の素晴らしさにおいてでは決してない。それは
 この演奏こそブルックナー演奏のタブーの集大成だからである。したがっ
 て、初めてブルックナーを聴く人にはまったく薦められない。

実は私も同じことを思った。第1楽章冒頭は弱音で始められる。それで音量を上げたらピークの少し前からいきなり騒がしくなって驚いてしまった。上のN氏はここまで聴いて「ダメ演奏」の烙印を押したのではないかと私は思う。聴き手の意表を突くためなら何でもござれ、まさに「チンドン屋」アーノンクールの面目躍如とでも言いたくなる。
 ピーク直前の「シド(EF)シドシドシドシド・・・・」の繰り返しは喧しいことに加えて、リズムが次第にいい加減になっていくという印象も受ける。この点ではアダージョがさらに顕著で、2分49秒〜、6分08秒〜、および6分55秒〜は突如スタスタとなるだけでなくリズムが大甘。ドホナーニ盤も不満だったが、この空中浮遊感はとてもそんなものではない。そもそもテンポ設定自体がヘンで、この指揮者の「構造把握能力」とやらも随分と怪しいものに思えてくる。「クラシックCD名盤バトル」にて「どこもかしこも間違っているう」とドホナーニ盤に難癖を付けまくった鈴木だが、こういう暴挙に対しては何も感じなかったのだろうか? リズムが曖昧と感じられる部分は終楽章でも聞かれた。また、これも全曲を通じてのことだが、突如乱入する木管ソロ、およびリズムを刻んだり対旋律を吹いたりするホルンがやたらと下品な音を立てるのもウンザリだ。(あるいはベートーヴェンなら許されるかもしれないが・・・・)こういうのを聴いて「テクスチュアを明晰にしている」とか「ブルックナーという作曲家の特性を透かし彫りにした」などと有り難がるのは、おそらく「構造バカ」ぐらいのものだろう。
 こんなディスクの批評執筆にこれ以上の時間とエネルギーを費やすのは全くの無駄、と一時は思ったが、後半楽章には聴くべきところもあるので少し書こう。騒々しい演奏は平板な2稿のスケルツォにはピッタリはまっている。あのコーダも「蛇足」どころか「なくてはならないもの」と聞こえるから不思議だ。終楽章も相変わらずの品のない響きやリズムの甘さが気になったものの、なかなかにスリリングで楽しめた。
 ということで、鈴木淳史がドホナーニ盤について述べた「旧来のブルックナー的なものからの束縛を解く手だてにもなるだろうし、そもそもこの作曲家の特性とはなにか、ということを考えるためにはとてもいい演奏だと思うのだ。演奏自体は悪いが」という批評は当盤にこそ相応しいものといえる。(今気が付いたが、これも「ブルックナー的なもの」と曖昧ワードを説明なしでいきなり使っているダメ評論である。)終わり。

おまけ
 本文中でも触れたが、鈴木は「クラシックCD名盤バトル」で「通俗的なブルックナーらしさをいったん保留して、この曲を細密に舐め尽くし、ブルックナーという作曲家の特性を透かし彫りにした、いい演奏」として当盤を推している。しかし、ドホナーニ盤が「作曲家の特性を考えるためにとてもいい演奏」であるならば、それに加えて当盤をわざわざ聴く必要性はどこにあるのだろうか? 全く意味不明の評論である。そもそも、その「作曲家の特性」とやらが(42行もかけてドホナーニ叩きする暇がありながら)全く述べられていないのだから話にならない。もう1箇所腹立たしいのが「通俗的なブルックナーらしさをいったん保留して」である。これも「ブルックナーらしさ」の説明がない時点で却下であるが、噛み付きたい点は他にある。そもそもブルックナーは「通俗的」なのだろうか? 彼の交響曲そのものに対しては、そういう形容は似合わないと私は思う。少なくとも3番は478番ほどには通俗性はないと考えているので、もしこの曲を指していたのならハッキリ異を唱えたい、どころか「節穴評論家」と言いたいくらいだ。(鼓膜に対しては何を使うべきなのだろうか?)「通俗的である/ない」が考えられるのは、あくまで演奏スタイルについてであろう。その場合、ウケ狙いに走った当盤の演奏が思いっ切り「である」なのは言うまでもない。まあ、どう考えていようと彼の勝手なので次に移るが、「いったん」とは一体どういうつもりだろうか? そうあるからには、保留がいつか解除される見込みがあるということだ。私にはそのようにしか読めない。もし指揮者自身が「今回は保留して演奏するけれども、将来は通俗的なスタイルを試みよう」というつもりで「いったん」と断りを入れたというなら話はわかる。(ただし、実行しなかったらもちろん「言いっぱなしの無責任野郎」である。)けれども、部外者が解ったような顔をしてこんな言い回しを軽々しく用いるのは、指揮者を貶める行為に他ならないのではなかろうか。(アーノンクールも褒め殺したかったというなら話は解るが・・・・)

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