ヘスス・ロペス=コボス

交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
交響曲第6番イ長調
交響曲第7番ホ長調
交響曲第8番ホ長調
交響曲第9番ニ短調
(全てシンシナティ交響楽団)

 「世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで」という本がある。著者の池澤夏樹が2003年9月に京都大学文学部で行った集中講義(全14回)をまとめたものだ。彼は自分で選んだ「世界の10大傑作」(19および20世紀の長編小説)を紹介しながら現代の社会問題や国際情勢などについても語っている。なかなかに面白い内容であった。(私が10作中7つを読んでいたということも大きい。ただし、「アンナ・カレーニナ」を「メロドラマ」として軽く扱っていたのは気に入らなかった。アンナの一見派手だが中身の薄いストーリーだけを取ればそうなのだが、本当に着目すべきは紛れもなく著者の分身ともいえるレーヴィンの物語である。池澤がそちらについてあまり語っていなかったことに大いに不満を感じた。そういえば、出家して寂聴に改名する前の瀬戸内晴美も世界文学全集の月報にて「レーヴィンのくだりは、だらだらしていて面倒くさく、読み飛ばしてしまうことが多いが」などと書いており、「こいつは結局何もわかっとらん」と愕然としたことを思い出した。それ以来彼女は大嫌いになったが、いかにも軽薄な瀬戸内らしいといえるかもしれない。池澤に戻ると、やはりアンナの方に目を奪われていたのだろうか? だとしたら「所詮その程度か」であるが、彼の小説を読んで内容の深さを探ってみないことには何ともいえない。私にはその経験がないところか、2003年度のNHKテレビ仏語会話のレギュラーゲストだった春菜の父ということで初めてその存在を知った程である。結局、私は大江を除けば現代の日本人作家にはまるで関心がないのだ。脱線終わり。)その第11回「百年の孤独」は、このようにして始まっている。「ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928-)。よくマルケス、マルケスといいますけれど、正式な姓はガルシア=マルケスです。父母両方から姓をもらいます。」間違いではないが、誤解を招きやすい書き方ではないかと思った。(余談だが、わが国ではノーベル文学賞を受賞したコロンビア人作家よりも「ガルシアマルケス」というファッションブランドの方が名が通っているのだろうか? ネットのオークションやフリマの出品は圧倒的にそっち関係の方が多いので私は欲しいものを捜すのに苦労する。ついでながら「百年の孤独」にしても幻の焼酎の方がたぶん有名だろう。)
 確かにスペイン語圏では「名前」+「第一姓」+「第二姓」で氏名を表すことが一般的だ。「名前」はもちろん "given name"、「第一姓」は父方の姓、「第二姓」は母方の姓である。(英米式の"given name" + "middle name" + "family name" とは構成が違う。そういえば、ロシア文学では「アレクセイ・フョードロヴィッチ」のように相手に敬意を払う際に使われる「父称」付きの呼び方がしばしば出てくるが、私はあれ結構好きである。)私が住んでいたパラグアイ西部の先住民居住地でもそうだった。ただし、普段は「名前」+「第一姓」で済ませていた。もちろん長ったらしいからであり、教会などフォーマルな場で呼ばれる時のみフルネームが使われていたと記憶している。この件に関してネット上で調べたところ、(いちいち記さないが)スペインと中南米、あるいは中南米でも国や地域ごとに風習は微妙に違っているようである。さらに、あるサイトにて「孫の代には消えてしまう母方の姓を残したいという考えを持つ人は多いようだ。二つの姓をつなげて一つにして登録しなおしたり」という記述を見つけた。そう、「ガルシア」と「マルケス」の間の「=」は「二つの姓をつなげて一つにした」ことを表しているのである。だから、池澤は「正式には『ガルシア=マルケス』です」よりも一歩踏み込んで「『マルケス』とだけ記すのは誤りです」とハッキリ述べるべきであった。(ここでまたしても余談。2005年春に圃場実験のためナミビアで一緒に1ヶ月を過ごしたボリビア人留学生は、投稿論文の著者名が長すぎるので片方の姓だけにしたらどうかと指導教官に言われて激怒したそうだが、おそらく彼の姓も切っても切り離せないものだったのだろう。)
 などと偉そうなことを書いたが、もしかすると間違っているかもしれない。まだハッキリしないことがあるから。フエンテス(メキシコの作家)のフルネームは「カルロス・フエンテス・マシアス」だが、「フエンテス=マシアス」いう表記は目にしたことがない。(「第二姓」は省略されている。)一方、あらゆる書物を見ても「ガルシア=マルケス」である。(普通の「第二姓」ならば同様に「マルケス」も省略可能なはずである。)このように統一性が見い出せず困ったのだが、もしかすると「マルケス」はガブリエルが母から受け継いだのではなく(それなら「・」で良い)、何代か前に父方の姓と融合されたものかもしれない。何にしても外国人の名前はややこしい。なお、先述した継ぎ足しを繰り返す内に名前が途轍もなく長くなってしまうこともありうる。ボルヘス(ブエノスアイレス生まれの小説家&詩人)のフルネームは「ホルヘ・フランシスコ・イシドロ・ルイス・ボルヘス・アセベード(Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo)」である(最後のアセベードが母方の姓)。もしかすると古典落語の「寿限無」みたいな中南米人がいるかもしれない。
 さて、例によってここで採り上げる指揮者とは全然関係ない話をダラダラ書いてしまったが、要は「ロペス=コボス」もそれで1つの姓であるということが言いたかっただけだ。ちなみにハンス・シュミット=イッセルシュテットも同様で、ドイツでは「ハンス・シュミット」があまりにもありふれた名前なので母方の姓をくっつけて区別するようになったということを某掲示板で最近知った。(つまり「山田太郎」みたいなものか? そういえば、同名のプロレスラーがいたような気がしたが、シュミット式バックブリーカーの考案者だったと思い出した。)ロペス=コボスに戻ると、スペイン出身という知識しか私は持っていなかったのだが、「クラシック名盤&裏名盤ガイド」のブル9の項で「洋泉社系泡沫ライター」の筆頭格である阿佐田達造が「大穴盤」(▲)として採り上げていたのが目に留まった。(この後に「本命」のショルティ盤が紹介される。該当ページ参照のこと。)

 ザッハリヒに剛球一直線でブルックナーを葬ってくれたのがロペス=コボス盤。
 楽器の音色で勝負できるヨーロッパのオケだったら救いもあったのだろうが、
 そこは近代兵器オンパレードのアメリカのオケ。見事なまでに騒音だけのCD
 に仕上がっている。ファン必聴の「と」盤だ。

上を読んで初めてこの指揮者に興味が湧いた。そんなブルックナーなら是非聴きたいものだと思っていたのであるが、TELARCの国内盤はことごとく廃盤で輸入盤も安くはなかった。ようやくにしてヤフオクで入手したのは初稿使用の4番で、正直なところこの版では演奏の善し悪しを判断することはできなかった。その後セットで出品されていた679番を落札。これらは結構気に入った。唯一「名曲名盤300」(98年版)で挙がっていた8番も安ければ入手しても良いと考えている。(→2006年12月に米アマゾンで購入)
 最後にまたしても横道に逸れるが、メキシコ人のエンリケ・バティスもやはり洋泉社の「クラシックの聴き方が変わる本」と「クラシックB級グルメ読本」にてやたらと騒がしい音楽を奏でる指揮者として紹介されていたため、私の頭の中では長いこと両者がゴッチャになっていた感がある。許光俊は「グルメ本」の冒頭にて「ばかばかしいほど明るい音楽は貴重だ!」という理由で「バティスを聴け。日本のオーケストラは、ドラッグでもやらぬ限り、こんな演奏などできまい。世界中には、頭のからっぽな人がいっぱいいるのだから、その空っぽさ加減を否定するのは、ファシズムなのだ。」と少々過激な言い回しながら推薦していた。(揚げ足取りかもしれないが、ならば許が「生協男」ことコープマンを糞味噌にこき下ろすのもファシズムの一種と考えて良い訳である。)彼のお気に入り指揮者の1人のようで、HMV通販サイトの「言いたい放題」でもベートーヴェンの交響曲全集などを褒めている。私としてもバティスのブルックナーをいつかコレクションに加えたいところであるが、今のところは録音していないようである。レパートリーにすら入っていないのだろうか?

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