クリストフ・エッシェンバッハ

交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
 パリ管弦楽団

交響曲第6番イ長調
 シュレースヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団
 ヒューストン交響楽団

交響曲第9番ニ短調
 北ドイツ放送交響楽団

 指揮だけでなくピアノも弾くという理由で単純にバレンボイムを凄い音楽家だと思い込んでいたことは既に彼の目次ページに書いた。後に二刀流も決して珍しくはないと事情が判ってみれば「なーんだ」で、アシュケナージやエッシェンバッハもそうであると知っても別に驚かなかった。このうち知名度の高かった前者については独奏曲、室内楽曲、および協奏曲のCD何枚かに加えてウォルトンの交響曲第1&2番とチャイコフスキー「ロメオとジュリエット」他管弦楽曲集(ともにロイヤル・フィルとの演奏)も買ったが、後者は1枚も持っていないどころか完全に無視していた。
 ところで、アシュケナージによるシューベルトのピアノ・ソナタ第21番&「さすらい人幻想曲」のCD(87年発売)解説を執筆した宇野功芳は、エッシェンバッハやバレンボイムの指揮活動がピアノ演奏にマイナスになりこそすれ少しもプラスになっていないのに対し、アシュケナージの場合は立派な糧となっている点が決定的な違いであると述べていた。その前の段落でも、ピアニスト活動をほぼ停止したエッシェンバッハ、指揮に大きなウエイトを置くようになったバレンボイムについて「彼らのピアニストとしての才能からしてあまり賛成できない」と批判する一方で、「アシュケナージはさすがに賢明、ちょうど巧いバランスを保ちつつ活動しているのは嬉しいことだ」と手放しの褒めようであった。しかしながら、その後(90年)刊行された「名演奏のクラシック」の対談では、「ピアニストあがりの指揮者というのはバレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハ、いずれも面白くない。もっともアシュケナージはピアノもよくない。すべてツボを心得た演奏ですが、巧言令色というか、深いものはありません」という箸にも棒にもかからない男(宇神幸男)のコメントに反論すらしていない。それどころか、彼に同調して「個性はないけれど、それでは無味乾燥かというとそうではなく、いかにもそれらしく表情をつける。僕らには生ぬるくて聴いていられないような真実味に乏しい演奏が、一般には抵抗なく受け入れられるのです」などとまさに言いたい放題である。本心では全然いいと思っていなくとも解説ではいかにもそれらしい言葉を並べて誉める。まさに巧言令色であり厚顔無恥もいいところだ。こういうのは「嫌いな演奏家でも誉めるときは誉める」とは全く意味が違う。(それすらも解っていないのだろうか?)いや、「善し悪し」と「好き嫌い」の混同よりもはるかにタチが悪い。「いい加減にせい!」と怒鳴りたいところだが、「恥」同様「節操」という単語も脳内辞書に載っていない人間には何を言っても無駄かもしれない。(ちなみに、私は交響曲以外のジャンルにはそれほどこだわりがないので、ピアニストとしてのアシュケナージについては良くも悪くも思っていない。一方、指揮者としては正直なところ感心できない。先述のウォルトンはあまりにも盛り上がりに欠けると思われたため、通販サイトで特価品だったハイティンク盤と置き換えてしまった。チャイコも凡演だが、そのディスクにしか入っていない曲があるため残している。デュトワの後を受けて常任指揮者の地位に就いたN響時代も興味は湧かず、指揮棒を手に突き刺してコンサートが続行不可能になったというニュースが印象に残った程度である。不謹慎かもしれないが、それも何年か経てば自分の顔を突いてしまったショルティと同じく逸話あるいは武勇伝になるのだろうか? こういうのは本来なら「アシュケナージのページ」に書くべきであるとは承知しているけれど、彼のブルックナーのCDを持っていないのだから仕方がない。また、そのためだけに唯一の録音である00番をわざわざ買うのはアホらしい。)
 さて、ようやくにしてエッシェンバッハに話を持っていくが、指揮者になるのが彼の最終目標だったということを「クラシックの聴き方が変わる本」で知った。竹内貴久雄が書いた「音楽家たちの歳のとり方」のエッシェンバッハの項(見出しは「職業選択の自由とその見通し」)によれば「幼い頃から、指揮者になるのが目標だった。そのためには、まずピアニストとして有名になるのが早道だと思っていた」などとインタビューで語っていたそうだ。よって、ピアニストとしての実力にいくら疑問符を付けられようとも彼は痛くも痒くもなかっただろうし、一部評論家による酷評も今になってみると見事な空振りだったいうことになる。ところで竹内は「巨匠指揮者への仲間入りも間近かもしれない?」で結んでいたが、ほぼ同時期に買った「クラシックB級読本」でも許光俊が指揮者エッシェンバッハについて述べていた。序「クラシックB級批評宣言」の「3.ドンジャカは生命のほとばしりだ」には「バランスが何だ。エッシェンバッハを聴いてみよ。あまりに真剣なドンジャカに、客席から失笑が起こるほどだ。だが、今度は天下の北ドイツ放送響のシェフなんだぞ。すごいだろ。」とある。が、いかにも洋泉社系評論家好みの「変態」あるいは「ゲテモノ」指揮者を想像してしまい、さすがに手を伸ばす気にはなれなかった。(ヴァントにのめり込んでからは、その後継者ということで全く関心がない訳でもなかったが・・・・)その後、「クラシックCD名盤バトル」中のサン=サーンス交響曲第3番の項でも許が触れているのを目にした。ただし、「重厚さを保ち続けて堂々としているのもよい」「エッシェンバッハのキワモノ的なイメージを払拭する演奏だ(別に払拭しなくていいけど)」でニュアンスはだいぶ違う。と思っていたところ、その「オルガン付き」とともにブルックナー6番およびベートーヴェンのP協1番を収録した国内版2枚組が発売されたため躊躇せずゲット。3曲とも気に入ったが、特にブル6の印象がすこぶる良かったので上に記したようなディスクも購入することになった。今後も新譜が出たらコレクションに加える可能性は高い。最後にいらん話だが、近年ブルックナーにも手を染めるようになったD・R・デイヴィスは、髪型(スキンヘッド)だけでなく演奏スタイルも何となく似ているような気がするので多少関心はある。ただし、今のところリリースされているのが(既に食傷気味の)初稿による48番だけなので手を出すには至っていない。(「犬」通販で4番が税込490円、8番が同890円まで下がったが見送った。検索したら6番も表示されたので思わず身を乗り出したが、よく見たらリンツ・ブルックナー管を振ったF・グラスの交響曲だった。)

追記
 実は本ページの執筆開始時点で持っていたのは4番と6番シュレースヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管盤の2種のみだったのだが、脱稿直後にそれぞれ楽天フリマとアマゾン・マーケットプレイスで見つけた6番ヒューストン管盤と9番NDR盤を買ってしまった。ある指揮者のディスク評を作成する間に未所有ディスクに興味が湧いてくる。そして新たにコレクションが加われば評を書くことになるから、さらに他盤も聴いてみたくなる。今更気が付いたのだが、どうやら正のフィードバックが作用するようだ。つまりサツマイモの塊根肥大過程と同じである。(←なんじゃそれ。)

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