交響曲第6番イ長調
クリストフ・エッシェンバッハ指揮シュレースヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団
88/07/06
BMG (RCA) BVCC-38252〜53

 エッシェンバッハのブルックナーでは最初に聴いたのが当盤なので、これから始めることにした。(ネットオークションで入手したが、拍子抜けするほど安かったと記憶している。)
 まず第1楽章冒頭の「チャッチャチャチャチャ」という弦の刻みが全然神経質でないのが良い。コントラバスの序奏も大らかである。そして0分53秒からの主題提示の巨大な表現! ショルティ盤に匹敵する演奏に初めて出会った。あそこまでティンパニが喧しくないが、打撃音が低いため凄味では上回っているかもしれない。ホールの残響によって音に濃密さが加わっていることも聞き逃せない。(ジックリ聴くと他の楽器とは必ずしも合っていないことが解るが、あるいは「我が道を行く」覚悟を持って渾身の力で叩き続けたのだろうか?)その後早足になるけれども、例によって私が退屈しがちなこの曲でのテンポいじりは免責事項に加えているためOKである。4分過ぎでテンポを落とし徐々に盛り上げていくところも素晴らしい。テンポのメリハリはショルティ盤よりきつい感じだが、遅い部分のスケール感は明らかに上回っていると聞こえる。反面、速い部分はせせこましさを感じてしまうので一長一短であるが。9分過ぎの再現部も(少々もたつき気味だが)ティンパニの大活躍のお陰で圧倒的迫力を生んでいる。13分30秒以降の広大無辺と言いたくなるような表現も素晴らしい。が、惜しむらくはコーダ。着地が決まっていない。いくら何でもティンパニがやり過ぎで響きが混濁しているし、最後は「ダンダダダダ」のリズムが曖昧になるため、ヘトヘトで足がもつれながらゴールになだれ込む陸上選手が目に浮かんでしまった。
 両端楽章は気合い十分ながら他は凡庸という演奏が少なくないけれども、当盤はそんなことはない。アダージョもトップクラスである。ここは遅いため合奏力不足が露呈せずに済んでいる。何といっても濃厚音質のためスローテンポを押し通しても間延びしないのが大きい。14分過ぎから楽章終わりまでがこれほどシミジミ味わい深い演奏を私は知らない。第3楽章も突き進むようなスケルツォとシミジミトリオの対比効果が抜群だ。ここでもティンパニがブラスと主役の座を争うかのように炸裂するが、引くべき所をちゃんとわきまえて共倒れになってしまわないのが偉い。終楽章も冒頭からスタスタ気味に来て1分20秒から力を溜め、1分29秒で爆発させる。ここから1分46秒までは掛け値なしに凄い。6番でここまでの爆発が聴けるとは思ってもみなかった。(フルヴェン盤がステレオなら、あるいは・・・・)第1楽章同様にテンポメリハリによって全く飽きさせないし、ここではラストのティンパニが乱れ打ちなので全くもたつき感がなかった。減点するところなし。この曲も終盤にさしかかってようやく気が付いたのだが、既に述べたパートにとどまらず、交替で旋律を受け持つ弦も木管も例外なく上手い。寄せ集めとはいいながら「優秀な若手演奏家たちによって組織されるオーケストラ」(解説書)だから当然かもしれないが。あるいは「恐いもの知らず」の若者の方がこの曲では名演を成し遂げられるのかもしれない。「不動の一位」盤にしたって指揮者は全く老成知らずだった訳だし。
 最後に不可解な点を2つ。iTunesで聴くためパソコンに入れたら "Georg Tintner & New Zealand Symphony Orchestra" と表示されたこと。そして、これほどの熱演にもかかわらず終了後の拍手が控え目だったこと。大音響に耐えかねて観客の多くが逃げ出してしまったのだろうか?

おまけ
 ついでにカップリングのサン=サーンス「オルガン付き」について少し。(で終わらないな、きっと。)この曲はレンタル屋で借りたカラヤン&BPO盤のコピーテープを長いこと聴いていた。その演奏については「クラシック名盤&裏名盤ガイド」で阿佐田達造が(誰かさんみたいに)ネチネチと攻撃対象にしている。彼は「帝王」の「ドイツ音楽では、オケに対して明るく、軽い、透明な響きを求める半面、フランス音楽では野暮ったいくらいの厚ぼったい響きで、音楽を塗り込めてしまうという非常識きわまりない態度」を指摘して、「世間の相場とは常に逆のことをやりたがる、トンデモナイあまのじゃく」と糾弾していた。さらに「ドビュッシーならまだしも、こってり味を(ラヴェルや)サン=サーンスにまで押しつけるのはいかがなものか」と異を唱え、この曲でも「おどろおどろしく開始される冒頭からそれ(こってり味)は遺憾なく発揮され、場違いなレガートや赤面してしまうようなポルタメントが重厚無比、壮麗極まりないテンポのもとで繰り広げられるのだからたまったものではない」と批判の手を緩めない。終いにはノートルダム寺院で合成録音されたオルガンの音色にまで「不気味」と難癖を付ける始末。(「ホラー映画の世界」と評していた。)
 だが、私はそれにすっかり馴染んでしまっているから、他のあらゆる演奏が水っぽく感じられて仕方がない。(他ページに書いているかもしれないが、シベリウスの2番も同様である。ちなみに偶然だと思うが、「クラシック名盤&裏名盤ガイド」の同曲の項も阿佐田が執筆しており、またしてもカラヤン盤に「ブラームスにワーグナーの衣装を着せてシベリウス像をブチ建てている」「この曲がまるでドイツ浪漫派の遺髪(註:原文ママだが「衣鉢」と違うか?)を継ぐ大作であるかのような錯覚に陥ってしまう」と不満タラタラで、バーンスタイン&VPO盤とともに「勘違いの『と』盤」呼ばわりしていた。しかし、私はここでも両巨匠の演奏以外はことごとく軽薄と聞こえてしまうため受け付けられない。カラヤンの旧録音もFMで聴いたがサッパリだった。要はショルティのブル6やチャイコPC1と同じく最初に強烈な演奏を聴いたために感覚が破壊されてしまったのだ。カラヤンにしてもショルティにしても、とにかく危険極まりない指揮者だと今更ながら思う。それでも阿佐田は「際物」扱いながらも彼なりに評価しているからまだしも、彼らを「きれいごと」とか「無機的」で片付けて平然としていられる評論家連中というのはよっぽど感性が鈍いんだろうと私は思っている。)初めて買ったチョン&バスチーユ管盤はオルガンに全然迫力がなく、終盤でもサッパリ盛り上がらなかったため直ちに中古屋へ逆戻りとなった。(カップリングのメシアン「キリストの昇天」も私は後に編曲されたオルガン独奏版の方が断然好きだ。)後に買ったデュトワ&モントリオール響盤はそれよりはマシだが、物足りないことに変わりはない。こちらは併録曲(同じ作曲家の交響詩とヴィドールのオルガン交響曲抜粋)が捨てがたいので手元に残したけれど。
 一方、このエッシェンバッハ&バンベルク響盤であるが、何といっても尻軽でないテンポ設定が良い。(もっと遅くてもいいけれども。)さすがに重厚さはBPOに劣るが、残響がそれを補っている。そういえば「クラシックの聴き方が変わる本」にてもう1つの併録曲、ベートーヴェンのPC1番について宮岡博英が触れていた。「指揮者のくどさがすさまじい。モーツァルト調のところも多いが、ショパン風の薄いオーケストラを分厚く鳴らす趣が最も強い」とある。そういう「くどい」スタイルはサン=サーンスでも健在で、カラヤン盤にすっかり毒された私にとってまさに望むところである。まずまず満足のいく演奏にようやくにして巡り会えた。(とはいえ、「と」盤の壮麗さ&重厚さはやはり忘れがたい。通販サイトで試聴可能であるが、第2楽章後半のオルガンは地獄から鳴り響いてくるかのような凄まじさだ。安い中古を見つけたら間違いなく手を出すだろう。)

さらにおまけ
 エッシェンバッハによるシューマンの交響曲全集について「毒にも薬にもならないような演奏が横行する今日、こういう演奏は貴重だと思います」と褒めたついでに「この対極はカラヤンや小沢でしょうか?」と腐しているサイトを見つけた。それでも小澤については「とことんドラマ性を排除する方向で徹する最近の姿」を評価しつつあるようだが、とことん嫌っているらしきカラヤンは全く認めようとしていない。とんでもない! もちろん全てではないが、上で述べたようにカラヤンの音楽には猛毒がある。犬は嗅覚だけでなく聴覚も人より優れているはずだが、さすがにサン=サーンスやシベリウスでの地獄から響き渡る怨念のようなドロドロまでは感じ取れないのだろうか?

2006年4月15日追記
 「地獄盤」の安い中古を探し回っていたが、今月5日にamazon.comにて "Karajan The Collection" の中古がUSD4.70で売られているのを発見した。(どうでもいいことだが、このシリーズのジャケットに使われている指揮者のプライベート写真は、どれもヤラセっぽくてイマイチである。彼が存命だったら絶対に使用許可を出さなかったに違いない。)ラヴェルおよびドビュッシーの代表曲と併録されたこの2枚組の存在は国内通販での検索で知っていたけれども、カラヤンのフランスもの、特に「ボレロ」には感心できなかったこともあって(チェリの9番SDR盤ページ参照)手を出す気にはなれず、あくまで単品入手を狙っていたのである。しかし、諸経費を加えても10ドルちょっとというお値打ち品を見逃す訳にもいくまい。ということで昨日届いたディスクを聴きながらこれを書いているのであるが、オルガンのド迫力はやっぱり桁外れである。ふとTVアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の第2回放映シリーズの最終回を思い出した。(そういえば先月21日に主題歌を作曲した宮川泰が亡くなっている。私はこの人のテレビやラジオでの軽妙なおしゃべりが好きだった。ご冥福をお祈りする。)
 劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」(初回シリーズの続編)では味方がことごとく戦死し、万策尽きた古代進がヤマトもろとも敵船に体当たりし自爆するという壮絶な結末だったが、原作者の松本零士は特攻精神を美化するものだとして不満の意を表明したため、その後制作されたTV版のラストは反物質で構成されたテレサが白色彗星帝国側と対消滅し、ヤマトと乗組員は生き残るというハッピーエンドに変更されることとなった。その少し前であるが、大ボス(緑色の肌が印象深い)の乗る戦艦がヤマトの前に姿を現した際の挿入曲には地響きのような音のパイプオルガンが使われていたことをよく憶えている。(独奏だったか管弦楽付きだったかは忘れてしまったが。)この「と」盤を改めて聴いていたところ、第2楽章の後半冒頭で別録オルガンが凄まじい大音量で鳴り出した瞬間、あのシーンが脳裏に浮かんだのである。立ちはだかるものを容赦なく焼き尽くし、押し潰すような巨悪を表現するにはまさにピッタリの音楽といえる。あるいは既に何かの映画で使われているかもしれない。それにしても自室のCompanion3でこうなのだから、もっと低音の出るスピーカーで大音量で鳴らせばどんなことになるだろうか?
 ついでながら、こちらも既にハイティンク9番評ページの追記に書いていたことであるが、BPOの高いピッチによる「ボレロ」はやっぱり聴くのが苦痛である。(かつて私が購入し手放したEMI盤は77年録音で、このDG盤は66年録音なのだが事情は全く同じである。)オルガン交響曲の方も両楽章の後半からはハ長調が多くの部分を占めるため、不快に感じて当然なのだが平気だった。何とも不可解なことである。

6番のページ   エッシェンバッハのページ