ロリーナ・マッケニット(Loreena McKennitt)
 「ケルト音楽」というジャンルがわが国でも一定の人気を獲得するようになって久しいが、私は単にスコットランドとアイルランドの民族音楽を指すものと長いこと思い込んでいた。(100%誤りではないけれども。)実際にはもっと広い地域にわたっていると知ったのはつい最近のことである。以下しばらくナショナル・ジオグラフィックに掲載されていた「欧州の辺境に息づくケルト民族の心」(2006年4月号)から引いてみる。
 かつてケルト民族は黒海から大西洋に至るヨーロッパの広い地域を長い間支配していたが、中世末期までに大陸の西端へと追いやられた。今ではケルト文化圏は北のスコットランドから南のスペイン・ガリシア地方などに点在しているに過ぎない。ただし「ケルト人」の定義は海辺の天候並みにつかみどころがない。数百万人の「ケルトの血をひく人々」に加えて、「ヨーロッパの美しき敗者」(註)の歴史や神話、芸術に魅了された「ケルトの心をもつ人々」も増えているからである。(註:ある英国の作家が自由な魂と反骨精神、詩的な感性、自然への崇拝、神秘性、自給自足といった特徴を備えたケルト民族の文化を讃えてこう呼んだらしい。)指輪物語の作者J・R・R・トールキンは「ケルトの世界は魔法の袋だ。この袋には何でも入るし、ほとんどどんなものでも取り出せる。」という言葉を残している。その意味は正直なところイマイチ解らなかったけれど、これから採り上げるロリーナ・マッケニットも先の「ケルトの心をもつ人々」の1人であることは確かなようである。
 彼女の歌はかなり前から耳にしていたのだが、歌い手の存在を意識するようになったのは、こちらも何年も経ってからのことである。その経緯について述べてみる。
 大学院生(名古屋在住)時代に足繁く通っていた中古屋で「ケルティック・ウーマン」というアルバムを見つけた。(ただし2005年頃から登場した5人組とは全く無関係である。その団体のディスクが現在そこそこ売れているようだが、某札付きレーベルから発売されていたこともあり私は見向きもしなかった。身売り後どうするかは決めてない。)ケルト音楽に少しは興味があった私は「試しに1枚」というつもりで買った。これが素晴らしかった。極めつけは1曲目。ハープ独奏による長い序奏の後に入ってくるヴォーカルの天にも抜けそうなほど透き通ったソプラノには尋常ならざる感銘を受けた。ゆえに(全曲通しで聴く時ももちろんあったが)、トラック1だけ再生して満足満足ということも少なくなかった。それほどにも圧倒的な出来映えだったのだ。他に収録されていた6人より実力は少なくとも頭2つは抜けているという印象で、実際日本語解説でも「別格」扱いされていた。が、なぜか歌手名が記憶に残るということはなかった。(その理由として少々覚えにくい名前だったということは考えられる。)
 それから何年か経って(滋賀に戻って)からのことである。当時出入りしていた音楽関係サイトのうち、関西在住だった(今いずこ?)Mさんの主催するBBSにて「板長」(管理者)から、「泉さんならロリーナ・マッケニットあたりが気に入るのではないか」とのレスを頂いたのである。名前に馴染みがなかったので調べてみた。そして全く遅蒔きながら、あの絶唱を聴かせてくれた女性歌手と認識するに至ったのである。Mさんには私の好みを見事なまでに見透かされていたのであった。
 ここで件のディスクについて少し解説する。文字通り "CELTIC WOMAN RECORDS" というレーベルが制作した "CELTIC WOMAN"(CWRCD-7001)には、女性歌手7名のアルバムから2曲ずつピックアップされている。(5名がアイルランド人、1名がアイルランド在住、そしてマッケニットのみ後述するように同国とは直接の関係を持たない。)それを1996年10月にオーマガトキが日本語解説書付の直輸入盤(SC-3150)として発売した。(さらに98年12月には第2集 (OMCX-1043) も出たと知り、安価な中古を見つけたら買おうと思っていたのだが結局その機会は訪れなかった。)ところが同社が2000年に再発した国内盤「ケルティック・ウーマン 〜 ニュー・ヴァージョン」(OMCX-1051)からは何とマッケニットが他1名(メアニー・オライリー)と共に外されてしまっている!(代わって2名を補充してはいるものの収録時間が67分22秒から58分05秒へと短縮されてしまったのもケシカラン。)契約の問題で入れ替えを余儀なくされたのかもしれないが、これでは魅力半減だろう。(カレン・マシソンおよびオルラという交代要員について何の知識も持ち合わせていない私が言うのも何だが。)ただし、初発時のラインナップと同一の輸入盤(Valley Entertainment)は今も通販サイトから入手可能である。
 さて、そのさらに数年後に話は移る。手持ちのポピュラー音楽に飽き飽きしていたという訳でもなかったが、誰か他にいい歌手いないかなと思っていた頃、ふとマッケニットのことを思い出し、ディスク購入の検討を始めた。当時既に8種類のCDが発表されており、どれにしようか迷いに迷った。(ちなみに3作目以降はワーナーから国内盤も出ていた模様である。今では入手困難だろうが。)そこで彼女のオフィシャルサイト(www.quinlanroad.com)を訪ねてみた。その中身はとにかく充実しており、加えて何と14カ国語で閲覧可能である(2007年5月現在)。また、もちろん一部ながら全ての音源を試聴することもできる。(他にショッピングのコーナーまで設けられ、CDとDVDが購入可能だが送料を加えると決して安くはない。またファイルのダウンロードもできるようだが利用したことはない。)実際にやってみた。そうすると1stアルバムの "Elemental" こそ典型的ケルト音楽というべきシンプルなスタイルだったが、その後はイスラムなど他文化圏の要素を加えつつ次第に多国籍(無国籍)化を強めていくように思われた。それらの中で、先の "CELTIC WOWAN" に "Annachie Gordon" および "Huron 'Beltane' fire dance" という2曲を提供していた第3作の "Parallel Dreams" を選ぶのが安全策である。上記Mさんのサイトにて収録曲の1つが「とんでもねぇ歌」として採り上げられていたから興味もあった。が、1/4の重複(新規に入手できる音源が6トラックに留まること)がやはりネックとなり候補から外れてしまった。(最近米アマゾンで5USドルの中古を見つけて小躍りしたが、海外発送は行っていないようなので断念。未だ入手していない。→追記:後に英アマゾンにて2ポンドで出品されているのを見つけた。諸経費込みでも1300円ほどで入手できる。が、未聴音源の合計が30分ちょっとしかないと知って買う気が失せた。)どの品もネット通販の売値が輸入盤の相場から見れば高かったため、安価中古の出現を待っていたのであるが、ある日Yahoo!オークションで "The Book of Secrets" を見つけたため即時入札→無競争落札した。(終了日時:2005年 8月 26日 21時 40分、落札価格不明だが確か1000円ポッキリだった。)また同時期にamazon.comにて当時最新作だったライヴ盤2枚組 "Live in Paris and Toronto" の中古がアホみたいな安値(何と4USドル!)で売られていたので、そっちにも手を出した(Order Placed: August 25, 2005)。(入札中にそのDISC1が "The Book of Secrets" と同内容であると知ったため、あわよくばオクの方は高値更新されんことをと願っていたのだが思いは通じなかった。被った方は結局人に譲った。)さらに、その10日後にはデビュー作の "Elemental" も米アマゾンのマーケットプレイスから買った。"Total for this Shipment: $17.47" ということで、それなりに出費した訳だが理由はある。彼女の全作品は2004年に "ORIGINAL RECORDING REMASTERED" として再発されていたが、それらがDVD付きという形で "ENHANCED" されたリイシュー品であると判ったからである。動くマッケニットが観てみたかったことも初期作品への興味と共に大きな購入動機となった。
 その「おまけ」に入っていた "No Journy's End" というタイトルの映像作品にて自らを(「誰もが、自分のもてるものを使って人生を開拓し、人生をわかろうとしているという意味では同じ」と断りつつ)「巡礼者」と称し、自分のレコーディングは旅行記(心の探究の跡を記したドキュメンタリー)であると語っていた彼女だが、実はカナダのマニトバ州(僻地らしい)生まれであり、本来ケルトとは何のつながりもない(オフィシャルサイト掲載の自己紹介より)。ところが、どういう訳か1970年代後半からケルト音楽にはまってしまったらしい。その切っ掛けについていまいちハッキリしないのが不満だが、日本人にも異国の赴任地で「この○○こそが自分の本当の故郷だ」とか「私の前世は○○人だったに違いない」などと直観し、そのまま○○に住み着いてしまう人が少なくないから、それと何となく似ているような気もする。兎にも角にもマッケニットはアイルランドを訪れて「原始のケルト音楽」を追い求めたりしているうちに、最初の方で触れた「ケルトの心をもつ人々」に加わったという訳だ。ただし、それを「安住の地」とするのを良しとせず、後にガリシアやモロッコなど旅先で得た題材やインスピレーションをも積極的に採り入れていくことになる。(なお、そういう意味での「ワールド・ミュージック」を指向することになった理由として、自分が多文化社会のカナダで生まれ育ったことを挙げている。)彼女の「巡礼」はまだまだ続く。
 ところで、この映像にて少々うつむき加減に歩き沈着冷静に語るマッケニットからはいかにも知的な女性という印象を受けるのであるが、併録されているビデオクリップ2種のうち "The Mummers' dance"("The Book of Secrets" 収録曲)では、立ってアコーディオンを奏でている彼女に惹かれるどころか引いてしまった。とくに終盤で微笑みを浮かべつつ踊っている姿には薄気味悪さを覚えずにはいられなかった。そういえばアルバムジャケットの何枚かも魔女みたいでちょっと怖いし。とはいえ私にとってミュージシャンの容姿など畢竟どうでもいいのだが。
 最後にもうちょっと。先に「最新作」と書いたけれども "Live in Paris and Toronto" が発売されたのは1999年のことである。その後6年間も新譜リリースが途絶えていたことになる。どうしたのかと訝しく思っていたが、某掲示板の過去ログにこんな書き込み(02/05/30付)を見つけた。

 ところで、98年のライヴの後、フィアンセが事故で亡くなって
 以来、ロリーナは歌っていないというようなことを聞いたので
 すが、いまだに復活されていないのでしょうか?
 とっても心配です。

HMV掲載の歌手経歴にも "her fiance's death" と書かれていたから事実であろう。(そのまま引退するとの噂まで流れたそうである。)「そりゃちょっとやそっとでは立ち直れんわな。可哀想に・・・・」と思っていたのだが、オフィシャルサイトの「ニュース&エッセイ」中の最新情報から、その年(2005年)には各地で公演を行い何かの賞ももらっていたと判って一安心。この分なら新作が出る日も遠くはなかろう、ならば必聴だと思っていたところ、案の定2006年11月に "Ancient Muse"(邦題「古代の女神」)が出た。もちろん予約注文して入手。その感想は評ページに記すとして、ここにはHMV通販に掲載されていた「ユーザーレビュー」を貼っておく。1行目については全く同感だ。

 最愛の人の急逝のショックからよくぞ立ち直った!
 それだけでも100点満点!

おまけ
 マッケニットのディスクは(一時期こそワーナーなど大手レーベルと手を組んだこともあったようだが)一貫してQuinlan Roadレーベルが制作と販売を手がけている。加えて、上記オフィシャルサイトにも明記されている通り歌手のマネージメントなど(おそらくウェブサイトの運営も)一切の業務を取り仕切っているようだ。しかも100%独立運営で所属アーティストはロリーナ・マッケニットのみ、さらに本人がオーナーで運営も本人が行っているという徹底ぶりだから、「マッケニットのマッケニットによるマッケニットのための事務所」と言いたくもなる。そこから窺えるのは歌手の金銭への執着ではもちろんなく、音楽に取り組む真摯な姿勢である。本文中で採り上げた映像作品を観て、「スピリチュアルがどうのこうの」という話には正直辟易したものの、音楽の伝道者としての使命感がヒシヒシと伝わってきたので私は大いに感じ入った。サイト掲載の自己紹介中にも(子供の頃は獣医になりたいと願っていたらしいのだが)「私が音楽を選んだのではなく、選ばれたんです」との一文があるように、彼女はそれを十分すぎるほど自覚しているに違いない。前世紀末に大きな痛手を受けても現役を続けようと決意したのは、「自分が選んだ職業であれば自分の意志で止めることもできるが、選ばれたものだから勝手に止めることなど許されない」との意識からであろう。私はそのように思っている。以下、マッケニットからは脱線。
 新潮社のPR誌「波」2006年11月号に「『本当の私』というフィクション」と題する対談が載っている。そこで内田樹(うちだ・たつる、神戸女学院大教授)はこう語る。

 「キャリアを考えるとき、自分で扉を開けようと思ってはダメだよ」
 とよくアドバイスするんです。キャリアの扉のノブは向こう側にあ
 って、こちら側からは開かない。ドアが開いて「いらっしゃい」と
 言われたら、そこがあなたのゆくべき場所であって、それがどんな
 仕事でも、与えられた状況でベストを尽くす。自分の適性や能力は
 他人が判断することで、自分で決めるものじゃないよ、と。

これは進路相談に来た学生への助言のようだが、「天職というものは与えられるもの、自分で探し出そうとして見つかるようなものでは決してない」という点で通じていると思ったから持ち出す気になった。なお、途中に「『自分探し』は苦役である」というサブタイトルが置かれているが、対談相手の南直哉(みなみ・じきさい、禅僧)もなかなかに含蓄のある言葉を連発している。例えば「『自分探し』で悩んでいる人の多くは、自己イメージと自分は一致していて当たり前で、ズレているのがおかしいと思っている。しかし、そのズレこそが私の存在領域で、もっと言えば、ズレ自体が私だと言いたいぐらい。」等々。この対談は南の新著「老師と少年」の刊行記念として企画されたようだから、その本のこともちょっとは気になっている。(→追記:で結局買ってしまった。が約1000円で112ページ。加えて大きめの文字&改行しまくりだから読みやすいのは事実だが、その反面セコいことを言わせてもらうと、字数/価格で評価する限りコストパフォーマンスはお世辞にも優れているとはいえない。文庫化を待った方が賢明ではないかとも思う。)

おまけのおまけ
 その本の中身についてはスルーするつもりだったが少しだけ。著者が師に語らせている「生きていくことの苦しさと、生きていることの苦しみは違うのだ」という言葉は真実である。ただし両者は独立(直交の二次元座標の関係)ではない。「総和一定」とは言えぬまでも、トレードオフ(一方が減じればもう一方が増ずる)の関係にはある。(両軸が直交ではない二次元座標か?)だから病気や貧困に喘いでいる人は「生きていくことの苦しさ」に手一杯で「生きていることの苦しみ」を考える余裕などありはしない。一方、そのような人達から「腹が立つほどの戯言」などと誹られようとも、自著に「生が何が何でも生きるに値するものとは、どうしても考えられない」「私の生は、もう十分に退屈で、つまらない」のような痛ましい言葉を並べずにはいられなかった某音楽評論家からは「生きていることの苦しみ」がアリアリと見て取れる。それも「生きていくことの苦しさ」を感じなくても済むような環境(註)が彼に与えられているからこそである。(註:私は敢えて「恵まれた」という形容を付けない、付けられない。)つまり「生きていることの苦しみ」というのは、痛風とか最近はやりのメタボリック症候群のような生活習慣病(贅沢病)の一種と考えても良いということかもしれない。が、だからといって某巨大掲示板で見た「甘ったれた野郎」という非難が一方的に正しいとは思っていない。なぜなら「生きていることの苦しみ」というのは本人にはどうすることもできない、他に置き換えることは決してできないものであるからだ。(それを紛れさせようとする行為も畢竟は効果がないと思い知らされるだけ、それどころか時に逆の作用をもたらすこともあると倉田百三が書いていたっけ? また自傷行為によって「生きていくことの苦しさ」を生み出し、それで相殺しようとする企てはそもそも危険だし、2種の苦しみが数直線のプラスとマイナスのような位置関係にはないはずだから期待したほどの成果が上がるようには思われない。大江健三郎の「下降生活者」や「性的人間」の結末みたいに自らを社会的に抹殺するのも割が合わないという気がする。そういえば、自分はいつの間にか前者の主人公と同じ地位に就いてしまっているのだな。)今ふと「自由が与えられている苦しみ」とも結びつけられるような気がした。ただそうなると「カラマーゾフの兄弟」や「不思議な少年」あたりを持ち出してこなくてはならないだろうが、ここでの深入りは控えておく。

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