交響曲第5番変ロ長調
フランツ・ウェルザー=メスト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
93/05/31〜06/01
EMI 7243 5 75862 2 1
ウェルザー=メストのディスクとしては他にだいぶ前に中古屋で(指揮者目当てでは全くなしに)買ったモーツァルトのハ短調ミサ曲がある。が、特に愛聴盤になったということもないし、(当番同様)ブックレットには前途洋々といった賛辞が並んでいたにもかかわらず、私はこの指揮者を全くといっていいほど注目してこなかった。当盤を新品で買ったのも安かった( "encore" シリーズの廉価盤で900円以下)からに過ぎない。「クラシック悪魔の辞典【完全版】」では「練習は細かく厳しいが、おかげでオケがあまり好意的な理解を示さないので、ただウルサイだけの音楽になってしまう生意気坊主」と解説されている。(筆者はこの指揮者の才能を認めているようで、以後は将来に期待するといった文章で埋め尽くされている。ただし、「年を取って丸くなれば巨匠に大化けすることは間違いない」という見解はどうだろうか。地位を得た途端にラトルがつまらなくなってしまっただけに、メジャーオケとの関係はマゼールのような「付かず離れず」ぐらいでちょうど良いのではないかと思っている。)当盤ではまさにその通りの音楽を聴くことができる。
評論家からは全くといっていいほど無視されているようだが、ネット評は決して悪くない。あるサイトでは「鈍重さとは無縁の颯爽たるブルックナーが爽快」(従来の「鈍重」「愚昧」「冗長」「退屈」というブルックナーとはほとんど別物)と述べられていた。ブルックナー総合サイトの投稿文には正直なところ大クエスチョン(「この曲に込められた信仰の想いを誠実に再現している」以下、各楽章についてのコメントも全て)だが、肯定的評価であることには変わりがない。そして、ウェルザー=メストのファンサイトである。当盤評のタイトル「若さまご乱心!ブルックナーの生国の首都ウィーンで暴れまくる」には笑わせてもらった。が、それが全てを言い表しているようにも思える。
第1楽章1分過ぎの「ミソド」の音型はことごとくしゃくり上げる。1分30秒からのティンパニの大音響には苦笑してしまった。当盤では最初から最後までこの打楽器が顔を出せば間違いなく独壇場である。(叩きすぎで音量調節機構が壊れてしまったのだろうか?)そのブレーキを失った暴走ティンパニが2分14秒のファンファーレになだれ込んでくるのだから今度は失笑するしかない。この時点で確信したが、これはクナやフルヴェン、あるいは最近採り上げたボトスタインですら逃げ出してしまうようなトンデモ演奏である。(詳細はそのサイトで読まれたらいいだろう。「神は神でも破壊神」という見方には100%同意する。)若さゆえの特権かもしれないが、勘違い演奏と言ってしまっても構わないようにすら思う。タメのないスタスタテンポに終始し、それでいてティンパニが重石のように鳴り響くのだからバランスの悪いこと甚だしい。なので、「独奏ティンパニとオーケストラのための協奏曲」(冒頭に挙げた鈴木のコメントが本当だとすれば、ティンパニ奏者だけが指揮者に共感していたため結果的にそうなったのかもしれない)として聴くのが当盤の正しい鑑賞法である。
などと投げやり評になってしまったが、ヴァントやチェリのような「鈍重」なブルックナーを好む私ゆえ、それも当然という気がする。(ついでながら、件のサイトにあった「高潔な音楽性」などは私も屁とも思っていない。)
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交響曲第8番ハ短調
フランツ・ウェルザー=メスト指揮グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団
02/04/02〜03
EMI TOCE-55516
欲しいとは全然思っていない品だったが、例によって「野次馬落札→出品価格(800円)のまま終了」というパターンを辿った。輸入盤だと思っていたら国内盤だった。解説は吉村溪。チェリの目次ページにて「ハッタリ」呼ばわりした評論家であるが、ここでも案の定お粗末な内容だった。どうやら当盤が「小手先でテンポや音量変化をいじった浅薄な演奏」とは異なっていると言いたいらしいのだが、「最も重要なのはテンポそのものの緩急ではなく、音楽そのものが包含する内的な時間をいかに正確に把握するかであって、基本テンポを速めにとったとしても、全体の楽曲構造の中における関係性がきちんと成立していれば彼の音楽は偉大なる姿をおのずと明らかにするのである」のような一般論(しかも意味不明)を展開するだけで、どのようにして関係性が成立しているのかについては全く明らかにしていない。指揮者の生い立ち(リンツ生まれ)を根拠に「ブルックナーの肝心要の部分を踏み外すはずがない」と決め付けるなどお笑い種としか言いようがないし、ついに「常に本質を損ねることがない」という某評論家の十八番(思考停止)まで持ち出すに至っては開いた口が塞がらなかった。キリがないのでこの辺にするが、わざわざ高い金出して新品を買った人はさぞかし腹を立てたことだろう。
さてさて、そんな解説とは打って変わって演奏は満足のいくものであった。5番同様に第1楽章冒頭(1分18秒と20秒)のティンパニがけたたましい。テンポも前のめりだ。こんなハイテンションのままで大丈夫かいな、と危惧せずにはいられなかった。仮にオケがそれを保ち続けられたとしても、聴く側はそれに慣れてしまうと次第に物足りなさを覚えるようになるからである。ところが嬉しい誤算が待っていた。中間部(8分過ぎ)の加速は煽るほどではない。13分過ぎのカタストロフも抑制気味であるが、この楽章を起承転結の「起」と考えればこれは正しい。終楽章では相当暴れ回っているが、それもフルヴェンやマタチッチ、ヨッフムなどを知っている耳には至極真っ当な演奏(=前段落吉村の評は的外れ)と聞こえる。ちっとも耳を貸してくれないロンドン・フィルの連中にサッサと見切りを付け、マーラー・ユーゲント管と手を組んだのは大正解だったといえる。26歳以下の若手奏者で構成されているらしいが、技術的には全く不安を感じない。(「『グスタフ・マーラー』の名を冠しておいてブルックナーなんか演奏すんなよ」などと野暮なことを言ってはいけない。って、そんなこと考えるのは自分だけか?)そういえば、創立に関わったアバドにしても、このオケやヨーロッパ室内管との活動の方が老舗(BPOやVPO)とよりも実を結んでいたような気もするし。(追記:山崎浩太郎は「名指揮者列伝」のカラヤンの項にて、「硬直化したヨーロッパのオーケストラ運動に新しい波を起こしつつある」これら2団体を育成したことをアバドの構成への功績として評価し、さらに「アバドはこの育成活動により、二十世紀のクラシックの『荘重の時代』(音に弾力がなく、生真面目に敷きつめられる)に生きながら、二十一世紀の『俊敏の時代』(音に弾力があり、跳ねまわる)を準備することに成功したのだ」「空席に仕える宮司役を演じながら、彼は『カラヤン以後』の別の道を見出したのである」と褒め讃えていた。)何にせよ、あの5番と同じ指揮者によるものとは思えないほどの正統的名演というのが私の評価だ。(この点では「説得力が足りない」とする上記ファンサイトとも大きく隔たっている。「アッケラカンと演奏する『神は死んだ』時代のブルックナー?」というタイトルには肯けるが。)少なくとも後述するテンシュテットのLPO盤(当盤同様の中庸テンポであるだけでなく、各楽章のトラックタイムも分レベルでは全て同じ)よりは断然上出来である。
ただし、大相撲に喩えれば新入幕で10勝あるいは11勝を挙げたという「敢闘賞」レベルといったところか。今後、幕内(前頭)上位や三役でどこまで勝負できるかを見ないことには真の実力者であるか否かは判らない。そういう意味でブルックナーの(758番に続く)第4弾を聴いてみたいのだが、どうやら録音はそれっ切りになってしまっているようだ。もしかすると鳴かず飛ばず状態に陥ってしまっているのだろうか? 2002年からクリーヴランド管の音楽監督を務めているらしいが、特にこれといったニュースや録音の話題は聞いていない。ここで同じくLPOを振っていたテンシュテットを思い出した。EMI所属という点も一致しており、「次世代を担う数少ない独墺系指揮者」ということで売り出したかったのだろうが、彼もリアルタイムで新譜が出ていた頃の評価はもう一つだったように思う。(来日公演を聴いた人はそうでもなかったようだが。)我が国で人気が出始めたのは病に倒れてからだし、それが沸騰したのは死後である。ウェルザー=メストも同じ運命を辿ればあるいは、などと不謹慎なことを一瞬考えてしまった。(まさかとは思うが、疫病神が取り憑いているようなレーベルゆえ、中堅・若手をダメにするオーラを出しているとか。だとしたらラトルも危ない?)
最後もどうでもいい話だが、URLにウムラウト(変音記号)付きアルファベットが使えないため、当サイトでは "möst" の代用として "moest" という表記を採用している。ところが「塔」「犬」「尼損」等の通販では、おそらく便宜上だろうがウムラウトを取っただけの "most" で検索するようになっている。ついでながらja.wikipedia.orgには「ウェルザー=モーストと表記される事もある」と出ている。いずれにしても「家畜語」では最上級副詞であることも手伝ってか、私の耳には随分と偉そうに響くため抵抗がある。もし彼が真の「巨匠」であると認めることができたら(候補でも可)そう呼んでさしあげよう(例によって不遜発言)。
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交響曲第7番ホ長調
フランツ・ウェルザー=メスト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
91/08/27
EMI TOCE-13404
今年(2006年)6月上旬のこと、某掲示板の「【EMI】Okazakiリマスター【恵美】」スレッドにて東芝EMIによるリストラ断行のニュースを知った。フジサンケイのビジネスアイが出処らしいが、自社ビル2棟とその土地を売却し、全社員520人の約37%にあたる190人程度を削減するというから、何とも思い切った手を打ったものである。同じ日に私の気持ちを代弁するような(どこが?)「Okazaki先生は大丈夫なのだろうか?」という書き込みがあった。とはいえ、彼が元からEMIの正社員でなく害虫、いや外注業者の一員としてマスタリングに携わっていたなら無関係だし、運悪く斬首されたとしても直後に付いたレスのように技術者ならどこでも食っていけるだろう。腕さえあれば。実際には以下が真実らしい。
213 :名無しの笛の踊り :2006/07/20(木) 09:10:11 ID:oGklpjjm
岡崎さんって今回の東芝EMIの大リストラを生き残ることが出来たんでしょうか?
219 :名無しの笛の踊り 2006/08/05(土) 15:11:50 ID:/bnxyKKD
退職されました。
今度はフリーのエンジニアとして今後ご活躍なされます。
ご心配なく。
ただ、クラシック担当者は今度は1人だけになり、コンピレーションアルバム
中心の展開を図るそうです。
219は関係者だろうか? それはさておき、この月の終わりには「日本のEMIはクラシック撤退だってね。本社も売却済み。」という投稿もあった。濡れ手に粟のごとく「ベスト・オブEMIクラシックス」シリーズで大儲けした同社にとって、大して売れもしないクラ新譜のリリースなどアホらしくてやってられなくなったのだろう。コンピと過去の遺産で食いつなぐという儲け主義&手抜き体質を今後いっそう強化させていくのは間違いない。勝手にやっとくれ。
さてさて、実のところ私の目を引いたのはその後のやり取りである。
258 :名無しの笛の踊り :2006/08/29(火) 02:38:32 ID:MJW3fpZW
ブックレットから「Remastered by Yoshio Okazaki」の文字が消えたね。
260 :名無しの笛の踊り :2006/08/31(木) 21:25:31 ID:wEtuBEgl
なんか1300シリーズ、今月発売分から異常に音が良くなった気がするんだけど・・・。
よく見たらOkazakiの文字がどこにもないし、誰か別の人がリマスターしたのかな?。
263 名無しの笛の踊り 2006/09/01(金) 04:57:55 ID:fYV5I2a4
>>260
リストラ時期と重なるな。
どうやらOkazakiの名がクレジットから消えてから音が良くなったのは事実のようだ。ということで、リストラ効果(?)による音質改善を実感するために購入したのが当盤という訳である。(←それが主目的かい?)
「犬」通販の紹介文によると、プロムスのライヴでヴェルザー=メスト&ロンドン・フィルによる初録音らしい。一方、上でも引いた指揮者のファンサイトでは「私のブル7観を一変させた、FWM渾身の名演!」というタイトルとともに絶賛(5つ星評価付き)されていた。「FWM」という省略形がどことなくプロレス団体(そりゃFMW)や海賊盤(そりゃFKM)を思わせるのは引っかかるものの、なかなかに興味をそそられる批評である。ブックレットに掲載されていた指揮者の発言は(解説の諸石幸生も述べているように)さらに興味深い。「ブルックナーの音楽は、ナイーヴで、その根底には宗教性があるというのは、誤った常識なのです」はまあいい。が、次の「彼の作品は、私たちが思っている以上に革新的であり、年配の指揮者にはちょっと演奏できないような世界なのです」は何と大胆なことを言ってくれるじゃないの。要は「ジジイは引っ込んどれ!」ということである。実際に聴いてみた。(後続の番組は全然つまらん。)
最初に音質に言及しておくと全く文句の付けようがない。ただし、マスタリングの巧拙を聞き分けるなら少し古いアナログのステレオ録音にすべきだったと後になって気付いた。
トータル60分47秒という快速テンポを採用していることもあり、先述のファンサイトの「『ドシーっとした響きならブルックナーっぽいでしょ』という、ブルックナー演奏にありがちな固定観念を打破し」というコメントは当を得ている。が、同様のスタイルではロスバウトやスタインバーグ、あるいはギーレンなどは短時間ながら上手にメリハリを付けて聞き所を何箇所も設けていた。いわば「省エネ演奏」を繰り広げていた訳だが、彼らと比べるとウェルザー=メストの進め方はあまりにも一本調子というか工夫がなさすぎではないか? 耳を引いたのが第1楽章の4分30秒過ぎの減速→5分過ぎの加速、そして私にとって「禁忌」の同楽章コーダだけというのは寂しい。第2楽章も退屈してしまった。さらに言えば、ワルターのように前半は淡々で後半ネットリという趣向(野球のピッチャーが変化球主体の組み立てから入って次第に速球の割合を増やしていくのとどことなく似ている)を聞かせていた訳でもない。録音当時31歳だった指揮者に多くを求めるのは酷だが。
ただし、後半だけを採れば合格点はやれる。スケルツォは脱兎のごとき勢いが素晴らしい。管がとちっているが一発録り無修正だと思えば気にならない。既に前楽章のクライマックスでやってくれていたが、所々で激しく打ち鳴らされるティンパニは2年後の5番と一緒だ。爽やかに始まるフィナーレも要所で金管が元気いっぱいに吹き鳴らす。「血気盛ん」という形容がピッタリくる演奏だ。ただしトータル的には豪語した割に大したことがないという印象は否めず、「若気の至り」的凡演と言わざるを得ない。こういうのが許されるのはせいぜい30歳代まで。いつまでもこんなのを続けていたら単細胞呼ばわりされても仕方ないだろう。(ただし80になるまでやってたらショルティ型の巨匠として持てはやされる可能性もある。)
最後になるが、ディスクのレーベル面が白と茶色という地味な配色となり、以前と比べたらいかにもチープになったという印象を受ける。「EMI CLASSICS 決定盤1300」シリーズは元からこうだったのかもしれないが、ひょっとしてデザイン部門もバッサリやられたのか?
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