コリン・デイヴィス

交響曲第6番イ長調
 ロンドン交響楽団

交響曲第7番ホ長調
 バイエルン放送交響楽団

交響曲第9番ニ短調
 ロンドン交響楽団

 C・デイヴィスといえば別ページで触れた「プロムス・ラストナイト」のライヴ盤を愛聴しているが、それ以前からシベリウスの交響曲全集(PHILIPSの旧全集)を持っていた。以降、この作曲家について脱線する。
 「私のクラシック遍歴」等で繰り返し言及したカセットテープ版「音のカタログ」にこそ収録されていなかったが、同封されていた「紙のカタログ」掲載の交響曲大全集にはシベリウスの2番が収録されていた。(演奏者は憶えていないが、CBSの音源だからバーンスタイン&NYPだろうか?)作曲家名には全く馴染みがなかったが、それほどの名曲ならば一度聴いてみたいものだと思っていた。そんなある日、名前は忘れたがNHK-FMの朝のクラシック番組(7:15〜8:50?)で放送されることを知った。朝食を摂りながら、そして昼食(弁当)を作りながらその番組を聴くのが私の日課だったが、流れてきた音楽のあまりの美しさについつい調理の手を止めて聴き入ってしまった。(いつもは8時20分に家を出るのだが、その日は最後まで聴いてから調理を再開したので遅刻する羽目になった。)私が聴いたのはカラヤン&BPO盤(80年録音)だった。即座にCDが欲しくなったが、「週刊FM」に明記されていた番号は「38CCXXXXX」(おそらく初発盤)で高くて手が出ない。ところが、しばらく後のこと、「音楽の友」にてカラヤン来日記念盤として発売される10枚の内に含まれると知った私は手を叩いて喜び、直ちに予約注文を入れた。(定価2800円というのは当時としては破格値だったため、他にも何枚か買ったことは既に「遍歴」ページに書いた。)
 待ちに待ったCDがようやく入荷し、まだ所有枚数が少なかったため繰り返し聴いた。(ただし、マスタリングのせいか相当変な音質だったようだ。同様のコメントをネット上で何度か目にしている。実際、貸した知人からは「こもっていて聴きづらい」と返却時に言われた。当初はラジカセで聴いていたためか私は気にならなかったが、後述する経緯で買い戻した際には違和感を覚えたので、結局は中古屋で見つけた「○kazaki」盤に乗り換えることになった。これは珍しく「音質破壊」あるいは「歪みが2088倍凄まじい」という悲惨な事態は招いていないため、今も手元に残している。)
 このBPOとの再録は、人気投票企画「名曲名盤300」にて発売後間もない83年こそ1位だったが、87年ではトップ3から転落し(詳細は不明)、さらに93年では1人が2点入れただけで下位に低迷、そして98年は見事なまでにソッポを向かれ、ついに誰も点を入れなくなってしまった。エッシェンバッハの6番88年盤の「おまけ」に記したが、「クラシック名盤&裏名盤ガイド」にて阿佐田達造はバーンスタイン&VPO盤とともに「勘違いの『と』盤」に挙げている。彼に限らず、どうやら評論家の間には「カラヤン・サウンド」の豪華絢爛さがシベリウスには場違いであるという評価が定着しているようだ。ネット上でも不人気は著しく、フィルハーモニア管との60年旧録音と比較しても圧倒的に評価は低いように思われる。が、私は全然気にしない。ブル6ショルティ盤と同じく、脳細胞が破壊されてしまったのかもしれないが、この演奏をシベ2のダントツ盤として挙げることに何のためらいもない。(ちなみに浅里公三による乗り換え盤=TOCE-3352の解説によると、シベリウスはカラヤンを自分の音楽の最上の演奏家と考え、「私が表現したかったことを演奏してくれる、ただひとりの人だ」とまで信頼していたらしい。そうなると、妙にこぢんまりしたアッサリ型演奏こそが作曲者の意図を踏みにじる「勘違いの『と』盤」ということになりはしないか? ついでながら、この解説によるとカラヤンはシベリウスとブルックナーに類似点があると考えており、「本質的に同じ感覚があるのです」と語ったそうだ。なぜシベリウスに魅力を感じるのか自問し、「ほかと比較を絶した、独自な作曲家だからだ」と思うに至ったということだが、確かにその点はブルックナーも一緒である。「地学でいう“迷い石”のように自在で、気ままです。それらの石はあるべき場所を守り、それぞれに巨大で、違う時代を生きている。しかも、それらの石がどこからやってきたか、誰も知らない」という言葉は指揮者のシベリウス観、そしてブルックナー観が窺えて大変興味深い。ところで、彼が挙げた親近感の理由「たぶん、私が人里離れたどこか遠いところに憧れ、町よりも山を愛する人間であることと関係があるのでしょう」は、ある評論家によるシューリヒト評とかなり似ているように思った。)ここで昔話に戻る。
 カラヤン盤入手直後にやはりFMで1番(演奏者不明)を聴き、2番のような感銘こそ受けなかったが豪快さがやはり気に入った。それでいつしか全曲が聴きたくなった。シベリウスが7曲書いていることを音楽之友社の「ON BOOKS SPECIAL 名曲ガイドシリーズ 交響曲(上)」を読んで初めて知ったほどの初心者ゆえ、誰のディスクが良いかはさっぱり分からない。カラヤンにしようかと思ったが、全曲入れていないどころが4〜7番は黄色ブルジョワレーベルに録音していたと判ってみれば高いため買いたくない。そこで大学生協のカウンターに置いてあったカタログで比較検討し、いつもの原則に従ってデイヴィス&ボストン響盤(30CD-439〜42)を注文した。4枚組で定価12000円だったが、それが当時の最安値だったのである。(当時は「クレルヴォ交響曲」も含めた全集はなかったはずで、後にベルグルンド&ヘルシンキ・フィル盤を中古屋で買った。)そして「1曲1枚」の原則にも従い、カラヤンの2番は潔く手放した。
 さて、その全集に収録されていた2番だが、実は83年「名曲名盤300」ではカラヤン盤に次ぐ2位、そして次の87年は1位に輝いていたから大いに期待していたのである。ところが見事なまでに裏切られた。何がといえば、どこの誰かは知らないが(←当たり前だ)アホ観客による執拗な咳が入っていたのである。皆に分からないようにと思ってか大音量の所で連発しているが、それをマイクは見事に拾ってしまっているので、とにかく耳障りで仕方がなかった。演奏自体もカラヤン盤と比較すればチンケとしかいいようがなく、全く物足りなかった。(例外的にアッサリ気味の終楽章の締め方のみ、阿佐田が「大袈裟なティンパニの連打には、苦笑させられた」と述べた「と」盤とは全く違っていたけれども、それはそれで面白いと感じることができた。)最強盤を手放してしまった自分の迂闊さを恥じ、直ぐさま買い戻すことになった。ただし、他の交響曲や交響詩(3曲)はさほど悪い出来とは思えなかったし、咳き込み攻撃も全く聞かれなかったため、今でも唯一の全集として棚に載っている。(ちなみに1番は「名曲名盤300」の83年版で1位、87年では3位に選ばれていたが、これはまあ納得もいく。ついでながら98年版では12番ともロンドン響との新録に取って代わられている。)というより、4種(ヤンカラ、バンスタ、セル、C・デイヴィス)持っている2番以外は1種類のみで、コレクションを増やそうとも思っていない。ここで改段落してさらにイチャモンを付ける。
 最近(2006年2月)某掲示板の宇野スレでこんなやり取りを見た。

 今更だけどチケットの2月号でシベリウスの交響曲2番は駄作。
 なんでこんなものがポピュラーになったのか云々
 456が深い。2番聞くくらいなら1番の方がいいとか言ってたね。

 それは昔から言ってる。

これが宇野だけならば笑い飛ばすことができるのだが、他の評論家までが同じようなことを口にしているのが私は気に入らない。先述した全集の解説執筆者=菅野浩和である。

  主題が短小であり、かつ旋律的表情性を切り捨てていることの
 ゆえに、シベリウスの3番以降の交響曲は、1番、2番ほどのポ
 ピュラリティを獲得していない。しかしすでに全集レコードを買
 った人ならば、ぜひ3番以降と2番以前を比較していただきたい。
 いずれの境地が深いだろうか。

上を読んで当時の純真な私は「2番が一番好きであるに留まらず、最も出来が良いと思っている自分は間違っているのだろうか?」と大いに悩んだものである(大嘘)。しかしながら、いくら聴いても3番以降の方が優れているとは聞こえなかったし、中でも34番は退屈なだけで聴き通すのが苦痛ですらあった。が、あまり物事を深く考えない私は、そのうちに「勝手に言わせておけばよい」という気分になってしまったのである。
 ここで傑作と人気作との関係についてはKさんとメールでやり取りしていたことを思い出した。以下長々と載せてみる。例によって暴言のオンパレードだが・・・・

 >>  ところで、ベルリン・フィルの団員のひとりが、「マーラーの6番の
 >> ハンマーは悲痛すぎる。あれを演奏した後は、それが名演であればあるほど、
 >> 数日間憂鬱になってしまう」という風なことを言っていたそうです。
 >> 「悲愴」などはよく「くら〜い曲」などと説明されますが、人を憂鬱にさせる
 >> タイプの音楽には聞こえません。
 >>  私はマーラーの6番は聴いたことがないのですが、人をどん底に叩き落す
 >> 音楽というのがどんなものなのか、ちょっと想像できません。

 >  実は僕は6番、それほど好きではないのです。聴いていてどん底に落ちた
 > こともありません。大げさでわざとらしく聞こえるだけです。俵孝太郎氏が
 > 著書で6番から8番まではほとんど聴かない、聴こうとも思わないと書いて
 > いましたが、これら3曲は僕にとっても好みからはかなり遠い曲です。ただ、
 > 専門家の評価が最も低い7番はまあまあ好きでたまに聴きますが、あとの2
 > 曲は共感できませんね。8番は第1部、6番は3楽章だけ聴くことはありま
 > すが・・・・6番が最高傑作であるとする専門家の主張は僕には理解できま
 > せん。ある現代作曲家のマーラーに関する本では、とにかく俗っぽいところ
 > を含んだ曲(「復活」など)は駄目なんだという主張を最後まで通していまし
 > た。そんなこと言ってるからファンが離れていってしまうんだということに
 > 全く気付いていない人だなぁと、読んでいて可哀想になりました。

 >> 「激甘の旨口」というのは、つまり「かわいい」ものでなおかつ良質な
 >> もの(「十中八九」に含まれないもの)と合致するような気がします。
 >> 「となりのトトロ」などは「激甘の旨口」と言えるような気がします。
 >>  岡本太郎の作品は「激辛の旨口」ということになるのでしょうか。
 >>  カラヤンの演奏などは「激」が付くかどうかは別にして、聴きやすい
 >> という意味では「甘口」と言えるのかも知れませんね。
 >>  モーツァルトの音楽はやはり「甘口の旨口」ということになるので
 >> しょうね(「激甘」かどうかはともかく)。
 >>  そう言えば今江祥智の作品はもろに甘口です。

 >  なかなかに面白い表現ですね。まずカラヤンですが、60年代途中までの彼
 > は辛口ですね。と考えると、カラヤンは堕落したという評論家は、単に自分
 > が甘口の良さを知らないだけだということに気付いていない大馬鹿者という
 > ことになりますね。とにかくカラヤンの音楽は「辛口の旨口」から「甘口の
 > 旨口」へ移行したと思います。
 >  ところで、手元にあるCDジャーナル89年4月号の故三谷礼二氏の文章に、
 > こんなのがありました。「世間には『専門家にも評価され、一般大衆にも理解
 > 愛好されるもの』こそいいものだ、という考えがあるが、私にいわせればそ
 > れこそエセ・インテリの俗説というものである。勿論そういう有り難いもの
 > が存在したらそれに越したことはないが、そんなものがどこにあるかしら?」
 > (連載「歌の翼に」より)(ちなみにこの人は徹底したアンチ・カラヤン派で
 > した。ある時は、ちゃんと創造的な演奏をしているのは誰かというテーマで、
 > ピアニストは何人か挙げましたが、指揮者はバーンスタインとチェリだけ、
 > ヴァイオリニストについては「クレーメルとチョン・キョン・ファでチョン」
 > という過激な主張をしていました。それにしてもCDJはどうしてアンチ・
 > カラヤン派を好んで起用するのだろうか?○木氏は当時も今も書いている
 > し・・・・)
 >  何だか宇野氏の分身みたいな三谷氏ですが、こういう人にとっては「甘口
 > の旨口」というような考え方は一生出来っこないのでしょうね。先の作曲家
 > と同様、可哀想になってきた。ところで、一般大衆にも理解愛好されるもの
 > =駄目なもの、と考えるということは、即ち一般大衆を低く見ているという
 > ことになりますね。と考えると、自分にもその気が全く無いとは言い切れな
 > い。危ない危ない。
 >  とにかく、素晴らしい芸術というものは専門家も一般大衆もお構いなしに
 > 存在しているんだから、それでいいんじゃないかと思います。つまり、専門
 > 家が評価したから優れた芸術になったわけではない、のは当然なのに何故か
 > 勘違いしているような人がいる。また、大衆が支持するものには何かとイチ
 > ャモンを付けたがる。やっぱりセンセイ方に非があるような気がしてきた。
 > これからは僕もなるべく大衆の好みなどには触れず、自分の考えだけを述べ
 > るよう心がけるつもりです。           (1999/01/14)

少し補足しておくと、「激辛の旨口」とはメール中に出てくる今江祥智(Kさんご贔屓の児童文学作家)の造語である。(私も触発されて何作か今江文学を読んだ。)「現代作曲家のマーラーに関する本」は故柴田南雄の「グスタフ・マーラー」(岩波新書)である。また、故三谷礼二の高慢ちきな文章に比べたら宇野功呆や○木△之なんぞはまだかわいいもんだとすら思えてくる。(彼は高邁と高慢とをはき違えていたのではなかったか?)
 この件に関して三谷とは正反対の見解をネットに載せている人がいたはずと記憶を辿っていたら、既に他ページで触れていた有名哲学者と同名の犬であると思い当たった。そのサイト中の「フルトヴェングラーへの戯言」というページでは、「分かりやすい=底が浅いという式は成り立ちません」「この両者は全く互いに依存しない独立した変数です」という主張が繰り広げられる。それをサポートするものとして以下の4パターンが提示される。

 1)分かりやすいけれど、底が深い
 2)分かりやすいけれど、底が浅い
 3)分かりにくいけれど、底が深い
 4)分かりにくいのに、底が浅い

作成者によると「カラヤンに代表される演奏スタイルは典型的な2)のパターン」「前衛音楽などと称される愚かな試みの大部分は4)のパターン」ということだが、それは本題とは直接関係ないから措くとして、「3)のパターンは滅多にお目にかかりません」「優れた演奏というものは大部分が1)のパターンに入ります」に続く「ただ、その分かりやすさの性質が違うだけです」には思わず膝を打った。とてもCanis familiaris の書いたものとは思えないほど優れた考察である。「自分こそが本物を理解することのできる人間だ」と言わんばかりのスノッブ野郎よりも断然好ましく思っているのは言うまでもない。(ついでながら同ページの「壊れた演奏までフルヴェンだからと言って持ち上げているような盲目的追従こそが、日本におけるフルヴェン受容の胡散臭さの最大の理由である」というコメントにも同感である。)
 さらにサイト内を徘徊してみたところ、シベリウス問題でも論理的で冷静なるページが作成されていたのを発見した。私と同じく「後期の作品こそが真に素晴らしいシベリウスの世界か?」と疑問を表明するに留まらず、セシル・グレイが最高傑作であると主張したらしき4番について「王様は裸だ!」と言い切ってくれているのが何より嬉しい。(そのページを閲覧中、私が所有するケーゲルの15枚組ボックスに同曲が収録されていたのをようやく思い出した。それほど聴く気が起こらない曲である。)さらにグレイの「4番最強説」を後ろ盾とした菅野(←日本のシベリウス研究の権威とは知らなんだ)の「初期<中期以降」論にも「氏からは多くのことを学んだのであまり悪く言う気はないのだが」と控え目ながら異を唱えていた。(上の「主題が短小」「旋律的表情性」云々のみならず「瞑想と沈潜、奥床しさと幽玄さは比類ないものになる」というデイヴィス全集盤の解説と類似した文章が引かれていたから、あるいはそれを読んでムッとしたのかもしれない。)既に無断転載しているので気が引けるのだが、もうちょっと貼らせてもらう。
 後期の作品について「旋律線はもはや横には流れない。至る所で断ち切られる。要するに息苦しいのだ。」と評した後、このように続けられている。

 識者は、これを、シベリウスがロマン派の影響を脱して、
 いよいよシベリウス独特の世界を築いたのだと主張する。
 分かりやすくて、気持ちのよい音楽はとるに足りないもので、
 訳が分からず、重苦しいものほど芸術的な価値が高いと言う
 ことだろうか?

 確かに、独自の世界だ。それは認めよう。しかし、だからと
 いってそれがイコールで「より優れたもの」とはならないだろう。

さらに「独自性があることがイコール価値があるわけではない」という見出しの後に展開される持論は実に見事であるが、これ以上の転載も何なので自粛することにした。私が「ハッタリ野郎」呼ばわりしている某指揮者にこそ聞かせてやりたい話であるとだけ述べておく。いつものパターン、つまり羽目を外しすぎて話を戻せないまま終わってしまいそうな雲行きになってきた。仕方がないので脈絡のないままにブルックナーに持っていく。
 特に好きでもなく高く評価していた訳でもない指揮者だったから、デイヴィスのブルックナーにもまるで興味は持てなかった。いつしかOrfeoレーベルから7番が出ているという情報を入手したが、アダージョとスケルツォをひっくり返すという暴挙に出ているという話だったので、「そんなことで注目を集めようとしなければならないほど凡庸な演奏に違いない」と判断し、その時点で「言語道断盤」の仲間入りとなった。その後、ロンドン交響楽団の自主制作による69番がリーズナブル(「犬」通販で1000円弱だったか?)な値段で発売されたものの完全無視していた。ところが、「尼損」にて "Bruckner" で検索し「価格の安い順番」で並べ替えたところ、それら2枚が最初の方に出てきた(確か600円前後だった)ので、ついついカートに入れて他盤とともに注文確定させてしまった。なぜか今では1000円以上に値上がりしているので、悪くない買い物だったといえるだろう。しかしながら、いざ聴いてみての印象が「安かろう悪かろう」だったこともあり、先述した7番にまで手を伸ばすことにはまずならないと予想している。値段もさほど安くはならないだろうし、それ以上に(いくら指揮者の考えだったとしても)スケルツォの後にアダージョが来るという想像するだにおぞましい演奏など、私にはとても聴き通せる自信が持てないからである。(レーグナーのマラ6がやはり中間楽章の演奏順を逆転させている。滅多に再生しない曲だが、プログラム入力が面倒なので私は慣行順に焼き直した青裏で聴いている。)

2007年8月追記
 上記予想は見事外れた。意志弱すぎ。

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