交響曲第7番ホ長調
コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団
87/05/01
ORFEO 208891

 目次ページには「言語道断盤」とまで書いていたにもかかわらず、つい魔が差して入手する羽目に陥ってしまった。例によって「ヤフオクで出来心入札→そのまま終了」というパターンである(落札価格800円)。
 当盤はJ.F.Berky氏によるディスコグラフィ中の "Discographic Horrors" コーナーで紹介されている。(ちなみに直上には私が報告したディスク情報も載っている。)既に記したように「第2楽章スケルツォ→第3楽章アダージョ」という一般に認知されているとは到底言いがたい順序で演奏されているからである。ちなみに氏は、あくまで製品として問題のあるディスクを収めるべき「恐怖」コーナーに当盤を加えることに当初抵抗を感じていたようである。おそらく製造過程で入れ替わってしまったに違いないと考えていたのだが、コンサートを収録したバイエルン放送のテープには、「この変更が指揮者によってオーソライズされた(正当と認められた)」とのアナウンスが入っていたとのこと。もしかするとコリン星人、いやコリン卿は8番と同じ順序で演奏すべしと考えていたのかもしれないが、その3年前に行われた同じオケとの公演では通常の「第2楽章アダージョ→第3楽章スケルツォ」だったそうだから何とも理解に苦しむ。(この乱心について解説執筆者が全く言及していないのは更に不可解である。)兎にも角にもBerky氏は「将来彼が適切な順序に戻し、ブルックナーの意図した作曲上の構造をそのままにしておくことを望む」などと早く正道に立ち返るよう促していた。(もはや手遅れのような気もしないではないが。)私も全く同感である。
 ベト9やブル8のような成功例があることからも、交響曲の4つの楽章を「起転承結」(←注意)の順に配置すること自体が絶対に駄目ということではない。しかしながら、この曲では非常に疑問だ。まず「起」→「転」だが、第1楽章が派手な終わり方をした直後に激しいスケルツォが始まると聴き手は息を吐く暇がない。まあこれは慣れの問題に過ぎないのかもしれないが。(ちなみにスケルツォの後にアダージョが来ることについては特に不都合を感じない。)これに対し、「承」→「結」の方は決して違和感では済まされない。構造的に無理があると思われてならないのだ。この曲のフィナーレは長大なアダージョの後を受けるものとしてはあまりにも短すぎ、そして軽すぎる。要は全曲を締め括るに明らかに力不足という訳である。(やはり段落冒頭に挙げた2曲の終楽章ぐらいの規模は必要であろう。)思うに、この前半偏重型の交響曲はスケルツォとフィナーレ(本来の第3&4楽章)が一致協力してこそ、どうにかこうにか格好が付くような音楽ではないかという気がする。それを分断してしまうのだから収拾不能に陥るのは目に見えている。終楽章のエンディングで大見得を切ってはいるものの、私には空しい悪あがきという印象しか持てなかった。
 ということで、収録されたトラック順では2度目を再生する気力すら湧いてこなかったため、iTunesで取り込んで元に戻してから試聴に臨むことにした。(なお青裏への焼き直しも検討中である。)そうして耳を傾けてみれば、なかなかに滋味溢れた名演と聞こえてしまうから不思議だ。中庸テンポ(トータル68分台)で外連も極力排除しているため、指揮者の誠実な人柄が表れているとも思えてくる。本当は筋金入りの天邪鬼なのに(苦笑)。オケはとにかく上手いし録音への不満も全くなし。楽章単位では何れもトップクラスの出来といえる。だが、どのように評価したものか? 番外扱いも何なので、ひとまずオーソドックスな順序で聴いての印象によって7番目次ページのランキングに入れておく。折角のアイデアを無にされたとしてクレームを付けられるかもしれないが・・・・(←付かへん付かへん)

7番のページ   デイヴィスのページ