交響曲第8番ハ短調
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団
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SCRIBENDUM SC 020

 今月(2005年5月)はロシア系指揮者(ムラヴィンスキー&ロジェストヴェンスキー)のページを作成したので、この際ついでにスヴェトラさんのディスク評も仕上げてしまうことにした。どうせ1枚だけだから。
 ケーゲル目次ページ下には、許光俊が「ケーゲル十字軍」などと紹介されていたことを記したが、スヴェトラーノフについても事情は全く同じであろう。(ちなみに「ローマ三部作」再発時のキャッチコピーは「猟奇的野蛮演奏」だったらしいが、前の3文字はケーゲルと一緒ではないか。)彼が以前から推薦盤に挙げていた「ローマ三部作」などは(再発された今でこそ値崩れしているが)ネットオークションで途方もない高値を呼んでいたし、「アルビノーニのアダージョ」「G線上のアリア」「精霊の踊り」(いずれもケーゲルが壮絶な録音を残した曲)他が収録されたコンピレーションアルバム「哀〜Sorrow」が並の廃盤以上に入手困難となっているのも、許が「生きていくためのクラシック」で採り上げたためではないかと思っている。(なお、このCDには何とブル9の終楽章も入っているというので、私も聴いてみたくて仕方がないのだが、当分は難しそうだ。)ところで、この本の中にてレスピーギとともに今日熱狂的に支持されているブルックナーについて、彼が「(私はあまり買わないが)」と断りを入れているのは一体全体どうしてなのだろうか? 当盤は私が唯一所有するスヴェトラーノフのディスクであり、他のレパートリーは全く知らない。あるいは、それらの方が断然素晴らしいのかもしれないが、私には当盤も十分に名盤の資格を有していると思った。
 残響は豊富だがロジェストヴェンスキー盤ほどタップリではなく、「風呂場録音」でも「露天風呂」といったところか。音の抜けが良くて聞きやすい。パートの分離はもう一つだが、木管が妙に浮き出てきたりしない自然なバランスには好感が持てる。18分台の第1楽章が圧倒的に素晴らしい。とにかく絶対に走り出したりしない。これだけ遅いテンポでももたれたりしないのは、ロジェヴェン盤と同じく濃密録音とオケの力量の両方が原因であろう。第1楽章15分40秒からは止まりそうだが、間延びする心配がないのだからこれでいいのだ。トランペットの鋭い音色(といって文化省響のように滑稽ではない)がいいアクセントになっているため、ちゃんと引き締まっている。
 ところが第2楽章で首を傾げてしまった。一転して中軽量級の演奏である。通販サイトには「第一楽章のみが傑出していて、第二楽章以降が並のユルフン演奏に堕している」として、以降も「テンションがた落ち」「うるさいだけ」などと貶しているネット評を通販サイトで見た。けれども私は「ユルフン」とは聞こえず、第1楽章同様に、というよりそれ以上に引き締まった演奏で決して悪くないと聴いた。演奏時間は標準的あるいは少々速めで、乱れたところは全くなかったから。ただし、第2楽章以降のトラックタイムは14分台、23分台、21分台であるから、第1楽章も14分前後でトータル75分程度に収まって然るべきではないかという気がする。(あるいは全部遅くして、チェリ並みのトータル90〜100分になるか。)つまり全体としてのバランスが少々よろしくないということである。また音色も第1楽章より少し明るくなっている感じで、スケルツォでは時に木管が妙に耳に付いた。(これもロジェヴェンほど露骨な強調ではないが。)さらにアダージョでは10分38秒など所々で走り出してしまうため、腰が軽いという印象を受けてしまう。(これは多分に音色のせいもある。)終楽章も速めのテンポと明るい音色のため、やはり「ロシアのオケに特有の重量級演奏」というイメージからはほど遠いものになっている。まあ、そんな先入観を持って聴く方が悪いのだが・・・・ちゃんと聴けば高レベルの演奏であることは判る。
 ということで、第2楽章以降で違和感を覚えたわけであるが、多数決の原則からいえば「異物」は明らかに第1楽章の方である。この辺の事情(第1楽章だけ録音時期が違う、あるいはチェリの演奏が紛れ込んだ)はよく解らないが、第1楽章と第2〜4楽章を別々に聴けば、前者はトップクラス、後者もかなり高い評価が付けられる。ただし全曲通しで聴くとやはり???である。惜しい。さらに、このディスクには2つ欠点がある。東のオケなのにハースではなくノヴァーク2稿を使用していること。そしてブックレット表紙のイラストである。赤旗を持った男らしいが、人を嘲っているかのような表情には腹が立つ。だいたいブルックナーとどう関係するというのだ?

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交響曲第9番ニ短調
(ただし「メロディ Vol.2」というアルバムに第3楽章のみ収録)
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団
98/04/13〜17
Venezia CDVE 04269

 上で述べたように許光俊が「生きていくためのクラシック」のスヴェトラーノフの項で「哀〜Sorrow」というアルバム(TRITONレーベル)を「もっとも好んでいる(熱愛しているとまで言ってよい)録音」として紹介していた。「すべてが死と浄化の音楽」「スヴェトラーノフ畢生の大傑作」とのことで、私も少なからず興味を抱いたのだが、とうの昔に廃盤となっており、アマゾン・マーケットプレイスに虫の良すぎる買い注文(諸経費込みで1500円)を入れておいたものの当然ながら入荷しなかった。たまにヤフオクに出品されると定価(2650円)を大きく上回って高騰するのが常で、許の影響力も侮れんなと思ったものである。それが今年(2007年)3月に同内容のままヴェネツィアから廉価再発されるというので私は喜び勇んでHMV通販に予約注文し入手した。マルチバイ割引価格で1200円ちょっとだから待った甲斐があったというものだ。
 ただし少し気になることがあった。許は収録全7曲のうち最初の6つにしかコメントを寄せていない。(ちなみに冒頭からアルビノーニのアダージョ、バッハの管弦楽組曲第3番からエア (G線上のアリア)、グルック「精霊の踊り」と続くが、何れもケーゲルの演奏を褒めちぎっていた曲だから、まるで許のために存在するようなアルバムではないかとも言いたくなってくる。彼はチェリビダッケに「惑星」を振らせろとミュンヘン・フィルの事務局にファックスを送ったという話だが、ここでも同様の依頼を出したのだろうか?)ところがラストに置かれたトラックについては完全にスルー。それが他ならぬブルックナーの第9交響曲の第3楽章アダージョだったのである。いったい何でや?(私はそれが収められていなかったら当盤には絶対手を伸ばさなかった。他の小品もそうだが、わざわざ「英雄」の葬送行進曲だけを聴きたいとは思わないから。)
 最近買った「問答無用のクラシック」の第1章に配された「スヴェトラーノフについて」でも当盤について言及されていた。やはり「まったく驚くべき至純の演奏と言ってよい」という賛辞の後、1段落ずつを費やして1〜6曲目に対する具体的な評が続く。ただし先と違うのは、ブル9終楽章についても触れられていたことである。少し引く。

 なぜか、この演奏のみ落ち着きがない。
 やはり作品自体へのなじみが少なかったものと思われる。
 それまでの曲のような、漆黒の深みには達していない。

ちなみに許は「生きていくためのクラシック」にて、最初の6曲における演奏の性格について「パワーの炸裂」や「凶暴なリズム」といったスヴェトラーノフの特徴を全て否定するかのようだと記していた。逆に言えば、ブル9だけは彼らしい演奏を繰り広げていることになる。そう予想して試聴に臨んだ。
 果たしてその通りだった。冒頭の弦楽合奏は決して粘ることなく速めのテンポで進む。その後に加わってくる他の楽器群も同じ。感傷的なところは全くない。かといって淡々としている訳でもない。1分43秒のトランペットの炸裂は実にアッケラカンとしている。極めて健康的だ。以降も明るさを保ったまま約24分の演奏を閉じる。「そういえばこの演奏、何か(他指揮者による他曲の録音)と似ているな」としばし考え、そして思い当たった。ワルター&コロンビア響によるマーラー9番のアダージョである。他に所有しているカラヤン盤のギラギラ、あるいはバーンスタイン盤のドロドロが耐え難くなっている今の私にとって、あの約21分で終わるアッサリ演奏は唯一受け入れることのできるものである。戻って、許はそれゆえ「漆黒の深みには達していない」としてあまり評価できなかったのだろうし、その原因を曲に対する馴染みのなさに求めたのだろうと想像する。(もしかすると上の8番についても同じ理由で「あまり買わない」と述べたのかもしれない。)
 だが私の印象は異なる。聴後に「ショルティに匹敵するほどの無機的スタイルを極め尽くしとるなぁ」と感心したのだ。実際のところ、「生きていくためのクラシック」中の「東西武闘派対決 ─ 音響の快楽」で対比されていた西の雄による演奏と偽っても通用してしまいそうだ。(もしロジェヴェン盤のような「安物ラッパ」が鳴っているならロシアのオケと容易に聞き分けられるだろうが・・・・・)
 「犬」サイトの紹介文によると、当盤は単なる編集もののコンピレーション(過去録音の寄せ集め)ではなく、スヴェトラーノフ自身が選曲し、レコーディング・セッションを組んだ本格的なアルバムという話である。そのような渾身の作にもかかわらず、最後にわざわざ凡庸な演奏を収めるということは考えにくい。都合5日間を掛けたということだから、納得いくまで録り直すだけの時間はあったはず。やはり何かの意図があってのことであろうと考える方が自然だ。(以下も妄想モードを続けるとして)指揮者が世を去る4年前にあたることから察するに、彼は音楽による「遺言状」を残すべく当盤の録音を企画したのであろう。だからこそ、最後を飾るこのブル9では無味乾燥スタイルを選択し、それを貫き通したのだ。遠からぬ内に干からびて無に返るであろう自分に思いを馳せながら。

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