交響曲第7番ホ長調
サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団
96/06
EMI 7243 5 56425 2 3
ラトルといえば私がクラシックを聴き始めた頃から頭角を現し始めた指揮者で、「音楽の友」のコンサート評や新譜評はまさに絶賛の嵐だった。純粋無垢だった当時の私は「ほとんど無名だった英国の地方オーケストラのレベルをメジャー級まで急激にアップさせたというのだから大したもんだなあ」と思っていた。だからといって彼のディスクを好んで買っていた訳ではないが、「嘆きの歌」、「トゥーランガリラ交響曲」、「戦争レクイエム」を初発時に購入している。うちブリテンはケーゲルの15枚ボックス購入後に手放してしまったが、その入れ替わりとしてVPOとの「運命」&Vn協、およびBPOとのマーラーの交響曲第10番(クック完成版)という中古2枚がコレクションに加わった。
ラトルで印象深かったのはNHKで中継された来日公演(バーミンガム市響の発来日だったか?)における出で立ちである。指揮者のみならずメンバー全員が赤の腹巻き(実際には胴巻きだっただろうが)を着用していたのである。それが強烈だったので(たしか「巨人」がメインのプログラムの)演奏自体はどんな風だったか忘れてしまった。既にアーノンクールの7番ページに書いたように、許光俊はテンシュテットと比較して「ラトルみたいに毎回衣装を変えて気をひこうとするコスプレ音楽家」と評したが、既に80年代にはその病徴が現れていたということである。(ついでながら、許はかつて買っていたラトルに裏切られたという気持ちからか、今世紀に入ってからバッシングに熱心なようだが、2005年11月に発売された「英雄の生涯」は「この演奏はあまりの怪しさゆえ、取り上げる価値がある」としてHMV通販サイトの連載「言いたい放題」で紹介している。)それはともかく、これまで私はラトルのディスクを聴いて特に感銘を受けたことはない。今後枚数が増える見込みもほとんどない。
当盤については、鈴木敦史が「こんな『名盤』は、いらない」の「朝比奈とは、へたなブルックナーという意味だ」という項で「ケチがついた名盤」供養のために持ち出した内の1枚であることを既に他所(残る1枚であるスクロヴァ5番のディスク評)で述べた。たしか筆者は「ハッキリ言ってチェリビダッケのものまねである。パスティーシュといってもいい。」と続けていたはずだ。許光俊の「遅いテンポはチェリの模倣」というマゼール盤に対する見解(CDジャーナルに掲載)に該当ページで異を唱えずにはいられなかった私だが、当盤を聴いていると鈴木が許のものまねで済まそうとした気持ちが少しはわかる。のっぺりした感じの前半2つの楽章は確かにチェリと似ている。今度はライトナー盤ページに書いた話を持ち出してみる。
あちらで私は「自然体(何も特別なことはやっていない)と感じさせる演奏」と「本当に何もやっていない演奏」とをディスク試聴だけで区別することはできないということを述べた。本音としては冴えがほとんど感じられない演奏に「無策に流しているだけ」の烙印を押してしまいたいところだが、あのように書いてしまった以上それは不可能である。当分の間(可能性は極めて小さいが生演奏に触れるまで)はグレーゾーンを残しておかざるを得ない。歯痒いけれども。
ところがスケルツォに入ると様相が一変する。とにかく喧しい。ティンパニのせいである。ウェルザー=メストの5番と同じではないか! まさかLPOから奏者を借りてきた訳ではないから、やはりEMI録音の特徴なのであろう。それはともかく、この楽章も続くフィナーレも躍動感に満ち溢れ、まるで生まれ変わったかのように鮮烈な演奏を聞かせてくれる。私は前半には「どうも嘘くさいなあ」という印象しか持てなかったのであるが、ラトルは被っていた猫が鬱陶しくなって投げ捨てたのだろうか? 「どうせなら最初からこれでやっとくれ」と言いたくなってしまった。なお、BPOとの9番(2003年録音)非正規盤が出ているらしいが、この程度の出来では青裏でも構わないから手を出そうという気を私に起こさせるには至らない。
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交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
06/10/19〜21
EMI TOCE-55947
ブックレットを開いたら解説が例の人でなかったのでホッとした。お気に入りの指揮者なら贔屓の引き倒しになるほどのベタ褒め、凡演でも「本質」などを持ち出して救済、そして気に食わなかった場合でも執筆を引き受けたからには「きわめてユニークな演奏といえよう」などととりあえず持ち上げておき、購買者の気分を損ねないように気を配る。ある意味プロの業といえるのかもしれないが、それら3パターンを使い回すだけのライナーに私はすっかり飽き飽きしていたのである。解説者は木幡一誠というあまり記憶にない人物だが、その名(何と読むのだろう?)に恥じず誠実な仕事をしていると思う。
当盤の発売情報には当初2004年2月29日の演奏と記されていたはずだが、そちらは既にKARNAというレーベルから青裏(「惑星」とセットになった2枚組KA 218M)として出ていた。(会社はネパールにあるという話だが本当だろうか?)つまり当盤にはラトルが満を持して臨んだ2年と8ヶ月後のコンサートを収録しているという訳だ。(この分ならば2002年10月に同じくBPOと演奏した9番が再演&正規盤リリースされる日も遠くないかもしれない。)だからそれなりに期待は高まる。
とはいえ気になることもあった。(それゆえの「それなりに」である。)EMIによる「ロマンティック」のステレオ録音といえばカラヤンの70年盤、テンシュテット盤(81年)、ムーティ盤(85年)が思い起こされるが、いずれもトータル70分前後のスローテンポを採用し、「まったり系」といえば聞こえはいいが相当に暑苦しい演奏だった。ラトルの演奏はKARNA盤でも71分を超えていたようだが、当盤はそれよりも少し長くなっている。加えて7番(ただし前半楽章限定)では上記の如く鈴木淳史に「チェリビダッケのものまね」と揶揄されたのみならず、私が聴いても「その気配なきにしもあらず」と思わずにはいられなかったほど茫洋としてつかみどころのない演奏を繰り広げていた指揮者である。だから、ここでも同じ芸風なら途中でダレてしまうのではないかと危惧していたのである。全くの杞憂だった。
第1楽章は重厚な響きながら終始勢いがあり、どことなくヴァント盤(もちろん98年のBMG正規盤)を思わせる。(また中間部コラールの「三位一体感」は同等以上である。)トラックタイムを見たら先述の3人とは異なり20分を切っているから当然といえば当然であるが、「EMIの伝統スタイルを無視しやがって! この裏切り者がぁ!!」と同社の偉いさんは怒り心頭だったかもしれない(まさか)。これでスッカリ安心できたので後は適当に流す。
この楽章の再現部で「ゴロゴロが随分とハッキリ聞こえるなぁ」と思っていたのだが、再生後に解説を読んでみたら木幡もやはり「ティンパニの存在感」について言及していた。また指揮者による版の選択や「ノヴァーク版 1886年稿」という表記に関する説明にも全く抜かりはなかったが、そのうち第3楽章トリオの木管については多くの指揮者の「ハース版に従いつつここだけノヴァーク版を採用」とは逆を行っているとあった。実際オーボエが吹いているのを確認できたが、これまで聴いたクレンペラー盤やマズア盤よりははるかに控え目である。(ハース版ではオーボエのソロではなく、クラリネットとの二重奏であるというのを今更ながら知ったほどである。)が私にはこの方が好ましい。スケルツォ主部が勇壮に終わった直後に「ピーターと狼」のアヒルが登場するような違和感を覚えずに済むから。
終楽章も「随分とスッキリしちまったなぁ」という印象である。が、これも決して悪くはない。シカやイノシシが農地や集落に出没するのを防ぐための緩衝地帯を設けるべく、思い切った伐採を施した後の山林の中にいるような感じだ。そういえばラトルはブックレット掲載のインタビュー(CD-EXTRAのMPEGファイルでも一部が聴ける)にて、アフリカの広大な平原の上空を小型飛行機で飛んだ時に心に浮かんだ唯一の音楽がブルックナーだったとの興味深いコメントを残している。その体験がこの曲のテンポ決定にも影響を及ぼしているようだが、もしかすると植生の大部分が草本植物と低灌木という風景を眺めている内にシュヴァルツヴァルトの針葉樹林帯をサバンナに変えてしまうほどの「超強度間伐作戦」を思い付いたのかもしれない。なお、森林の内部まで日射が差し込むようになって明るくなれば、当然ながら林床植生も発達してくる。そして植物群落の多様性は増す。ここでも指揮者が単調に陥らないよう様々な工夫を凝らしていたのと似ているような気がしてきた。23分を超える長時間演奏にもかかわらず適度に付けられたメリハリのお陰で決してもたれることがなかったのだから、獣害対策同様に成果を十二分に上げていると思った次第である。(←何のこっちゃと思われるかもしれないが、当方は先日フィールドワークにてサイトを視察した際に本ページ執筆のアイデアを得た。)
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