エフゲニー・ムラヴィンスキー

交響曲第7番ホ長調
交響曲第8番ハ短調
交響曲第9番ニ短調
(いずれもレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団)

 私が最初に買ったムラヴィンスキーのCDはチャイコフスキー後期交響曲集(DG)で、2000年のことである。「POCG-1391/2」(92年8月発売)という2枚組で定価5000円だった。これは5番が2枚に分かれているので大変鬱陶しい。ところが、その時点では「POCG-9035X」(x=3〜5)という1200円の廉価盤もまだ現役(入手可能)だったということを後で知り、悔し涙を流した。当時は生協のオンラインショップがなく、CDカタログで検索して店頭で注文していたのだが、限定盤のため載っていなかったのだ。これは大失敗だった。そちらにはフィルアップ用にカラヤン&BPOによる管弦楽曲が併録されており、それも煩わしいには違いないが、ディスク交換と比べたらまだマシである。そのため今でこそ4〜6番を通しで聴こうという場合を除き、この2枚組を再生することは滅多になくなったけれども、購入直後は異演奏の所有枚数がさほど多くなかったこともあって繰り返し聴いた。同年3〜4月のパラグアイ出張時にO君への手紙にその印象をしたためていた。

> 追伸(3月26日追記)
>  出発直前は、ブルックナーだけでなくチャイコフスキーの後期交響曲(第
> 4〜6番)を集中的に聴いていました。エフゲニー・ムラヴィンスキー&レ
> ニングラード・フィルの1960年の録音です。「不滅の名盤」の地位を長い
> 間保ってきている演奏で、前から気になっていたため思い切って買ってしま
> いました。何しろ冷戦時代のことですから、ムラヴィンスキーは滅多に西側
> に出ることはありませんでした。特に熱望されていたにもかかわらず、日本
> への演奏旅行はなかなか実現しませんでした(初来日は1973年)。そのた
> め、日本のクラシックファンにとっては長い間(先のチャイコフスキーのレ
> コードなどによって)「一体どんな凄い指揮者だろう」と想像するのが精一
> 杯という「幻の指揮者」だったのです。
>  「不滅の名盤」は決してこけおどしではなく、本当に素晴らしいものでし
> た。「チャイコフスキーってこんなに美しかったんだ!」と目から鱗が落ち
> ました。並みの解釈では情感をタップリ込めてしっとりと歌わせるところも、
> 彼は快速テンポで情け容赦なく切り捨ててしまう。まさに「氷のような美し
> さ」。(演奏に対して絶対に妥協しないという彼の厳しい姿勢が容貌の怖さ
> とあいまって、気に入らない楽員を次々とシベリア送りにしていたという噂
> が流れたそうです。)「傍若無人」評論家の宇野功芳氏は、ムラヴィンスキー
> の音楽を「青白い病的な天才だけが理解できる芸術」などと評していました。
> 僕は天才ではないにせよ、病的なところがある人間だからでしょうか? 少な
> くとも彼の音楽の凄みだけは理解できました。
>  また、これを聴いた後で既に持っていたカラヤン&ベルリン・フィルの全
> 集やヴァントの5番を取り出して聴いてみると、やはりドイツ的というべき
> 重厚なチャイコフスキーの演奏スタイルには「ちょっと違うんじゃない?」
> と言いたいところもありましたが、カラヤンにはカラヤンなりの、ヴァント
> にはヴァントなりの美学やポリシーに基づいて演奏しているということがよ
> く解りました。これまでは1曲1枚という原則(重複分は中古屋で売る)で
> CDを集めてきましたが、やはり同一曲の異演奏(異なる指揮者、あるいは
> 同一指揮者のことなる年代の演奏)を聴き比べてみるとそれまで見えなかっ
> たものがいろいろと見えてきます。クラシックの醍醐味というのがようやく
> にして解りかけてきました。

改めて書くまでもないかもしれないが、最後の文に記されているような境地に入ることができたのは許光俊著「クラシックを聴け!」のお陰である。ところで上の「青白い病的な天才」だが、宇野は「名演奏のクラシック」のムラヴィンスキーの項で「未完成」の実演を聴いた印象として「まさに病的な天才だけがよく創造しうる音の世界といえよう」と記しているだけで、要は完全な捏造になってしまっている。(きっと南国の暑さで頭がどうかしていたのだろう。)まして「青白い」とはどこにも書いていない。一体なぜこんな表現が出てきたのかは今もって謎である。自分自身がそうだからでは決してない。私は地肌こそ結構白いものの、農作業と自転車遠乗りの間に沈着したメラニン色素が冬になっても完全には抜け切らないし、数十日分の基礎代謝量に相当する脂肪が内臓と皮下に蓄積するほどに(少なくとも身体的には)健康である。
 余談はさておき、この演奏については後にKさんへのメール(2000/05/27)でも言及している。

>  脱線すると、以下はフィリピンの後輩、O君に書いたムラヴィンスキー&
> レニングラード・フィルによるチャイコフスキー後期交響曲集の感想です。
> (彼はクラシックファンではない。こっちの一方的な押しつけ。)

(この後に上の「手紙」の2番目の段落が来る。)

>  ただし、上記の印象はチャイコフスキーが最も病的な状態にあった時期(偽
> 装結婚が破綻し自殺未遂も企てている)に書かれた4番にはピッタリと当て
> はまりますが、構成がしっかりしている5番ではあまりにも神経質すぎるよ
> うに感じられるのがマイナスで、またバランスも損なわれているように思い
> ます。5番はやはりマゼール盤が圧倒的に素晴らしい。なぜ多くの評論家に
> 無視されているのか、腑に落ちません。

このように後期3曲のうちで最も感銘を受けたのが4番であり、それは今でも変わらない。初めて聴いた時はそれこそ背筋ゾクゾクのし通しだった。(「名曲名盤300」のような評論家による人気投票でも2位以下を大きく引き離し、圧倒的な支持を集めていた。これから先も当分はトップの座を守り続けるのではないかと考えている。)第1楽章0分21秒のトランペットによるファンファーレからして、暗闇からいきなり切り裂き魔が襲いかかってくるような鋭い音にビビッってしまった。次の第1主題を弾くヴァイオリンの音も怪しい。いや妖しい。それまで耳に馴染んでいた西側のオケの音色とは全く違う。「何と神経質な音楽だろう」と思わずにはいられなかった。さらに3分20秒から急に艶が出てくるところではとうとう寒気がした。(最近新聞で知ったのだが、「鳥肌が立つ」は寒さや恐怖が原因で生じた場合にのみ使うべきで、音楽を聴いて感動した時の肌の状態を形容するために用いるのは間違いだという話である。とはいえ言葉は生き物、やがて「誤用」呼ばわりはされなくなるだろう。)4分12秒で重心が低く厳しい音に変わる。まさに変幻自在だ。そして音楽がいったん落ち着いた後、5分20秒から8分過ぎの爆発的なクライマックスまでの見事な盛り上げ方には完全に参った。積み上げ型のヴァントとは全く違うが、やはり紛れもない名人芸である。崩壊するようなこの楽章コーダも見事。このディスクの評を記すページではないのでこれ位にするが、とにかく神経質さが曲全体を支配しているという印象はあまりにも強烈であった。聴後に「この指揮者は途方もない実力の持ち主だ」と思ったこともよく憶えている。(ミレッラ・フレーニは時に「ミミを歌うために生まれてきた」などと評されてきたようだが、私にもう一つ羞恥心が欠けていたら・・・・・以下略。秀和センセをパクってどうする?)
 次の5番もなかなかの名演と思ったが、圧倒されるというほどの感銘は受けなかった。(後にライヴ盤が3種が加わり、その中では73年盤が最も気に入っている。)上ではマゼール盤について触れているが、この曲はKさんへのメールでもしばしば話題になっており、ヴァントのディスクをまとめ買いした際にも採り上げていた。日付(1999/12/24)はムラヴィンスキー盤購入の少し前である。

>  なお、今回買ったヴァントのCDの中では、唯一「交響曲の三大B」以外
> のチャイコフスキーの5番(モーツァルト40番とカップリング)が最も気
> に入っています。抑制がきいていてテンポもそれほど変えない。この曲につ
> いては砂糖をまぶしたというか、メロドラマのような甘ったるい演奏は受け
> 付けられないのです。カラヤン&BPOの全集にはまずまず満足しているもの
> の、5番だけは嫌いで他を探していました。あと、この曲を最も得意とする
> と言われ、宇野氏をはじめとするアンチ・カラヤン派(多くが親バーンスタ
> イン派)が好む小林研一郎も、FMシンフォニーコンサートで聴いたところ、
> 2楽章の極端なテンポの変更、そして終楽章のコーダを著しく落とすことに
> 我慢がなりませんでした。
>  ヴァント盤の良いところは、とにかく最初から最後まで自然体を貫いてい
> ること。実は最初に聴いた時、「マゼール(&クリーヴランド管)盤と似て
> るやないか」と思いました。感傷を排し、曲そのものの美しさで勝負してい
> る点で共通しており、所々のテンポ設定(特にコバケンの演奏で気に入らな
> かったところ)が本当に良く似ています。(若干ドライという点でマゼール
> 盤の方が徹底している。ちなみに感傷派の約50分、ヴァントやマゼールの
> 46分前後という演奏時間に対して、ムラヴィンスキーは42分ほどで振っ
> ており、まさに極北を思わせる凍てつくような演奏だとか。)ところが、CDJ
> の「徹底聴きまくりシリーズ」を担当していた平林直哉氏は、ヴァント盤を
> ◎(最高の評価)とする一方で、マゼール盤については「何の変哲もないあっ
> さりした演奏」ということで無印。この評価は全く不可解です。(氏も権威
> 追従型に過ぎないのか?)とにかく、僕はこの曲に関してはマゼールの解釈
> は素晴らしいとずっと前から思っています。新盤が出たら絶対に買い、です。

ということで、5番は3曲中で最も好きであるが、マゼールがトップで、後に入手したバーンスタイン(新盤)、セル、モントゥーが続き、ムラヴィンスキー(73年盤)は5番目ということになる。(「クラシック遍歴」に書いているように、後期3曲はマゼール&クリーヴランド管コンビによるCBS盤で最初に揃えたが、カラヤン&BPOの70年代全集購入を機にいったん手放してしまった。このうち5番だけはいつまでも魅力が忘れられず、廃盤で長らく入手できなかったけれども一昨年ようやくBOOKOFFで見つけた。6番はあまりにドライなスタイルが曲想と合っていないと思っていたし、4番は終楽章のシンバル音が割れるのが苦痛だったため、これらを再度手元に置くつもりはない。そういえば、4番は直後にテラークで再録されていたが、録音の失敗が原因なのだろうか? Kさんによると、テラーク盤の宣伝文句が「超優秀録音。ラストのシンバルもバッチリです。」だったということなのでいつか聴いてみたい。)「悲愴」は元々そんなに好きな曲ではなかったこともあって、許が「クラシック名盤&裏名盤ガイド」で本命盤として絶賛していたこの60年の演奏も、上手さにこそ感心したけれど感動という点ではさらにイマイチだった。後に買った82年盤の印象はさらにサッパリだった。この曲のディスクでとりわけ好きなのは5番同様に破滅型のバーンスタイン&VPO盤で、2位以下を大きく引き離している。(チェリビダッケ盤は5番もそうだが凄い演奏であることは何となく解る。が、未だに良さが解らない。)脱線まみれながらムラヴィンスキーとの出会いについてはこれで終わる。
 その後ブルックナー地獄に落ちたために唯一のステレオ録音である9番を購入したが、本格的にムラヴィンスキーのCDを集めるようになったのはさらに少し経ってから(2002年)である。ヴァントによって聴き比べの面白さを知り、次に手を出したのはフルトヴェングラーであるが、ベートーヴェンを中心としたディスク蒐集が一区切り付いた後、「東側最大の巨匠」ということでごくごく自然に関心が向かった。そこで、宇野功芳が「クラシックの名曲・名盤」で褒めていた演奏を聴いてみようと思い立ったのである。モーツァルトの「第三九番」、「未完成」、ベートーヴェンの「第四」「エロイカ」「第五」、そして宇野が「わすれるわけにはいかない」と述べていた「ルスランとリュドミラ」序曲他の小品集。けれども、コレクションの道のりは決して平坦なものではなかった。メロディア音源による「エフゲニー・ムラヴィンスキー全集」(BMGジャパン)はほとんどが廃盤扱いだったので、ネットオークション、アマゾンマーケットプレイス、楽天フリマ経由など八方手を尽くして入手を試みた。現在もチャイ5の72年盤など未入手の品がいくつか残っているが、ヤフオク等では常に高価格で取り引きされているようなのでこれ以上無理はしない。SCRIBENDUM等から後に出たセット物ではダブりが複数出るので、いつかバラ売りされるのを心待ちにしつつ眺めているだけである。一方、ゴステレラジオの音源を使用した「≪黄金期のロシア・マエストロシリーズ≫〜ムラヴィンスキーの神髄〜」(ビクターエンターテイメント)は注文した品がすべて入荷したばかりか、本当に欲しい品ではなかったものもついでに何点か買ってしまった。(このシリーズ10枚+特典盤というボックスが発売された直後こそ頭を抱えたが、冷静に考えたら全てが欲しい訳でもなく、セットの価格も決して安くはなかったから損はしなかった。やはり15%引きは大きい。)
 ところで、この指揮者については上記「クラシックの名曲・名盤」(モーツァルト交響曲第39番の項)や「名演奏のクラシック」、あるいはVICC-2032(モツ39+ベト4)のブックレット等に記された宇野の批評が実に見事である。(ここでは珍しくも「問題にならない」のような「あばたもえくぼ」的な誉め方をしていないため、贔屓の引き倒しにはなっていないのだ。)それらにつけ加えることはほとんどないようにも思う。(「クラシックCD名盤&裏名盤ガイド」中の喜多見慧による解説はその後追いに過ぎないし、許光俊の「生きていくためのクラシック」は、特定レーベル製品の宣伝としか思えないような記述が不快だった。また、吉田秀和の「世界の指揮者」にしても宇野と比べたらはるかに距離を置いており、指揮者の凄さが十分には伝わってこない。)あるいは、彼の使った「透徹感」で言い尽くされているしまっているのではないかという気すらしてきた。が、ここでスタコラ退散というのも何なので、及ばずながらも少しだけ書いてみる。
 現在所有しているのはモーツァルト(39番)、ベートーヴェン(3〜7番)、シューベルト「未完成」、ブラームス(2〜4番)、ブルックナー(7〜9番)、チャイコフスキー(4〜6番)、ショスタコーヴィチ(5番)と交響曲がメインのディスクがほとんどであり、よく考えてみたらタコ6の後に「ルスラン」序曲や「牧神の午後への前奏曲」など管弦楽曲を収録した1枚だけが例外だった。これらのうちモーツァルトとシューベルトについては、もしかするとベストかもしれないとも思うが、普段そんなに聴かない曲なので断言はしない。既に述べたようにチャイコは4番のみベスト、タコ5はベストが他にある(ロジェストヴェンスキーの目次ページ参照)。一方、三大Bはといえば、どれも「異色の演奏」ということになるだろうか。(詳しくはブルの各ディスク評ページで述べる。)テンポ揺さぶりをあまり使わないという点ではオーソドックスであり、完成度も非常に高いのだが、先述したスルドイ金管や妖しい弦によって生み出される響き、および音の強弱の付け方がとにかく独特であり、これらの作曲家の音楽ではどうも腰が軽いというか地に足が付いていないという印象を受けてしまう。そして、聴いている側も何となく落ち着かない。なので普段は聴く機会があまり多いとはいえず、もし各曲から「無人島に持っていく3枚」を選ぶとなればたぶん入ってくることはない。(やはりヴァント&NDRなどドイツ系の指揮者とオケによる「重厚な」演奏を採る。)が、10枚持って行って良いということになれば必ずやリストに加わると思う。時々無性に聴いてみたいと思わせる魔力を持っているからである。

おまけ
 当サイトにたびたびゲスト出演してもらっている某氏は、ムラヴィンスキー(なぜか「ムラビンスキー」と書いている)について興味深い文章を自身のサイトに載せている。確かクラシック専門掲示板に投稿し、いざこざの原因にもなったはずだ。氏によると、この指揮者は「ルスランとルドミュラ」序曲のような「『浅み』のある曲」に向いている指揮者なのだそうだ。この言い回しに首を傾げる人は言語感覚が氏よりも私に近い。(喜ぶべきかどうかまでは知らない。)
 ちなみに、yahoo.co.jp で検索したところ、「浅い」が771040件、「浅さ」が31684件 であるのに対し「浅み」は296件に過ぎない。これに対して、「深い」「深さ」「深み」はそれぞれ4593631件、920609件 、502352件である。「深」系のヒット件数はほぼ同じオーダー(10倍以内)だが、「浅さ」「浅み」はそれぞれ「浅い」よりも3桁、5桁も小さい。特に 「浅み」の使用頻度が極めて少ないことが目を引く。というより、私はそんな言葉自体が本来存在せず、日本語のネイティブスピーカーとしてはあまりにも恥ずかしい誤りであると指摘したいのである。大野晋や齋藤孝なら一刀両断だろうが、私は専門家でないので少々搦め手から攻めることにする。「深い」「浅い」に相当する英単語はそれぞれ "deep" と "shallow" 、「深さ」「浅さ」には "deepness" と "shallowness" で、言うまでもなく対立概念がペアになっている。ところが「深み」の訳語 "depth" にはこのような反対語がない。(否定の語尾を付けた "depthless" という単語はあるが、これは文字通り「深みのないこと」以外にも「底の知れない」という意味もあり、日本語とはかなりニュアンスが違うようである。「深さ測定不能」ぐらいであろうか?)これは何を意味するだろうか? 考えてみれば簡単なことだが、 "depth" は "length" や "width" と同様、空間のある一方向の量的な(=程度・度合いを示す)指標のことである。つまり座標軸(通常はゼロから無限大まで)そのものであるから1つあれば十分なのだ。これに対し、"deep" と "shallow" は "long" と "short"、 "wide" と "narrow" と同じく軸の両方向を指す単語だから必ず2つ(1ペア)要る訳である。また、軸上の位置(大小)を指す "deepness" と "shallowness" についても同様である。ここで軸そのものを指す単語に戻ると、別に "depth" の代わりに "shalth" (註:もちろんこんな単語はない)でも構わないのであるが、便宜上大きい方の形容詞を名詞に転用しているのである。これは日本語でも全く同じ。だから、「浅み」というのも奇を衒った(慣例に逆らった)というだけのことで、他人の目を引くという以上に何の意味も価値もない。素直に「深みのない曲」「浅い曲」としておけば良いものを・・・・「浅みのある曲」以前に「浅み」の時点で却下である。繰り返すようだが、こんなのオリジナルでも何でもない。具体的根拠も示さずして皆から称賛されている指揮者を貶めるようなアホ投稿を繰り返す目立ちたがりが如何にもやりそうな振る舞いであるが。とはいえ、こういう奇特な言語感覚の持ち主でなければ、あそこまで滑稽な投稿を大量生産することはできないに違いない。
 執筆中にゴルゴ13の比較的初期の作品に出ていたあるストーリーを思い出した。主人公の態度が気に入らなかった依頼主は残金を払いたくなかったのだが、側近が奴の欠点を利用すれば始末できると持ち掛けた。背後にわざと人を立たせれば奴の習性として反射的に攻撃するから、その間にできた隙を突けばよいというのである。果たして彼はそれを実行に移す。そして、途中まではプロット通りに進んだ。圧倒的有利(自分だけが相手に銃口を向けた状態)に立った側近は、自分のアイデアをゴルゴに向かってとうとうと自慢するのである。ところが、巧みな反撃によって状況は逆転し一気に窮地に立たされてしまう。もちろん射殺されるのだが、その直前のゴルゴの台詞がこれ。

 思いつきだけで行動するのは……愚か者のすることだ…………
 それを得意気に話すのは、もっと愚か者のすることだ…………

 「『浅み』のある曲」だか何だか知らないが、ムラヴィンスキーの「ルスランとリュドミラ」序曲しか良いと思えなかったというのも、要は思いつきによる浅薄な投稿しかできない人間には「深みのある曲」を理解するだけの能力(洞察力でも「耳」でもよいが)が足りないから、で片付けてしまっても構わないと思うのだ。
 某氏が「『浅み』のある曲にはうってつけという感じがします。」とだけ書いていたならば私はこれを書かなかった。いかにも自慢口調な括弧内の註釈「(『深みのある曲』の逆の意味で,私の創作熟語です)」がいたく気に障ったためである。しつこいようだが、「低みのあるビルディング」「狭みのある住宅」など誰も使わないのは、そういう造語を思いつかないからではなく、馬鹿呼ばわりされたくないからである。
 ところで、氏は自身のサイトに「まあ,考えてみると,自分の好きなものをけなされると心持ちが良くないのは確かですので,仕方がないことなのでしょうね。」と書いている。(どうやら自分の投稿が皆から顰蹙を買った本当の理由が結局はまるで解っていないらしい。もはや開いた口が塞がらない。)ならば、私がこれまで公開した指揮者&ディスク評ページ(特に先月分)の中に自分の評価と正反対のものを万一見つけたとしても、よもや腹を立てたりすることはあるまい。
(これから執筆するディスク評3枚分を合わせても、当ページの分量には到底及ばないような気がしてきた。ヤレヤレ。)

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