交響曲第8番ハ短調
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
59/06/30
BMG (MELODIYA) BVCX-4012

 吉田秀和が「世界の指揮者」(新潮文庫)にて当盤収録の演奏に約1ページを割いているのを少々意外に感じた。この本は最初にラジオ技術社から昭和48年(1973年)4月に刊行された(その9年後に発売された新潮文庫を私は所有)ということであるから、ムラヴィンスキーのブルックナーとしてはおそらく執筆時に著者が聴くことのできた唯一の演奏(9番録音は80年だし、67年演奏という7番も正規盤としては世に出回っていなかっただろうから)なので、当然といえば当然ではあるが、それにしても・・・・という気がする。ムラヴィンスキーを非常に高く評価している宇野功芳や許光俊も、ブルックナーについてはほとんどコメントしていないからである。ネット上でも当盤のディスク評を目にしたことは記憶にない。
 その吉田の評であるが、いろいろと聴き比べた中で当盤と比較的近いのはフルトヴェングラーとあり、これも意外に思った。が、「ことにスケルツォのテンポなど実に近い」は確かに当たっており、トラックタイムもフルトヴェンの49年3月15日盤(Archipel)と同じ13分台である。さらに第1楽章の15分台というのも共通していた。第1楽章を速めに振った場合は次もというケースが比較的多い(逆もまた然り)ように思うのだが、両楽章間に約2分というタイム差が出ているというのも、これら2人の指揮者が規格には到底収まり切らない存在であることを物語っているといえるかもしれない。ところで、吉田は近いといいながらも、「現代的」な音楽家であるムラヴィンスキーの方がロマンティックな趣は乏しく、細かなテンポやダイナミックな変化はずっと少ないという違いも指摘している。ところがところが、「それでいて基本的テンポがこうであるために、そこにもやはりブルックナーの音楽の途方もない交響的拡がりは感じられなくはないのである」は一度読んだだけでは解らなかった。「基本的テンポがこうである」は「速めの基本テンポを設定している」に他ならないのだが、(回りくどい言い方はしているものの)それだからこそ交響的拡がりが感じられるというのである。(後には「音楽的な幅広さを充分にとったテンポの設定」という言い回しも出てくる。)何にせよ、テンポとスケール感との関係についての吉田の考え方が窺い知れて、とても、おもしろかった。(落ち着いて考えてみれば、遅いテンポによってスケール感を表出しようとする一部の指揮者を批判しながらも、知らず知らずのうちにそういう考え方に毒されてしまっていた私がいけなかったのだ。厳密にはテンポとスケール感は全くの別物であると思う。最近入手した5番の新しい録音2種を聴き比べ、その思いを強くしたばかりである。)おっとっと、このページは秀和センセの評を批評する場所ではもちろんないので、そろそろ先に進まなければならない。
 7番や9番とは異なり、当盤では時に病的と感じるほど神経質な表現は聴かれなかった。もともと劇的な曲だけに、指揮者はその必要なしと考えたのかもしれない。アダージョは23分ちょっとで、ノーカットのハース版としては結構速い。その点では7番の2楽章と同じであるが中身は大違いで、当盤では立ち止まらずズンズン先に進んでしまう。これなら終楽章のトラックタイムは20分そこそこになることが一般的のように思うが、何と40秒ほどしか違わない。(こういうケースはそんなに多くないんじゃないかと思っていたが、同国出身のスヴェトラーノフがそうだった。また、爆演として一部に有名なバルビローリ盤も同様である。このディスクについては書くことが結構ありそうだ。)この曲の第1楽章と第2楽章、第3楽章と第4楽章、そして7番の前半2つの楽章。残した録音が多くないため断言するのは危険だが、ブルックナーに関する限り、ムラヴィンスキーは楽章間のテンポの関係について極めて独特な考え方をもっていたのではないかという気がする。私には隣り合った2つの楽章のテンポに一貫性がなく、矛盾しているんじゃないかと思えてしまうのだが。
 ここで吉田に戻ってしまうのだが、彼は第1楽章第1主題について、余韻を短くとったスタッカートによってバラバラにときほぐされて提出される主題のリズムとテンポの設定とが矛盾するかのように見える、と述べた後でこう続けている。

 しかし、そこに、ムラヴィンスキーがいるのである。
 ムラヴィンスキーとは、私見によれば、そういう指揮者なのである。

よく解らないが、たぶんそういう指揮者なのであろう。そして私も「そういう指揮者だからこうなんだろうな」と考えつつ、このページを結ぶしか手がないのかもしれない。(・・・・などと逃げを打ったが、この指揮者のディスク評執筆には本当に苦労した。特に8番と9番はまったく具体性に乏しいものになってしまった。それは自覚&反省しているが、最初から私の手に負えるようなものではなかったのだ。)

8番のページ   ムラヴィンスキーのページ