交響曲第9番ニ短調
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
80/01/30
BMG (MELODIYA) BVCX-4004

 1980年演奏にもかかわらず、ケース裏に「録音年代が古いため」とあるのには笑ってしまった。西側ではデジタル録音が始まっていたというのに・・・・鮮明さに欠ける録音ではあるが、音が欠落しているというような「お聴き苦しい箇所」はなかったので、まあステレオで聴けるだけでも良しとしよう。
 9番目次ページに載っているが、かつて「ブルックナー・ザ・ベスト」というサイトへの投稿にカラヤン&VPOライブ盤が当盤と似ていると書いた。「ムラヴィンスキーとカラヤンを同列に扱うとは!」などと腹を立てる人間はいるかもしれないが、その印象はやっぱり変わらない。(というより、カラヤンがいつものスタジオ録音とは全く違う、「異常」ともいえるほど激しい演奏をしているのだから、それも十分にあり得ることである。)
 演奏スタイルは基本的には7番ページに記したものと変わりはない。つまり、時に神経質と感じるほど繊細な演奏である。だから実際の演奏時間以上に長く感じる。しかしながら、そのようなやり方は7番なら「異色の演奏」として肯定的に評価できても、この曲では「何だかなあ」と言いたくなってしまう。テンポいじりが気になってしまうのだ。第1楽章21分23秒からインテンポで進んできたコーダが21分53秒で突如減速する。ものすごく気になる。最初の段落に書いたことと矛盾してしまうが、あるいはステレオ録音が災いしているのかもしれない。
 私が9番目次ページ下に書いたような妄想話はもちろんとしても、ムラヴィンスキーはこの曲にいかなるストーリーも見い出さなかったのであろう。彼にとっては誰のどのような作品も音符の配列でしかなかったはずだから。ここでまたしてもだが、宇野功芳の「名演奏のクラシック」から引かせてもらう。

  現代の指揮者の客観主義は、楽譜をそのまま音に
 することである。個性的な人間味を加えず、色づけ
 せず、ストレートに、クールに音化する。
  ムラヴィンスキーはちがうのだ。彼はきわめて主
 観的にスコアを読む。スコアに書かれた音を一度バ
 ラバラにほぐし、自分の個性的な眼で再編成する。

まさにその通りだと思う。だが、それゆえに私にとっては彼の9番が近づきがたいものになってしまったような気がするのだ。既に他の指揮者による9番ディスク評ページを読まれた方はお解りだと思うが、私がこの曲の演奏に求めているのは普遍的(universal)な表現である。何せ宇宙(universe)の誕生から終わりまでを描いたものだから。だから、なるべく「無機的」な演奏の方が望ましい。7番とか(ムラヴィンスキーは録音を残さなかったが)4番のように、人間や自然が時に感じられるような曲ならば、こういう個性的スタイルでも良かったのだろうが・・・・結局は相性、あるいは好き嫌いの話に終始してしまったな。

9番のページ   ムラヴィンスキーのページ