交響曲第7番ホ長調
フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャンゼリゼ管弦楽団
04/04/19〜20
Harmonia Mundi HMC 901857

 許光俊&鈴木淳史共著の「クラシックCD名盤バトル」を読むまで、私は「ヘレヴェッヘ」という指揮者の存在すら知らなかった。(名前に何となく聞き覚えがあるような気もしていたが、それはギュンター・ヘルビッヒだった。)その本で許はコープマンやガーディナーらとともにヘレヴェッヘを酷評していたが、その理由は「指揮が肉体表現になっていない」というものだった。(彼によると優れた指揮者では必ず肉体表現になっているらしい。)ところで、許は同じ本のドヴォルザーク8番の項で、生で見たズデネク・マカール(マーツァル)の下品な指揮ぶり(終楽章で曲に合わせていやらしく尻を振った)に嫌悪感を抱いたと書いていたが、それも一種の「肉体表現」ではないのだろうか? 彼が高く評価している指揮者の身体の動きは「肉体表現」でも、マカールの場合は違うというならダブル・スタンダードのような気もする。(なお、「ズデニェク・マーツァル」によるドヴォルザークの交響曲が近年リリースされ、「レコ芸」誌などでは結構高い評価を受けているようである。この人の指揮する映像を観てみたいものだ。→追記:2004年11月27日にNHK-BS「クラシック・ロイヤルシート」にて、「最後のシンフォニー」をテーマに開催されていたNHK音楽祭2004でのマカール&チェコ・フィルによるベートーヴェンの「第九」コンサートが放映されたが、残念ながら指揮者の「肉体表現」は確認できなかった。)さらに書くと、許がヴァントと並んで最も高く評価している指揮者は言うまでもなくチェリビダッケだが、彼が若い頃にティル・オイレンシュピーゲルを振った時の「肉体表現」(マカールと同じかは知らないが、私がNHK-BSで観た映像ではかなり派手に尻を振っていた)には抵抗はなかったのだろうか? 「マカールの尻振りは不可だが、チェリの場合は上品なので特別に可」なら、例外の例外のそのまた例外、つまりトリプル・スタンダードということになってしまう。(が、そもそも彼はその映像は観ていないのかもしれない。ちなみに、チェリは若い頃の派手な指揮ぶりを後に否定している。)何にせよ「肉体表現」の定義が全くなされていないのでお話しにならない。
 などど、しょーもない話から始めてしまったが、「そこまで悪し様に言われている指揮者の演奏ならば是非聴かねば!」と思ったのが当盤を購入した最大の動機である。(マーラーに弟子入りする気になったワルターの心境と同じだ。)古楽器オケによるブルックナーをまだ聴いたことがなかったということも動機。(ノリントン&ロンドン・クラシカル・プレイヤーズによる3番初稿盤は手を尽くしたが入手できていない。→追記:2005年9月にワーグナーの管弦楽曲集とカップリングされた廉価盤2枚組を購入した。)リノス・アンサンブルによる編曲版が見事はまってしまったように、7番は室内楽的な演奏との相性も良いという投稿が某巨大掲示板にあった。さらには、ヨッフムやエッシェンバッハが指揮したフランス国立管やパリ管の演奏を聴き、フランスのオーケストラによるブルックナーは決して侮れないと思っていたこともある。件の掲示板には発売直後から多くの絶賛投稿が寄せられていたので私も非常に楽しみにしていた。ただしhmv.co.jpに注文を入れる(他のディスクと同時注文する)タイミングを図っていたので、実際に入手したのは発売(2004年8月)後かなり経ってからであった。(私は送料無料となる2500円以上にする、1ポイントでも無駄にせぬよう1000円以下の端数がなるべく少なくなるようにする、この2つを常に念頭に置いている。今年のいつ頃からか、ポイント制度が新しくなり、500円ごとにポイントが付くとともに、50ポイントから割引が利用できるなど使い勝手も良くなった。というよりライバルのtowerrecords.co.jpを意識しての改革であろう。)
 上はディスクを入手するまでに執筆した分である。(11月19日にようやく届いた。フルトヴェングラー&VPOによるベートーヴェン交響曲第7&8番、ただし1954年ザルツブルク音楽祭のライヴ盤がセール特価=1390円だったので同時注文したのだが、それが入荷するまで長いこと待たされたのである。)随分長い、そしてどーでもいい前置きになってしまった。
 さて、当盤の発売直後から某掲示板のブルックナーおよびヘレヴェッヘのスレッドでは活発な議論が行われていた。私はたいへん興味深く読ませてもらったのであるが、そのお陰で実際に聴く前に満腹してしまった。とにかく好き嫌いのハッキリ分かれる演奏で、賛否両論も見事なまでに二極化した。ブルックナー・スレでは「過剰精米」という喩えがあったが、それは言い得て妙だと私も思った。飯米には不向きだが(玄米の糊粉層、つまり糠層とデンプン層との境界部分のうち、特に下底部分は旨味物質を含むとともに、炊くと特有の光沢を発する保水膜を形成するため、搗精歩合を90%以下にして糊粉層を完全に削ぎ取ってしまうと、炊いても光らなくなるだけでなく旨味も失われている)、山田錦のような大粒で心白の発生頻度の高い品種を用い、搗精歩留りを60%以下、あるいは30〜40%にまで設定し、つまり削りに削った米を原料とする吟醸酒や大吟醸酒の製造には必要不可欠な技術である。(ちなみに、ヘレヴェッヘのスレでは日本酒について一家言持つらしき人間が下品な投稿によって他人を罵倒するという事態が発生した。その後しばらくは見苦しいやり取りが続いたが、罵倒を始めた張本人が醸造法と搾り方とを混同しているという指摘があってようやく落ち着いた。私も米はそれなりに詳しいがワインほど日本酒を飲まないため、醸造のことはあまり知らない。ので、醸造過程や味についてはコメントしないほうが身のためだという気がする。)

(ここまで書いて中断してしまっていたが、2005年6月に作成したマーツァルの4番評をアップするためには、そちらで言及している当ページも仕上げる必要があると気が付いたので執筆を再開する。ついでに当ページにて触れたリノス・アンサンブル盤のディスク評作成にも取りかかることにした。)

 私の手には余るような気もするが、ヘレヴェッヘのスレでの泥沼議論を手短にまとめてみると、「響きの透明感」とか「丁寧な音楽作り」といった点は誰しも認めていたようである。ところが、「徹底的に無駄を削ぎ落とした結果どうなったか」という点で対立が生じていたように思われた。賛の側からは「(こけおどしや、見せかけの偉大さや、思わせぶりや、いわゆる「精神性」などといったものはないが、)ブルックナーの等身大の音楽が確かにある」、非の側からは「ブルックナーらしさまでが削ぎ落とされてしまっている」というコメントが出された。その対立に輪をかけたのが、「脱ブルックナー化もここまでやってくれるんなら文句ない」という書き込みである。早速「なんでブルックナーを演奏するのに脱ブルックナーせにゃならんのだ」というレスが付いた。そこから先は平行線。「脱ブルックナー化」を良しとするか悪しきとするかが好き嫌いの領域であるという以前の問題である。参加者が「ブルックナーに何を求めているか」は当然ながら十人十色(バラバラ)であるからだ。何であれ共通理解がなされないままに是非を論じようとすれば、不毛な論議に陥るのは火を見るより明らかである。
 よって、私も当ページでは(というより他でもそうすべきだが)「ブルックナーらしさ」にはなるべく触れないつもりである。(なお、構造を壊してしまったような演奏に対してヴァントは「もはやブルックナーではない」と述べているが、「ブルックナーか否か」というのは実は非常にデリケートな問題である。ましてや素人の私が首を突っ込むのは無謀である。)ただし、私は「脱ブルックナー化したブルックナーもええんちゃうの」とは考えている。マーラー風でもショスタコ風でも、ある程度の水準さえ保っておれば、たまに聴いて愉しむことができるから。「邪道」と眉をひそめたい人間はそうすればいい。(そういえば、指揮者が「シューベルトに通じるブルックナーを目指した」ことに触れて、「それならシューベルトを演ればいいと思うが」と書き込んでいた者がいたけれども、「果実酒のように芳醇な味わいの日本酒ありませんか?」という客に「なら最初から・・・・」と言うのと同様、どうしようもない的外れコメントである。おっと、つい日本酒の喩えを持ち出してしまった。)一方、「ブルックナーアレルギーの人には一押し」にも異を唱えたい。別のディスク評ページに書くつもりでいたが、私は「○○が苦手の人にお勧め」といったコメントはいかがなものかと常々思ってきた。クラシックには数え切れないほどの名曲が存在するというのに、果たしてオーソドックスとは到底いえないような演奏をわざわざ聴いてまでブルックナーに親しもうとする必要があるのだろうか? 私には大いに疑問だ。(下手をすれば全くの時間とエネルギーの浪費にもなりかねない。ニンジンやピーマンの嫌いな子供に、それと判らぬように調理を工夫して食べさせることで苦手を克服させるのとは訳が違うと思う。ビタミンと違ってブルックナーなしでも生きていけるのだから。)また、「異色演奏ゆえ気に入った」という人にしても、何らかの条件付きながらブルックナーを受容できるだけの素養が最初から備わっていたのではないか、とも言いたくなる。どうも自分から不毛状態に落ち込みつつあるような気がしてきたのでこの辺にする。
 私の印象はかなり良い。例のスレッドでは技術的な面からも激論が続けられていたが、結局「弱音が美しくない」「いや十分美しい」のような水掛け論に終わってしまった。(そもそも「美しさにこだわらない演奏」として肯定的に評価することもできるのだから、結論が出るはずがない。言うまでもないことだが、「つまらない」はもちろん「軽薄」も好き嫌いの範疇からは一歩も出ていない。この演奏に「重厚」を求めてどうする?)私の鈍な耳には演奏のアラも特に聞かれなかったため、プロとしての水準は優にクリアしていると感じた。古楽器ゆえのしなやかな音色は魅力的だし、ピッチは多少低いのかもしれないが、「あいまい調」のホ長調のためか大して気にならなかった。トータル1時間を切る快速演奏だが、小編成オケに相応しいテンポを採用したと考えてよいだろう。小編成といえば、この演奏はリノスの室内楽版以上に透明度、純度が高いように思った。ハルモニウムとピアノ(あれはあれでとても面白いけれど)が加わっていないのが最大の理由だと思う。(もちろんオルガン編曲を除いてだが、)私がこれまで聴いた中では最もオルガン的な響きに近い気がする。ちょっと惜しいのがアダージョのティンパニ。指揮者はよく考えた上で採用したのだろうが、ほとんどインテンポで穏やかなまま進行するのだから、ハース版的なクライマックスの方が相応しかったのではないか? ま、「ジャーーーン」でなかっただけ良しとするか。もう1つクレームを付けたいのが紙ケースである。ブックレットは切り込みに挿してあるだけなので、持ち運びの際に落ちてしまうじゃないか!

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交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャンゼリゼ管弦楽団
05/10
Harmonia Mundi HMC 901921

 ヘレヴェッヘの「過剰精米」スタイルは7番でこそ功を奏してもスケールの大きい4番では裏目に出てしまっているのではないか? そのような危惧を少々抱きながら試聴に臨んだが、第1楽章冒頭の数分を聴いて跡形もなく消え去った。出力は十分で知らずに聞かされたら現代楽器のオーケストラと区別はできないだろう。8分過ぎの盛り上がりは実に凄まじい。ヘレヴェッヘはここを楽章のピークとして位置づけており、後のコラール部分はアッサリ流してしまうが、これも作戦の一つのようだ。提示部と再現部の爆発が中間部より若干抑えられており、文字通り「山」型の演奏となっている。18分ちょっとというトラックタイムながら速いとは感じず充実度は極めて高い。同種の演奏としてはトップクラスである。さらに感心したのがブルックナー・リズム。崩しという程ではないが、微妙に揺らしているのが何ともいえない優雅さを醸し出している。「ロマンティック」よりも「エレガント」という表題の方が似合いそうな気がしてきた。おフランス特有の「エスプリ」も伝わってくる。(←意味もよく知らないで使ってたりする。)
 第2楽章は絶品。冒頭のチェロによる旋律は流麗そのもの。以降の弦楽器全てに当てはまるが、ノン・ビブラート旋法の持ち味が遺憾なく発揮されている。終盤のハ長調の盛り上がりはやや物足りないが、これは小編成ゆえ仕方ないか。ほぼ10分の第3楽章もこぢんまりしているが、必要なところでは荒々しさも出している。小編成なりに健闘しているといったところか。この楽章については、古楽器独特の騒々しい音をまき散らしていた「ハッタリ野郎」ことアーノンクールの方が成功していると思う。ということで脱線したくなった。既に引いたAERA1月16日号の記事での「醜い音」がどうのこうのという発言を思い出したのである。(で図書館に足を運び、改めてページを開いてみた。が、表紙のみならず7ページ掲載の指揮姿も醜い限りである。)以下は西暦1500年頃の楽器について語ったもの。

 当時の楽器は音が出るほんのわずか前に摩擦音などの雑音が出る。
 つまり美しい音は同時に醜い音も含有しており、それが聴衆に感
 を呼び起こしている。

それはそうかもしれないし、ブルックナーでもスケルツォでは上手くいっているのは確かだが、それを緩徐楽章にまで持ち込むのはどういうつもりか。情緒が台無しである。(「情緒の国」の人ではないからとはいえあんまりである。)これでは所構わず放屁するようなデリカシー皆無のオッサンと一緒。屁は個室(トイレ)なら派手にぶっ放しても許されるが、食事の席でするものではない。少しはTPOをわきまえろよと言いたくなってくる。

 真実の世界には雑音もあり、雑音が音に多彩な色を与えてくれます。
 それが真の美しさだと思います。音楽は真実を伝えるべきですし、
 真実を伝えるのは芸術家の使命だと思います。音楽は心を癒すだけ
 のものでもないし、お風呂のように疲れをとるものでもないのです。

ホンマに理屈の多いやっちゃ。(今思い出したが「1年の内でもっとも靴が減らないのは何月か」というクイズがある。答えは「2月」で理由は「日数が最も少ないから」、さらに「こういうのをヘリクツという」のオチまで付く。)狙って醜い音を立てているのだから、こんなのは真実でも何でもないし、そんな輩を芸術家とは認めたくない。やっぱり「単なる目立ちたがり」がいいところである。
 などと暴言を並べ立てたらスッキリしたので、当盤の終楽章については特に書くことがない。志の低い「ハッタリ野郎」のものとは似ても似つかぬ立派な演奏である。許はこの名演を聴いてもヘレヴェッヘを認めないつもりだろうか?(そうだろうな。)
 なお当盤も7番と同じく紙ケース収納だが、ブックレットの表紙を水平方向に挿し込むような形状になったお陰で落下しにくくなっている。先にぶちまけた不満を製作者が読んだ訳でもないだろうが、改善されているのは嬉しい。

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