イルカ(Iruka)
既にどこかで述べているかもしれないが、私はテレビよりもラジオを好む人間である。(今でもテレビは基本的にニュースとスポーツ中継、あとはお笑いぐらいしか観ない。)中学から高校、そして大学に至るまで中波局が夜に放送する番組を主とした聴取時間はテレビを大きく上回っていた。(クラシック音楽の素晴らしさに目覚めてからは「N響アワー」など音楽番組を観るようになったが、同時にNHK-FMも聴き始めたため、この傾向自体は変わらなかった。)いわゆる「深夜放送」として最初に聴いたのは中学の同級生が話題にしていた近畿放送(現KBS京都)の「日本列島ズバリリクエスト」(22:00〜01:00)である。後に番組名(→「ハイヤング11(イレブン)」→「ハイヤングKYOTO」)と放送時間(3時間→2時間→3時間)の変更、およびDJの入れ替わりはあったものの、一貫して週に2回以上は聴いていた。近場の彦根に送信所(KBS滋賀)があるため受信状態は極めて良好だったのはありがたかった。それに比べると、毎日放送(大阪)の「MBSヤングタウン」(通称「ヤンタン」は相当入りが悪かったが、それでも我慢して聴いた。メチャメチャ面白かったからである。一方、ニッポン放送が全国のネット局に配信していた「オールナイト・ニッポン」は聴かなかった。当時の私は午前1時まで起きていることが極めて困難だった。(先天的に朝型ゆえ?)絶対不可能ということはなかったが、翌日に支障をきたさずに(午後の授業で居眠りせずに)済ませることは無理だった。(なので日付が変わったら120分テープを入れてあるラジカセの録音ボタンを押し、翌日帰宅後に最後の1時間を聴くことも多かった。当時はもちろんMDなどなかったし、カセットもオートリバース機能を有していなかったため、60分が最長録音可能時間だったのである。)それ以上に試しに聴いてみても面白さが感じられなかったからである。何よりもパーソナリティの気取ったような話し方が気に入らなかった。「パックイン・ミュージック」(TBS)や「セイ・ヤング」(文化放送)にしても同様だったから、「東京の深夜放送は大したことがない」という烙印を押してしまった。(今になってみると単に私の気質に合わなかっただけとも思うが・・・・)
聴取がピークに達したのは高校2年の時で、1週間のトータルタイムを出してみたら何と24時間を超えてしまっていた。最長だったのは木曜日。19時から「カネヤン(註:金田正一)のハッピーバラエティー ─ 何とかかんとか(忘れた)大放送」(ニッポン放送→KBS)、20時から「イルカの青春ミュージックサラダ」(同)、次の1時間で夕食と入浴を済ませてから先述の「ヤングタウン」を聴いた。(パーソナリティはこの番組で長年コンビを組んできた笑福亭鶴光と角淳一、そして私が聴き始めた少し前から加わっていた石川優子だった。デビューして間もなかった石川だが、持ち前の明るさを発揮してベテラン2人による「象の足」「シンガー・ソング・アゴー」といった無数の口撃にも負けず、五分に渡り合っていたのは立派だった。なかなかヒットに恵まれなかった彼女が遂に「シンデレラ・サマー」で「ザ・ベストテン」に初出演(同じ日なので中継)した時の裏話は非常に感動的である。今思うにヤンタン木曜の黄金時代だったのではないか。石川の降板後は途端に魅力が減退したので聴くのを止めた。)最初はそこで終わりだったのだが、やがてもう2時間増えることになってしまった。1時を過ぎても眠れなかったある日のこと、ダイヤルを回していたらヤンタンのDJでもあった笑福亭鶴瓶の声が聞こえてきた。やがて東海ラジオ制作の「ミッドナイト東海」と判明したが、なかなかに愉しめたので毎週聴くようになった。これで7時間/日である。(もはや居眠りも気に懸けなくなっていた。)いつしか宮地悠紀夫の日(月曜深夜)をほぼ毎週、兵藤ゆきの日(金曜深夜)も時々聴くようになったことから考えるに、その後名古屋で計15年暮らすことになったのは宿命だったのだろうか?(ついでながら、当時最も人気の高かったと思しき「オールナイト・ニッポン」を回避し、周囲の多くは存在すら知らないような「ミッドナイト東海」を好んで聴いていたのだから、私のメジャー忌避&マイナー指向という性分は既に完成していたといえる。)ただし、実際に住んでみたら京都および滋賀のリスナーから絶大なる支持を集め、私の人格形成にも影響を及ぼしたと考えられるつボイノリオが地元(一宮市出身)では冷遇されていると知って愕然とした。要は放送コードによる縛りが関西よりもはるかに厳格だったため、彼の持ち味を生かした番組など作りようがなかった訳だが、「あれだけの人材が活躍できずに埋もれてしまうような土地はやっぱりダメだ」と呆れたこともよく憶えている。(つボイは今でこそ中部日本放送の「朝の顔」として活躍しているが、健全な番組のパーソナリティとして収まっている彼は私にとってもはや別人である。)
さて、またしても例によってミュージシャンとは無関係のダラダラ枕を置いてしまったが、実は上記「ヤンタン」の火曜日を担当していたのがイルカだったのである。(上で述べた木曜の「ミュージックサラダ」はその後に聴くようになった。)他の日はいずれも3人以上、そして少なくとも1人は関西出身の歌手やタレントが加わっていたから、(時に「審査員」と称して何人かの男性が入ってくることがあったけれど)彼女が基本的に1人で3時間の番組を任されていた火曜日は異色の存在だった。喋りのプロではないという理由で同級生達にはイマイチ受けが良くなかった(ので桂文珍のハイヤンに流れていた)ようだが、私は大好きだった。この人の何ともホノボノした話し方を聴いていると、投稿自体は大して面白くなくとも愉快な気分にさせてもらえたからである。ハガキを読んでいる内に可笑しさがこみ上げてきて笑い転げてしまうことも度々だったが、それも私にとっては快かった。
ここから歌手としてのイルカに話を持っていく。私が彼女の番組を聴き始めた少し前にリリースされていたシングルが「十九の春に」で、それに続く「夜明けのグッドバイ」と「Follow Me」は「新曲」として聴いた。(当時から日本の「歌謡曲」にはとんと疎かった私だが、そんな訳でイルカと石川優子の歌は例外的に今でも口をついて出てきたりするのである。)「ヤンタン」降板後もしばらくはFM愛知(FM東京制作)の30分番組を聴いていたが、全然面白くなかったのでいつしか疎遠となってしまった。そこで流されていた「枯葉のシーズン」がリアルタイムで親しんだ最後の曲となった。ただしNHK-FMの「ひるの歌謡曲」を録音したテープは時々聴いていた。が、クラシックにのめり込むようになって以降は、それすらなくなってしまった。(テープ自体もどこかに行ってしまった。)
ところが一昨年(2005年)たまたまレンタル屋で見かけた彼女の「1974-1979ベスト・セレクション」を借り、久しぶりに聴いてみたら何ともいえぬ懐かしさが込み上げてきた。それで先に挙げた曲などを収めた「1979-1983ベスト・セレクション」もヤフオクでゲット。さらに上記のテープに入っていた他の1曲も加えたくなり、それを収めたベスト盤をアマゾンで探してみたが、どうやら重要曲とは見なされていないらしく該当するのは89年発売の「イルカ ベスト」1枚だけと判った。しかも生産中止。ところがところが、ダメモトでマーケットプレイスに予約注文を入れておいたところ、驚いたことに本当に入荷してしまった。(私は希望購入価格に相当の安値しか設定しないため、この方法で入手に成功した品は後にも先にもこれだけである。)また代表曲「なごり雪」については、私がエアチェックテープにて馴染んでいたアルバム・バージョンも欲しくなったため、彼女のセカンド・アルバム「夢の人」を同所より購入。これも格安だった。
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