イルカ ベスト
1989
CROWN(PANAM) ZL-5005

 ブックレットの表紙(裏表)やケース裏の写真を見てちょっと驚いた。もはや「ボーイッシュ」というイメージは跡形もなく消え失せ、完全なる女性の顔である。80年代も後半に入ってようやくX染色体が2本とも発現するようになったのか?(←失礼なこと言うなよ。)
 それはともかく、トラック1「悲しみの証明」(1989年)の出だしを聴いてさらに驚いた。角川映画みたいなタイトルからは全く予想できないような音楽だったから。これは完全なる「歌謡曲」ではないか。居酒屋のBGMにピッタリという気もする。さすがに荒木とよひさ&三木たかしというゴールデンコンビが作詞・作曲を手がけただけに完成度は高い。ド演歌だけでなく歌謡ポップスもレパートリーに加えているような歌手(あんまり詳しくないけど石川さゆりや八代亜紀あたり?)が好みそうな曲調だが、それをイルカは見事に歌いこなしている。「いまは聴きたくない」のようにフォークソングとは全く異なるフレージングが要求されるような箇所でも、「いまはー、ききたくぅーないぃー」のように巧みな節回しによって表情付けを行っている。歌手が容姿のみならず芸風も徐々に変えてきたことを端的に示しているといえるだろう。
 次の「もう海には帰れない」(1985年)にはさらに感銘を受けた。林哲司(作曲および編曲)によるメロディがまず素晴らしい。特に「愛した日は」が充てられた「レレー(1オクターヴ上がって)レードシドー」の辺りはゾクゾクする。その前の「忘れられるほど」の「ど」から突如8度落下し、また8度上げているので、まるでジェットコースターのようだが、このような大胆な跳躍がプラスにのみ作用している感じだ。ところで、旋律の美しさが際立っている80年代中期の名曲として私が真っ先に思い浮べるのは小林明子が歌った「恋におちて〜Fall in love〜」(歌手自身が作曲したとは知らなかった)である。TBS系のテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」で繰り返し流れたこともあって大ヒットした。(ついでにもう1曲挙げておくと、前年に出た「雨音はショパンの調べ」も結構お気に入りだった。Gazeboのオリジナル "I like Chopin" よりも低く移調していた分だけ印象も落ちていたけれど。)ところが曲の出来は甲乙付けがたく、歌唱については明らかに小林を上回っているにもかかわらず、イルカの方はそれほど売れなかった。奇しくも同じ年にリリースされたというだけでなく、「愛の風、吹く」(同じくTBS系)の主題歌に採用されたというのに。やはりドラマの人気差がモロに反映したと考えるしかないだろう。
 戻って、歌詞が秀逸であることも付け加えなければならない。秋元康が書いた。かつて呼称に猫の鳴き声の擬音を採り入れた女性エンターテイメント集団のために多数の詞を供給し、その人気沸騰に大きく貢献した人物として知られる。(当時その集団が出演していた番組を観る気も起こらなかった私だが、大学近くで下宿住まいをしていた同級生約1名を訪ねると、必ずといっていいほど生放送あるいは録画ビデオを観ていたので嫌でも御相伴をさせられた。超近眼の彼がテレビの真ん前に陣取り、食い入るように画面を見つめていた姿は正直不気味だった。)出す曲がことごとくヒットしていたので無関心だった私も少しぐらいは憶えている。とはいいながら、今聴いても屑みたいな音楽と思うだけだろう。詞も曲も。ところが、この「もう海には帰れない」に寄せた秋元の詞は全く違う。(←どっちが先か本当は知らんけど。)ブックレットを読んでいるだけでもジワジワ来るが、やはり歌で聴く方が良い。極めつけが2番のサビの前。「人の心、歩きにくい」と続く。「何だ何だ? 訳が解らん」と思う。ところが次に「波打ち際みたい」と来て「そうか!」と膝を打つ。倒置法を利用することで説得力を加味しているのである。巧い!(これが「歩きにくい波打ち際のような人の心」とか「人の心、波打ち際の如く歩き難し」だったら味も素っ気もない。)とにかく恋人と別れた辛さを抑え気味の表現で綴っているのが良い。移行句を経た後のリフレインから転調して少し明るくなる。思い出の場所を再訪して吹っ切れた主人公がこれからは前向きに生きようと意を決したかのようだ。実に感動的なエンディングである。今気が付いたこと。ラストはヘ長調のようである。ということは、それ以前がくすんだ曲調と聞こえるのはホ長調のためではないか。もしかすると調の決定はショパンの練習曲集第3番(12の練習曲作品10の3)からの影響だろうか?
 なお、これら2曲では歌唱に全く不安がなかったことも特記すべき事項である。当盤にて初めて聴いた他の収録曲(80年代後半の録音)も同様だったから、イルカは彷徨の果てにようやく終の棲家を見い出したということになるのかもしれない。何にしても円熟の境地と呼ぶに相応しい。ただし以降の収録曲については、実は大して印象に残らないものばかりだったりする。
 4曲目「LOST LOVE」は聞き覚えがあったが、他の誰かが歌っていたような気がして仕方がない。ところが思い出せないし捜しても判らない。やっぱり記憶違いか。「まあるいいのち」はCMソングだったので(放送された「みんな同じ生きているから・・・・・」の部分だけながら)よく聴いた。極めて平易な曲だが、彼女の歌唱力とはまあ釣り合いが取れているといえるだろう。(褒めてないなぁ。でも夏川りみがこれを歌ったら超駄曲と聴いて立腹してしまう危険性は決して低くないと思う。)住友生命は最近この曲をまた使うようになっている。ただし、誰かは知らんが別人(あのヘタさから絶対歌手ではないと断言しておく)が口ずさんでいるのは残念。せっかくだからイルカに新バージョンを頼めば良かったのに。
 9曲目「迎えに行く朝」は気に入った。最初のフレーズだけ。後はイマイチ。正やんの作詞・作曲としては凡庸ではないか。トラック11「枯葉のシーズン」はイルカがDJを務めていたFMの番組の終了少し前に流れていた曲。2曲目同様に別れてからの心境を歌ったものだが、最後まで気分が晴れることはない。それ以上にあまりにも淡々としているため残るものが何もないのは不満だ。あの番組の聴取を止めたのは、面白みのないトークだけでなく曲の不出来のせいもあったのではなかったかと今になって思う。
 13曲目の「きみのマーチ」についてコメントして終わる。実はこの曲を聴くことが当盤入手の最大目的だったのだ。NHK-FM「ひるの歌謡曲」でエアチェックしたテープのラストに入っていた。最初はつまらない曲としか思っていなかったのだが徐々に好きになり、やがてそれだけを繰り返し聴くようにもなった。再生しすぎでテープが痛み、所々で音が歪むようになってしまったほどである。それほどにも思い入れがある曲ゆえ、何とかして聴いてみようと思い立った次第である。(けれどもオリジナルアルバムの「ノエルの不思議な冒険」を除けば同曲を収録しているCDは非常に少なく、少々手間取ったのは既に記した通り。)が、久しぶりに耳にしてみれば別にどうということのない音楽だったので拍子抜け。感性の経年劣化かもしれないが。ただし元気さは大いに買える。昨年(2006年)実験室のPCで作業をしながらこの曲を流していたところ、ある院生から「誰が歌っているんですか?」と訊かれたのでイルカだと答えた。もちろん彼も知っていたが、昔も今も声がほとんど変わっていないことに驚いた様子だった。確かにこの曲の発表当時は32歳だったが、それから二十数年を経ても現役を続け、それでいて衰えが全く見られないのは気付くの遅すぎだが本当に凄いことだ。もうお孫さんもいるというのに。そういえば、子供の頃に海に行って長時間大声で喚き続けたために声が潰れてしまい、翌日から変な声になって二度と元に戻らなくなってしまった。歌手自身がそう話していたのをどこかで聞いた記憶がある。たしか「徹子の部屋」だったような・・・・そうなると、知らずの内に苛酷なボイス・トレーニングを自ら課していたことになる(アナ・ガブリエルのページ参照)。ならば、ちょっとやそっとのことではビクともしないのも当然といえる。こうなったら曾孫誕生まで頑張ってもらいたいとエールを送りつつ筆を置く。
 おっとっと。採点忘れてた。もちろん既所有盤との重複は考慮せずに評価するとして、(例によって大雑把な計算ながら)17曲の平均を求めてみたら82.64705882....となった。よって83点。

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