「許光俊の評価」というページで最近(2004年3月)このような文章を見つけた。

 彼の評論を読んからどっぷりクラシックの魅力にはまった。
 彼は「美」というものを知っている。
 非常に洗練された評論家だと思う。

 最初の文については私もこの筆者と同じであり、最後の文についても異議を唱えるつもりはない。ただ、私なら2番目の文章を「彼は『美』について語るのが上手い」とするだろう。「美は人を沈黙させるとはよく言われることだが・・・・・・」などの名文をいくつも残した小林秀雄を彷彿させる。(これが人目に触れたら私も某掲示板でいろいろ嘲笑されるかもしれない。どうでもいいが・・・・・この際だから書いておくと、「いまどき批評に小林秀雄やドストエフスキーを持ち出してくること自体痛い」のような投稿をした人間は、果たして彼らの著作をどの程度読んでいるのであろうか? ろくに読みもしないでああいうことを書き込んでいるとしたら、そっちのほうが何倍も痛いぞ。これもどうでもいいことだが、私は「創作ノート」および理由があって読むのを先送りしている1作品以外を除いてドストエフスキーは全て、小林についても文庫化されたものは古本を買い漁ったのであらかた読んでいる。)
 ちなみに、かつては他ならぬ私の文章も件のページに載っており、許に対して「非常に良い」という評価を付けた人物の一人として私も名を連ねていたのである。

 いつ頃からか、許光俊という音楽ジャーナリストの書く文章が気になっています。
 (私と同い年で、本業は国立大学の講師、専門はドイツ文学だそうです。)
 かなり毒舌ですが、言っていることは正論で、非常に格調が高い文章を書きます。

その辺の経緯については某所に投稿している(2003年5月)。

 私は「音楽評論家・許光俊の評価」のページに書き込んだわけではありませ
 ん。私の自己紹介ページ2000年度版を読んだ管理者が勝手に掲載して「非
 常に良い」という評価を付けたという次第です。(著作権がある訳じゃなし、
 無断転載にも腹は立ちませんでしたが・・・・)翌年の紹介文からは許氏へ
 の賛辞が消えた(実際、私の氏に対する評価も下がった)ため、「『どちら
 でもない』に変えてくれ」とこちらから申し入れをしました。

(追記:その後、件のページをしばらく訪れないうちに私の評価は削除されてしまったようである。やはり中立では面白くないのだろう。ここが公開されたら復活するかもしれない。どうぞご自由に。→2005年4月14日追記:件の掲示板管理者より私信を頂いた。私の評価が削除された本当の理由は「無断転載に対する抗議」および「累積投稿数の増加」ということである。)

「私の氏に対する評価も下がった」理由についても述べている。

 「クラシックを聴け!」の後に許光俊編として同じ青弓社から出された何冊
 かの本はかなり完成度が低く、「どうしたのかな?」と少し心配でした。
 (さらに一部の共著者によるお粗末としか言いようのない文章には腹が立ち
 また。そんな本でよろしければ、次の機会にでも持参しますが・・・・・・)
 しかし、最近の著書からは以前のような面白さが感じられるようになりまし
 た。気に入った文章を2つ挙げておきます。

 美を追いかけるということはエゴイストになるということである。自分に
 とってその美がどれほど重要であるかは、とうてい他の人間が理解できるこ
 とではない。それゆえ、美を追いかけることは孤独であることだ。当然、
 充分、反道徳的、反社会的になりうる。芸術や美が人間の生活を豊かにする
 という考えは恐ろしく楽天的で鈍感な人間の考えである。(「クラシック
 CD名盤バトル」)

 これらの音楽を聴いていると、人の心を動かすような音楽を、演奏家は血で
 贖っているのだと痛感させられる。そして、そのような音楽を聴きたがるの
 は、背徳でしかあるまいと思うのである。(「世界最高のクラシック」)

こういった文章を書かせたら彼は天下一品である。以下は数日後の私の補足。

 「芸術や美」と「娯楽」とが数直線のプラスとマイナスの如く二律背反的な
 関係にあると考えている許氏ならば、あのようなことを述べるのは至極当然
 でしょう。非常に厳しいというか真摯な姿勢だと思いますが、その反面、
 安易な単純化に陥る危険もあるような気がします。私としては両者が二次元
 平面のX軸とY軸のようなものであると考えたいのですが、氏に言わせると
 「楽天的で鈍感」なのかもしれません。

 このように、許に対する私の評価はV字パターン(稲作じゃあるまいし)で推移した。ところが近頃は首を傾げたくなるような文章(通販サイトへの寄稿)も目立つようになり、評価は迷走を始めたところである。

 ここからはKさんへのメールを交えつつ振り返っていきたいと思う。

 「許光俊」の名が初登場したのは1999年1月。ニューイヤー・コンサートのことを話題にしていた時に、「私はウインナ・ワルツが大ッキライだ」と書いていた許のことを思い出したのである。
 私は思いかけず出生地に最も近い(現在は2番目)大学に定職を得ることができた。(一時期は南の暑い国への定住も視野に入れていたのだが・・・・運命のイタズラというやつである。)地元に戻ってからは「ラテン音楽」のCDを集めるのに熱中し、「クラシックは一通り揃えたからもういいや」という気分だった。そういう状況が少しずつ変わっていく。
 学業修了後の2年間は、あるプロジェクトの予算枠で「特別研究員」として雇われていた。臨時ポストだったが待遇は悪くなかった。地元就職後もそのプロジェクトには「研究協力者」という形で加わることになり、名古屋にも年に数回出張していた。ある日、大学生協書籍部でたまたま手に取った本が私の運命を変えることになる。それが、洋泉社の「クラシックの聴き方が変わる本」だった。(あんな本を置くスペースがあるほど、店舗には十分なスペースがあったのである。現職場の「生協ショップ」は本も文具も食料品も一緒に売っており、比べものにならないほど狭い。CDの現物はなく注文でしか買えない。)
 この本は執筆者が20人近くいるのだが、印象に残ったのはみんな許の書いたものだった。当然ながら彼の名前は記憶に強く焼き付けられることになる。当時の状況が綴られたダラダラ長文メールをここに掲載するのは止め、許について抱いた感想のみを再掲するにとどめる。なお、既にこの頃から「ブルヲタ」の芽は出かかっていたようである。

> 断っておきますと、最近色々なところで目にする許氏の文章は、一見このよ
> うに過激極まりないものですが、書いていることはまともです。

> 僕は以前書いたようにブルックナーの音楽の良さは素朴だと思っているので、
> 額面通りにこれらの言葉を受け取ろうとは思いませんが、氏の主張を意識し
> て聴けば新たな発見があるかもしれません。そういう訳で、僕にとって許氏
> は目の離せない評論家の1人です。 (いずれも99/01/04)

 「変わる本」の末尾で紹介されていた「クラシック名盤&裏名盤ガイド」を生協ショップで注文する。この本についてKさんに語ったメールでも許のことは繰り返し出てくる。例えば、マーラーの第3番では私もベストと考えていたレーグナー&東ベルリン放送響盤を上位に挙げていたこと、「惑星」の正しき演奏について述べた文、カラヤン論、ブーレーズ論に感心したこと等々。ただしブーレーズ論にはこんな注文を付けていた。

>  最後の部分の書き方は(悪い意味で)本領発揮です。また、それ以降の展
> 開も良いのですが、最後の方でまたもや「いくらお客やレコード会社がバカ
> でわからないからといっても、(ここから太字)たまには本気出してよー。」
> などと書いています。これもやりすぎだし、愛情がちっとも感じられない。
> 言っていることはまともなのだから、もう少し品のある文章で書けば支持も
> 増えるのに、と人ごとながら惜しいなぁと思ってしまいました。(99/03/05)

 けれども、私が自己紹介ページに書き、後に「許光俊の評価」にも転載されることにもなった許の文章の「格調の高さ」は際立っており、後述する「クラシックを聴け!」で、いわゆる「洋泉社系ライター」の特徴として著者が挙げた「欲求不満を一挙に解消するかのごとくわめき散らしている」「単に無教養で乱暴なだけの文章」とは一味も二味も違っていた。
 同じ日のメールにはこんなことも書いている。ここはそっくり載せる。

>  ちなみに、許氏は「クラシックの聴き方が変わる本」の「『素朴』は罪悪
> である」というエッセイで、「素朴な人は変な宗教に入ったり(中略)、物
> を考えないで行動するので、後で周りが迷惑する。」「素朴の反対は邪悪だ。
> ひねくれた見方で、醜い面、嫌な面もどんどん発見してしまう。建設力とい
> う点で素朴に劣るが、邪悪な批判がないと素朴がその場の気分で暴走してし
> まう。」などと書いていました。彼の言う「素朴」や「邪悪」は世間一般に
> 使われる意味と異なり、「方法としての邪悪」「現象としての素朴」という
> ことで、「単に意地悪、ひねくれているだけでは正しい邪悪ではなく、その
> 力を利用して良いことをしましょうというのが邪悪なのだ」そうです。した
> がって、「邪悪」な作曲家の音楽は「邪悪」に演奏するのが正しいとも許氏
> は主張しています。また、マイナーな演奏を愛好する者ならば、是非ともこ
> の「邪悪」を身につけてもらいたいとも述べていました。(そして、氏の批
> 評精神を貫いているキーワードが、この「邪悪」であると僕は思います。)
> こういった文章からは、良いものを認めていながらも素直に褒めたくない、
> 悪くいえばヒネクレだけども良くいえば照れ屋という性格を感じ取れなくも
> ない。僕は(時には常軌を逸して過激になることもあるが)氏の態度をこの
> ように好意的に解釈しています。

さて、それから1カ月もしないうちに、あの本のことが出てくる。

>  出張先の大学生協で「Mostly Classic」という無料の雑誌をもらって読んだ
> のですが、その中の書籍紹介で、許光俊氏の書いた「クラシックを聴け! ─
> お気楽極楽入門書」という本が取り上げられていました。少し抜粋すると
> 「・・・・クラシックという音楽は本来、雄大な自然を目にしたときに得ら
> れる感動、すなわち『抽象的な美』の世界のものであり、テレビドラマで涙
> してしまうような『感情移入』の産物ではないのだ。(改段落)だから、音
> だけを収録して儀式の雰囲気まで伝えることのできないCDは所詮ニセ物で、
> 音楽は演奏会場へ足を運んで聴くのが正しいと説く。にもかかわらず、CD
> がニセ物のスター指揮者を乱造し、(中略)現状では、クラシック音楽もじ
> きに滅びるというのである。」最後のところは無茶苦茶ですが、結構そそら
> れます。値段がちょっと高い(1600円)し、本が堪っているので、とりあえ
> ず購入するかしないかはペンディングにします。(99/03/29)

で、結局買ってしまう。この年の12月24日に読後の感想を送っている。その本に触れた文だけで3000字を超えている。が、大量の転載も気が引けるのでそれは自粛する。
 「クラシックを聴け!」では許の2つの主張に特に感心した。まずは「芸術の中には二種類の美(「感情移入型の美しさ」と「抽象的な美しさ」)が存在する」ということ。「氏のこの主張には本当に目から鱗が落ちる思いでした」とまで書いた私は、それを切っ掛けに某所に長文投稿をしているが、ここには載せない。(捜したら見つかる。)もう一つは「クラシックには<正しい>演奏がある」ということであるが、こちらも詳細は雑文コーナーの「構造」の項に譲りたいと思う。
 これらを総合すれば「抽象的な美が分かっている演奏家の音楽こそが<正しい演奏>である」という結論に至る。下の「この箇所」も大規模な引用を行っているため割愛し、それがようやく収まった所から再開する。

>  この箇所はこの本でも白眉だと思います。ここまで読んで、僕は氏の文章
> に完全に捕えられてしまいました。そこで、氏が「現代に生き残ったごくわ
> ずかの<正しい>演奏家のなかでもとびきりの演奏家である」と述べており、
> 僕としてはこれまでほとんど聴いてこなかった(モーツァルトの「ハフナー・
> セレナード」1枚しか持ってなかった)ギュンター・ヴァントの演奏を聴い
> てみようと思ったのです。
>  たまたまBMGジャパンが「RCAレッド・シール・ベスト100」シリーズ
> を発売したばかりだったので、ブラームスの交響曲全曲(2枚)を手始めに
> 取り寄せてみたところ、楽器のバランスがとれていて極めて見通しの良い(ど
> のパートもよく聞こえる)演奏で、「(北ドイツ人の)ブラームスは重厚」
> というイメージが完全に粉砕されました。演奏時間は概して短めなのですが、
> 速いとは感じない。ということはそれだけ密度が高いということなのでしょ
> う。(買ってすぐ中古屋に持っていったアバド盤などは本当にただ速いだ
> け。)確信に満ちた演奏という感じで、とにかく説得力があります。さすが
> に速すぎて味わいに少し欠けるという印象を持った4番(ワルター盤がベス
> トの地位を堅持)を除いて、これまで聴いた中でダントツの1位にランクで
> きるほど満足しました。
>  これで火が付いて、その後ヴァント&北ドイツ放送響のベートーヴェンと
> ブルックナー(一部BPO)のディスクを手当たり次第買って、今月はそれら
> をひたすら聴いています。これらの曲を初めて聴いたときのような新鮮な気
> 持ちに還ることができ、本当にありがたいという以外に言葉はありません。

 「クラシックを聴け!」についてはこれでひとまず終わる。ヴァントのブルックナーを聴いての印象はそれぞれのディスクのページに載せている。それらを読まれれば、私が次第にブルックナー地獄に落ち込んでいった様子がよくわかると思う。ダメ押しとして3カ月後に書いたメール文からも抜き書きしておく。

>  ブルックナーは主要作品が交響曲に限定されていてCDが集めやすいため
> でしょうが、やはり彼の交響曲には一部の人を熱中させる何かを持っている
> のだと思います。というか、ブルックナーとヴァントの偏執性がシンクロし
> ていると許氏が述べていたのと同様、ブルックネリアンには元々彼の交響曲
> の偏執性と共鳴するものを持っているという方がより正確かもしれません。
> 僕はまだ初心者ですが、既に「ブルックナー・キ○○イ」の入口はくぐって
> いると思います。(00/03/13)

 続いて「こんな名盤はいらない!」に移る。Kさんへのメールに登場するのは2000年5月。許の序文は非常に良かった。以下の文章は秀逸なのでどうしても載せておきたい。

>  芸術は安らぎを与えるためにあるのだろうか?必ずしもそんなことはない、
> と私は思う。むしろ逆だ。芸術とは、逆に人の安らぎをぶち壊すものである。
> 人を刺激し、覚醒させ、新たな視点やヴィジョンを示し、日常のルールを破
> 壊するもの。ときには見たくないものを見させ、人を絶望させるもの。言っ
> てみれば、とてつもない暴力。でも、破壊するだけでなくて、ときには新た
> なものを夢見させることもある暴力。

>  認識はつらい。しんどい。うっとり陶酔している方がよほど楽だ。当然、
> ほとんどの人々は陶酔するために音楽を聴く。しかし、それだけではいけな
> いんじゃないか、とはっきりと、あるいはなんとなく思っている人々のため
> の本である。

(「『認識しようという業』に憑かれた者」というフレーズは非常に気に入ったので、職場の自己紹介ページでも2年連続で使わせてもらった。)

 繰り返すが序文は良かった。だが・・・・・・本文に落胆させられたことについては何も文章を残してはいなかった。この辺りからKさんとの蜜月時代も終わりを告げ、私信のやり取りの頻度も次第に低下していった。ここまでは何とか手抜きでやってきたが、どうやら新たに文章を起こさなければならなくなったようだ(ここまで2004/06/07執筆)。

 「こんな名盤は、いらない!」の第1章(青嵐篇)として鈴木淳史が執筆した「こんな解釈のどこがいい?」については、彼のページでコメントしているのでそちらを参照されたし。続く第2章(春雷篇)「こんな演奏家のどこがいい?」(吉澤ヴィルヘルム執筆)は、ワルターとフルトヴェングラーに関する最初の2節を読んだだけで先に進む気を失くしてしまった。私が当サイトのあちこちで非難しているようなゴシップ記事専門ライターの手法、つまり推測とありもしない仮定だけで組み立てたようなお粗末な文章が頻出する。前者の例としてフルトヴェングラーが録音に憤慨したという件、後者の例は「ワルターがステレオ録音を残さなかったら」などが挙げられる。まるで自分がディスクを聴いた印象によって歴史的事実をねじ曲げようとしているかのようだ。前章を読んでの「高い買い物だった」「酷いものをつかまされた」という思いがますます強くなった。

2004年12月4日追記
 ついでに書いておくと、ワルター&コロンビア響によるブラームスの交響曲ステレオ録音に関する吉澤のコメントのうち、「『第二番』と『第三番』では音楽の崩壊を招いてしまった」には同意するけれども、「評価の高い『第四番』は、この作品があたかもブラームスの死の寸前に書かれた最晩年の音楽であったかのような、単純で幼稚な誤解を導くものだ」については、私は異を唱えざるを得ない。まず録音時において、ワルターがあと何年指揮活動を続けられるか、それどころか、あと何年生きられるかもわからない老境にあったことを、著者は意図的にか無意識にか、とにかく無視している。亡くなる3年前の録音だから、演奏が(より若い指揮者と比べて)枯れているのは当然である。それに対して言いがかりを付けて何になるというのだろう?(楽譜を元に音楽を新たに生み出すという意味では指揮も立派な創造行為である以上、若い時期の作品を渋く、あるいは晩年の作品を若々しく演っても即ダメということにはならないし、却って興味深い演奏が成し遂げられることもあり得ると私は考えているが、もし吉澤が、例えば血気溢れるようなブル9の演奏も「勘違い」として門前払いするという筋の通った批評方針を採っているのなら、この点に関しては何も言わない。)次に、作曲当時の肉体的あるいは精神的状況が作品の性格に反映するであろうという十分に予想される事態についても、この著者はまるで考慮していないように思える。第4交響曲や二重協奏曲などはかなり渋い音楽であるが、その後作曲された弦楽五重奏曲第2番はとても若々しい。(解説書によると、この作品に全力を傾けたため、完成後、一時自分の創作力が尽きてしまったと考えたほどだったらしい。ブラームス以外でも、例えばシベリウスの第7交響曲や交響詩「タピオラ」などは、とても老境に入ったとはいえない時期の作品にもかかわらず、まるで全てを悟りきったような澄んだ境地を感じさせる。)私には加齢(単なる物理的時間の経過)とともに作風が枯れてくるという線形思考こそが、あまりにも「幼稚な誤解」ではないかと思われてならない。「邪悪」を自認する編者がこんな「素朴」なライターを起用したことが不可解なほどである。だいたい「幼稚な誤解」もなにも、作品完成と作曲者の死去との間に12年の隔たりがあることは曲目解説を読みさえすれば誰だって判ることである。ワルターの演奏を聴いた人間は直ちに「これは最晩年の音楽に違いない」と誤解するほどにも幼稚だと著者は本気で考えているのだろうか? だとしたら、ここでも著者の短絡的思考には呆れる以外にないし、読者は随分と軽く見られたものである。そうでないなら、ここでも単なる言いがかり(批判のための批判)であるとしか考えられない。

 ただし、転んでもただでは起きないのが私の偉いところである。(←おい)「近年、放送局の倉庫に保管されていたオリジナルテープがリマスタリングされ、1952年以降のベートーヴェンの交響曲のライヴ録音が初期ステレオに匹敵する高水準の音質で聴けるようになった」を読んで「ほほう」と思った私は、そこで紹介されているディスクを手始めとして次第にフルトヴェングラーの素晴らしさに目覚めていく。(それまでは「音質劣悪」というイメージが妨げとなり、興味を持ちながらも二の足を踏んでいたのである。実際に聴いてみたところ、どのディスクも耐え難いほど酷い音ではなく、それこそ清水の舞台から「エイヤッ」と飛び降りるような覚悟で購入に踏み切った私は拍子抜けしたほどである。)ただし、本当に凄いと思ったのは1944年のVPOとの「英雄」、いわゆる「ウラニアのエロイカ」(FURT-1031)を聴いた時である。クラシック総合サイトの管理者Y氏が書いている「TAHRA盤で最上の音質で聴ける」は嘘ではなかった。また、EMIのスタジオ録音による「英雄」ブライトクランク盤(TOCE-3003)の雄大な演奏にも感動した。フルトヴェングラーとの出会いを演出してくれたという意味では吉澤に感謝しない訳にはいかないが、「スタジオ録音の存在価値を一気に失わせるほど」には全く同意できず、彼の書いていたことの多くは眉唾ではないかと思っている。吉澤はこれ位にして編者も兼ねる許が執筆した第3章(疾風篇)「こんな音楽のどこがいい?」に移ろう。

> 過激なことを言いながらも最後の一線で格調を保っている許氏と、品の
> なさが目に付いて仕方がない共著者による章とでは雲泥の差があります
> が・・・・・・(00/05/27)

購入直後はKさんにこんなことを書いていたのだが、改めて読み返すと彼としては随分とレベル、というより志の低い批評だと思う。「否定のための否定」ではどっちにしろ良い批評になるはずがないのだが・・・・・一例を挙げると、第6節「ベルリン・フィルは本当に最高なのか?」にて、許はヴァント&BPOによるブル9を貶すために「第一主題の提示からしてその主題が提示されるべき必然性がない」と述べている。しかしながら、どんな演奏でも「必然性がない」という難癖は付けられるのではないか? 逆に言うと「主題が提示されるべき必然性」が感じられる演奏の具体的な例を示し、それと比較しなければ単なる言いがかりである。その次の「(流麗な)主題がいかなる精神的背景のもとに置かれているのかがまったくわからない」というのは抽象的でまったくわからない。(筆者がいかなる精神的背景のもとにそのような文章を配置したのかもまったくわからない。)ここでも「精神的背景」の具体例、そして1つでもいいから「精神的背景のもとに主題が置かれている」好ましい演奏例を挙げなければ、「精神性がないからダメ」の宇野功芳と目糞鼻糞だと思う。(後にミュンヘン・フィルとの海賊盤を持ち出してはいるが、この演奏がどういう点で「主題が提示されるべき必然性や精神的背景」を備えているかという説明はない。)まさか共著者達にお付き合いしたわけでもないだろうが、他の節も「冴えんなあ」という印象であった。それまでは彼の文章を読むといつもワクワクしたものだが、残念ながらこの本ではそういうことは全くなかった。
 ここまではそれでもいい。第3章までのコメントには「好き嫌い」がかなり混じっていることは自覚している。が本当に許し難いのはその次だ。宮岡博英による第4章「大家が語るクラシックの世界」は、本のタイトルやカヴァーに書かれている概要とは全く関係がない。まさに「木に竹を接ぐ」ような暴挙! ブル9の第1〜3楽章に続けて終楽章として(補筆完成版や「テ・デウム」ではなく)「天国と地獄」序曲(←何でもいいが)を演奏するようなものである。序文で許は「この本の中で氏は一人だけ別のテーマで書いているが、それは私が何でもいいから書いてほしいと言って頼んだゆえだ。私が読みたいからである。」と弁明しているが、冗談じゃない!こんな所に私情を持ち込むんじゃない。自分が読みたいだけなら私信のやり取りで十分だろう。編者たるもの、本の内容に責任を持つのは当然である。(音楽の「構造」について一家言らしきものを持つ人間のすることとは思えない。)あれが演奏会のアンコール、あるいはCDのボーナストラックのようなものなら、つまり筆者が無償で寄稿したというならまあ我慢できるが(それでもパルプとインクの無駄だ)、あんなので某かでも印税を受け取っていると考えたら読者の精神衛生上からも非常に好ましくないと思う。既に暴走しているのでこの本についてはこれで終わる。

 「クラシック恐怖の審判」シリーズ第2弾となる「オペラ大爆発」は買わなかった。単に私がオペラに対する熱意をさほど持っていないからに過ぎない。NHK教育の「芸術劇場」や衛星放送の「クラシック・ロイヤルシート」でオペラが放映されるときは必ず録画し、それなりに愉しんでいる私だが、(県庁所在地にびわこホールがあるにもかかわらず)大枚はたいてまで生を観たいとは思っていない。後にこの本を読む機会があったが(後述)やっぱり面白くなかった。(私にはこの本に関してコメントする資格はないと思う。)

 第3弾の「クラシック、マジでやばい話」も買わなかった。「こんな名盤は、いらない!」で懲りたからであり、鈴木淳史と宮岡博英が性懲りもなく執筆陣に加わっているのを広告で知ったからである。ところが、この本が隣町の町立図書館に(「オペラ大爆発」と並んで)置かれていたので借りて読んだ。そこは私の居住地の市立図書館よりも大きく、しかも22時まで開館しているので地元民の評判は非常に良い。なお、これらの他に許の単著「世界最高のクラシック」も後に置かれることになったのだが、誰か職員に許の本の愛読者でもいるのだろうか? それとも地元民による寄贈か?
 さて、この本の第1章「盤鬼平林は怒る! ─ これはひどい、録音の惨状」は本および章のタイトルに相応しい内容である。許の序文によると「原稿用紙120枚の力作大長編」ということだが、量だけでなく質も高いと思う。当サイトのあるページで平林直哉をボロクソに書いた私だが、この章は高く評価している。彼のお陰でマスタリング法による音質の違いに目覚めることができた。(そのため、音質改善されたディスクを買い直すことができた。余計な出費を生むことになったのも事実だが、メリットの方が大きかったと考えている。)全ページに占める割合からみても、ここだけで価格の1/3(560円)のモトは十分に取れているといえるだろう。
 次の「私の憂鬱」は本のタイトル、およびカヴァーとは一致していない。だから「やばい話」を期待していた人は腹を立てたことだろう。が、私には非常に面白かった。(これから私が執筆し、ここに載せることになるであろう「私のクラシック遍歴」も似たようなものになるのではないかと思っている。)彼の赤裸々な思いが綴られているのが微笑ましかった。特に「突然、『このどうしようもないつまらなさにもかかわらず、自分は自分の人生を愛している』という考えが閃いた」という一文。これを「若造のチャチな感傷」などと笑い飛ばす人間がいるかもしれない。しかし、生涯のうちで何度か同じようなことを思った私には笑えない。この章を読んで、薄れかけていた彼への共感がある程度は回復したと思う。
 が、その次(第3章「クラシックのおもちゃ箱」)がいけない。鈴木の書評やら宮岡のくだらん小説もどきやら。前者は出来自体は悪くないが、「やばい話」とどう関係するのか? この章の他の節も同様で、これではまるで寄せ鍋、いや闇鍋ではないか。再度演奏会に喩えるとしたら、「イタリア音楽の夕べ」と題するコンサートなのでアルビノーニやヴィヴァルディ、あるいはレスピーギあたりが聴けるかと期待して出かけたのに、演奏されたのはシベリウスの2番とチャイコフスキーの4番だった、というようなものだ。言うまでもなく「こんな名盤は、いらない!」よりも数段悪質である。繰り返し言うが、私は内容に文句を付けているのではない。(酷いのもあるがそれは措く。)「看板に偽りあり」だからである。タイトルおよびカヴァーの紹介文に沿った中身は半分もない。(ついでに書くと、各章の末尾に付けられた業界の内輪話もちっとも面白くない。編者は序文で「議論のネタとして提供することにした」と書いているが、どこで議論しろというのだ? 「某巨大掲示板で」というならサイテーだが、さすがにそこまでは考えていなかったと思いたい。)
 先回りするようだが、許が「クラシックCD名盤バトル」の「あとがき」に書いている「現在の本の値段に抗議しないではいられない」に対抗し、私もこのような半ば詐欺まがいの本を出していることに抗議しないではいられない。もしかすると、こんな「看板偽り本」を平然と売り物にしているクラシック関係の出版業界こそが一番やばいのかもしれない、とまで思った。ちなみに、私はこの本を後にBOOKOFFで入手した。資料として手元に置くためである。少なくとも当ページ作成には役立った。(ここまで2004/09/25執筆、もちろんさらに続く。)

 もうこれで許の本は当分買わないつもりだった。が、予期せぬ事態が起こった。Gポイント(各種ポイントの共通通貨のようなもの)からJBOOK(通販サイト)ポイントへの交換レートがキャンペーン期間中1.5倍になるというのである。そこで、中途半端に残っていたクレジットカードのポイントをいったん全てGポイントに移し、それからJBOOKポイントに移行した。(江川入団時の三角トレードのようなものである。)それで5000円相当近くのポイントが貯まった。その時ちょうど欲しかった発刊直後の「ボルヘスとわたし」(ちくま文庫)の購入はすぐ決まったが、他に注文したい本が見当たらない。そこでやむなく「クラシックCD名盤バトル」と「クラシック批評という運命」も加えたのである。などと勿体ぶった言い方をしたが、実はネットの紹介記事を読んで少しは気になっていた。
 さて、「クラシックCD名盤バトル」だが、鈴木執筆分については彼のページに書いたのでここでは触れない。許はこの本でも共著者に足を引っ張られたのか、彼にしては低調と思うような箇所が少なくなかった。2度にわたる「香港旅行ガイド」など完全な水増しで不愉快である。(こういうゴミサイトならともかく、あんな脱線話で金取っていいのか?)それより酷いのはバッハのミサ曲ロ短調の項。延々と古楽系指揮者(特にヘレヴェッヘとコープマン)をこき下ろしてからようやく推薦盤を挙げるという鈴木の十八番である貶し手法を使っている。(後にCDジャーナル98年6月号でコープマン指揮のロ短調ミサに対する許の批評を見つけた。彼は「バカっぽくて、はっきり言って私はとても嫌いだ」と言いつつも、「世の中にはいろんな人間がいる。嫌いだからと言って、言葉を尽くしてけなしても仕方がない」と書いていた。あの節度はもはや失われてしまったのか?)それでも推薦盤に10行を使っているので鈴木よりははるかにマシではあるが・・・・彼にお付き合いするくらいなら、いっそのこと「クラシック名盤ほめ殺し」の続編にした方が良かったかもしれない。鈴木と許が交替で天使と悪魔を担当すればそれは面白い読み物になっていたに違いない、と無責任なことも言いたくなる。チェリビダッケとヴァントのディスクは除けると冒頭では言いながら、本文中では度々言及した挙げ句、あっさりと「禁を破ってしまう」というヘタレっぷり。「グレイト」の項では「推薦したくない」というヴァント&NDR盤に関してグダグダと(私の僻みも当然入っているが、自慢話にも聞こえるようなことを)書いているのには呆れてしまった。とはいえ、あれだけのページ数であの値段である。多少のイントロンは大目に見なければ。価格と内容は釣り合っており、まずは良書だといえるだろう。(逆に言うと、私は「クラシック恐怖の審判」シリーズの価格設定にはまったく納得していない。)協奏曲や弦楽四重奏曲が嫌いと明言したことで、ネット上ではかなり顰蹙を買っていたようだが、あそこまでキッパリ言い切った潔さをむしろ私は買いたい。

 もう1冊の「クラシック批評という運命」であるが、私は「音楽現代」の連載記事「奇想のカデンツァ」「新・奇想のカデンツァ」のことは全く知らなかった。(また、許が「CDジャーナル」に寄稿していた時期にたまたま同誌の購読をストップしていたため、私はこの頃の彼の手になる文章をほとんど知らなかった。それらをリアルタイムで読めなかったのは今思うに残念である。)青弓社のホームページに載っていた読者の感想からある程度は期待していたが、実際に読んでみるまでこんなに面白いものだとは思っていなかった。某掲示板の彼のスレには最近(2004年8月)こんな書き込みがあった。

 ・・・「奇想のカデンツァ」(第1期)は、笑いを除いて
 本当にスゴイ、見事なポストモダン=脱構築の批評だった。
 彼は文学形式と理論とを見事に自分の文体に活かして、
 その結果我々が感じてはいたもののいかんとも言語化できな
 かった、数々の音楽体験の美が手に入ったことは確かだろう。

この投稿者は「笑いを除いて」と書いているが、私はこの時期の彼の批評精神だけでなく笑い(ユーモア)のセンスも高く評価したい。先述した読者の書評はこうである。

 ●『クラシック批評という運命』を読んで
  「新・奇想のカデンツァ」の「白バラ団のマリア」は笑いが止まりませんでし
 た。「2ちゃんねる」あたりで、許さんは「奇想のカデンツァ」のころがおもし
 ろかったというようなカキコがあったものですが、なるほど、これだけ笑えるク
 ラシック本はそうなかなかありますまい。こういう毒のあるユーモアある文章を
 また書いてほしい。

 「白バラ団のマリア」や「世界オーケストラ・フェスティバル」も傑作だが、むしろ私は童話「CD売りの少女」の方が印象に残った。ラストのシュールさは、「つボイノリオの天気予報」の中でも一二を争う最高傑作の「ペコちゃんポコちゃん天気予報」に匹敵する。(っても分かる人間どれだけおるやろか?)これだけ優れた内容の本であるから、もちろん私は高いとは全く思わなかった。

 ここで「クラシックCD名盤バトル」に戻る。彼は「あとがき」で本の値段について不満をぶちまけているが、内容が伴わなければ読者から「高い」とクレームを付けられるのは当然である。ましてや、先述したようにタイトルと中身の不一致が見られる「審判シリーズ」は論外である。あそこで彼は「確かに、私が本を作ると千六百円じゃ高いというハガキが来る。バカも休み休みにしてほしい」と書いているが、そう言いたいのは当方である。「食用作物学」の本を買ったはずなのに中身が工芸作物だったとしたら、購入者にとっては古本屋に持っていくかネットオークション等で転売でもしない限りほとんど無価値である。そういえば、彼は「図書館で借りて読んで、愛読者づらする」と怒っていたという知人を引き合いに出して、その行為を「ハッキリ言って卑しい」とも書いているが、そのような台詞は「看板に偽り本」の編者の口からは聞きたくない。そういう本が世の中から駆逐されない以上、購買する側には自衛策が必要だ。第一選択肢は立ち読みで中身を確認することであるが、洋泉社や青弓社といったマイナー出版社の本の場合、私のように地方小都市に住む人間が店頭で実物を手にすることはまず不可能である。一か八かの賭けに出て(中身を全く見ずに注文に踏み切って)「騙された」という結果に終わっても「自己責任」で泣き寝入りするしかないのである。図書館で見つけたら儲けもの、と考えるのは当然の心理ではないか。そして、これは是非言っておかなければならないが、感銘を受けた本はいつでも読み返すことができるよう手元に置いておきたくなるものである。本の売り上げが伸びないのを図書館に責任転嫁するのはいかがなものか、というのが購買者の一人としての正直な感想である。この際だから私も本の値段についても思うままに書くことにする(さらに暴走必至?)。
 前段落で専門書を例に出したが、当然ながら仕事関係の本はいくら高くても買う。私の専門分野ではA倉書店、B永堂、Y賢堂などから出ている本が多いが、どれも一般書に比べたらベラボーに高い。中でもA倉書店の「○○事典」の類は思わず不当じゃねーかと言いたくなるほどの高価格である。(とはいえ、私は3冊所有したうちの1冊の執筆を分担し印税なるものを受け取っている。「こんな高い本売れんだろーなー」と思っていたのだが、予想外に好評だったのか3回も版を重ね、トータルで本代以上の金額が振り込まれた。私が書いたのはわずか3ページで全体の1%にも満たないのに。「もし単著だったら凄いことになったなあ」と思った。が、間違っても転身は考えない。)にもかかわらず、自腹で買う。コーヒーカップをひっくり返して中身をぶちまけても大丈夫なように、というのはウソで、公費で買うと図書館所蔵本を預かる形になり、それだと異動の際に持ち出せないからというのが本当の理由である。
 そして、趣味の分野でも欲しいものは少々高価でも買う。一例を挙げよう。ウェブサイト「I教授の家」の「新・私のおすすめコーナー」で「驚嘆すべき大名著」として紹介されている田川建三著「書物のしての新約聖書」(勁草書房)である。「I教授」とはクラシック音楽の研究者&評論家の磯山雅であるが、彼はさらに「打ちのめされて、ぐうの音も出ないという感じ。すべての方に心からお勧めしたい」「これだけのレベルの研究を同じ日本人が行っているということ自体が、信じられません。著者を、心から尊敬します」と続けており、まさに手放しの褒めようであった。(今ふと思ったのだが、当サイトの名前を「I助手の家」にしようかな? やっぱパクリはアカンか・・・・ところで、この追加分をアップする直前に確認作業のため「I教授の家」を覗いたところ、何と閉鎖されてしまっていたので驚いた。某掲示板の磯山スレッドによると、彼が学生達と宿泊したあるペンションについて自身のサイトに載せた文章が発端となって、そのオーナーとトラブルを引き起こしたことが原因らしい。「当分の間」がどのくらいの期間に及ぶのかは不明だが、サイト再開まで私が看板を預かっておくことにしようか。→2006年9月4日追記:先月1日から「新・I教授の部屋」として再開された模様である。とはいえ、当面は「仮設住宅」扱いで定期的に談話を掲載するだけのようだ。→9月6日追記:前日付の「一ヶ月やってみて」を最後に再度閉鎖されてしまった。ただし「ひとまず」という条件付きだからいつ何時再開されるか判らない。コロコロ態度を変えられたらこっちだってメーワクだよ、って八つ当たりしてどうする。)磯山の絶賛文を読んだ当時、私はあるドストエフスキー関係のサイト内掲示板に出入りしており、キリスト教にも相当関心を持っていたため即座に注文した。「驚嘆すべき大名著」は本当だった。あれほど内容の濃い書物は毎日少しずつ読むには適さない。(夕食を終え入浴した後、私は布団に入って読書を始めるが、すぐに眠くなってしまうから。)そこで、毎週末を利用して集中的に読んだ。それでも2ヶ月以上かかった。それだけの間、私の知的好奇心は大いに満足させられ続けたのだから、税込8400円(実際には生協価格なので0.9倍して7560円)はちっとも高くない。というより、安すぎるとまで思った。あまりに感激した私は、その本の中から線を引いた部分を抽出して一種の要約版を作り、それに自分のコメントを付けて、さて、それからどうしたか? 先述したサイトの掲示板に書き込んだのか、管理者に私信を送ったのかは憶えていないが、手元には18000字以上のMicrosoft Word文書が残っている。(ちなみに、私はその掲示板をもう長いこと訪れてはいないため最近はどうなっているのか知らないが、当時は一度に数千字規模、あるいは1万字以上の投稿も決して珍しくなかった。私はそこを初めて見た時、「負けたぁ」とスゴスごと引き下がった。あれほど質量ともに圧倒的なネット掲示板を私は他に知らない。そういえば、許が「クラシック批評という運命」で引いていた「キリスト教は信じうるか 本質の探究」の著者、八木誠一もそこではしばしば採り上げられていた。私はサイト管理者が紹介した「イエス」を読みたかったのだが、あいにく絶版で入手できず、後に古本屋で見つけた「イエスと現代」を読んだがさほど心を打たなかった。その時既にキリスト教熱が冷めていたからかもしれない。)ところで、先述した磯山の紹介文の最後の段落には「・・・・この著者は、ものすごく厳しい人です。同業者に対しても厳しい批判、非難を、襲いかかるように、容赦なく加える。」とあるが、それは本当である。私が最も「過激だなあ」と思ったのがこれ。

 最後に、学生時代以来長年にわたる友人であり、ずい分と
 お世話にもなってきた先輩である○尾×数さんに一言お願
 いしておこう。こういう俗悪本の翻訳、宣伝をやるほどに
 身を落とすとは、今まであなたが数多く書いてきた書物は、
 それではいったい何だったのか、と多くの読者が嘆いている。
 その声があなたの耳にはいらないのだろうか。キリスト教
 学者として長年すごしてこられたことの責任上、この際、
 自分で蒔いた種は自分で刈り取る努力をなさったらいかが。
 (註:「○尾×数」は実際には伏字になっていない。)

なお、この本の購読者によるレビューがAmazon.co.jpに出ており、2004年9月現在、全て満点(5つ星)であるが、それも当然である。「『どうでも良いけど、えらく高い本だなぁ』と思って購入を迷っている人があれば、この瞬間に決心してもきっと後悔しません。」「大作で、なかなかのお値段だが、一読、大変な価値のある本とわかり、そんな下世話な感情は消え去る。」全くその通りである。(ついでに書くと、田川の「イエスという男」も名著である。)
 ダラダラとこのページに無関係なことを書いてきたが、もう少し続けさせてもらう。(誰も止めないって。)許はあの「あとがき」で「世の中にクソ本がたくさんあることはよく承知しているが、良書も少なからずある。私は本と言葉の尊厳のためにも・・・・」と述べているが、そういうことは「クラシック批評という運命」や「クラシックを聴け!」、そしてこれから触れる「世界最高のクラシック」「生きていくためのクラシック」のような本当の「良書」のみを世に出すようになって初めて言って欲しい。彼はかつて自分が放った「内容のよくないCDを大量製作するのはやめろ! 資源のむだだ! 誇りのもてる製品をつくれ!」という言葉の重みを今一度噛み締めてみる必要があるのではないだろうか。

 このままなら許の評価は最悪のままで終わってしまうところだが、どっこいそうは問屋が卸さなかった。次は「世界最高のクラシック」である。この本は最初から「買い」だった。たしか許自身によるHMV通販サイトの宣伝文にそそられたのがこの本ではないかと思う。(追記:調べてみたら記憶違いで、続編「生きていくためのクラシック」の方だった。)発売日直前に予約注文を入れたので間に合わず、1ヶ月以上待たされたが、その分楽しみが膨らんだ。そして期待以上だった。ヴァント、チェリビダッケ、ザンデルリンクなど、それまで彼が高く評価してきた指揮者に対するコメントは当然ながら説得力抜群だが、時に客観性を少々犠牲にしてまでも彼らへの熱い思い入れを綴った箇所からは著者の愛情がこちらにも伝わってくる。さらに、それまで彼が「ボケた写真に目を凝らすような徒労感がする」(「こんな名盤は、いらない!」)などとしてあまり積極的には批評してこなかったフルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターなど往年の指揮者についても代表的な録音を挙げながらわかりやすく解説している。この本が何よりいいのは、例えばカラヤンや小澤など彼自身はそんなに好きではない指揮者であっても長所を探し出して肯定的に書いていることだ。(それをできるのが鈴木との決定的違いである。)仮名遣いや平易な言い回しの多用も、昔と比べて読書量が減少している現代人に対応してのことであろう。(彼は書こうと思えば違う書き方もできるはずだ。)こういうものに対して「文章が幼稚」などと的はずれの批判をしてはいけない。内容のレベルは落とさずに平易な文体で書く。やってみれば解るはずだが、これは決して容易なことではない(註)。 私は非常に苦手である。「さすがはプロの仕事だ」と思う。私が許に勝るのはスペイン語とグアラニ語、そして自転車の長距離走ぐらいではないだろうか?(実はこの文はかなり前から暖めていたのだが、「まあ、私が宮山氏に対抗できるのは、大食くらいであろうか。」で先を越されてしまった。ちょっと悔しい。ちなみに私は大食いならあるいは負けるかもしれないが、短距離走の早食いならたぶん勝つ、ってなに向こうを張っとるんだ?)「『世界最高のクラシック』は吉田秀和著『世界の指揮者』の平成版である」とまで言いたい位に私はこの本を高く評価している。(吉田の本は時代を超える名著ではあるが、いかんせん中身が古くなってしまった。)こんな風に書くと某所でDQN扱いされるだろうが、それは百も承知である。

 次の「生きていくためのクラシック 『世界最高のクラシック』第II章」の予約に抜かりはなく、発売日にしっかり入手した。これも優れた本であり、安すぎて著者に申し訳ない気分である。(先述した著者自身による宣伝文「自分でいうのも何だが、なんと280ページもあるのに720円だ。1ページ3円もしないのである。そのうえ、前著より濃厚な内容になっている。これをお得と言わずしてどうする。」は本当である。)正直なところ、青弓社の「審判」シリーズと光文社新書2冊の価格は逆でも構わないと思う。この本では2〜3人の指揮者をグループ化してまず特徴づけを行い、それから各論に入って個々の違いを論じるという「世界最高のクラシック」とは異なる手法を採っている。その組み合わせが非常に面白い。(これまでマタチッチとレーグナーを比べようとした人がいただろうか?)後半ではAltusレーベルのディスクが意図的に紹介されているように感じられ、そこはちょっと引っかかったが、内容の充実ぶりは前書に引けを取らない。名前しか知らなかったクリスティのバロックを聴くことができたのもこの本のお陰である。(2003年の廃盤CD大ディスカウントフェアで数点購入したが、どれも気に入った。)
 ところで、この本では本編の内容よりも「最初に」(前書き)に対して私はコメントしたい。(「銀座の有名すし屋がどうのこうの」という「世界最高のクラシック」の「最初に」は許にしては凡庸だと思う。)あるクラシック関係書物の書評サイトでは、この本に関してこんなことが述べられていた。

  前著「世界最高のクラシック」も気に食わなかった。
 「最初に」から言い種が気に食わない。「世界最高」の
 ものしかしか聴かない。「私の生は、もう十分に退屈で、
 つまらないからである。平凡で卑俗だからである。」〜
 って、そこまで言わなくていいじゃない。「私にとって、
 世界最高のクラシックとは、生が生きるに値すると納得
 させてくれるものなのだ」・・・う〜む、蘊蓄多過ぎない?

「言い種が気に食わない。」「そこまで言わなくていいじゃない。」おそらくはそれが世間一般の感想である。しかし、私はあれを読んで「この人はやっぱりこういう人間だったんだな」と思った。「私の生は、もう十分に退屈で、つまらないからである。平凡で卑俗だからである。」これは誇張でもハッタリでも何でもない。紛れもない彼の本音である。(ちなみに、こういうのは決して「蘊蓄」とは言わない。)次の「生が何が何でも生きるに値するものとは、どうしても考えられないからである。」には痛ましさを感じた。後に自分で「笑止千万」「腹が立つほどの戯言」と書いているが、そのように非難されるのが判っていながらも、彼は悲痛な叫びを文字にせずにはいられなかったのだ。そういう思いをしたことがない人には絶対に解らないことであるが、やはりそのようにしか言い表せない感情というものは確かにあるのだ。そして、それを認めてしまうと私も非難からは免れないのだが・・・・・仕方がない。
 多感な青春時代にいつしか備わった狂暴な目つきのままで大人になってしまった。私がイメージするのはこういう人物である。もし彼の目の奥から狂暴さが消えるならば、それは彼が○○した時ではないか、と私は思っている。この「○○」に私は3つの可能性=サ変動詞を思い描いているのであるが、そのどれになるか? どれも選ばずこのまま進むか。それとも4つ目の選択肢があるのか? (ただし、3つの「○○する」は全て自発的行為を表す動詞である。)もしかすると、彼は心の底から笑うということを久しく忘れてしまっているのではないだろうか? だいぶ前にドストエフスキーのサイトのことを持ち出したが、その作品中の人物では「未成年」のアルカージイに近いと何となく思っている。(困窮していたらラスコーリニコフになっていたかもしれない。)将来はイワン・カラマーゾフの域まで行って欲しいと思っているが、あるいはスメルジャコフで終わってしまうかもしれない。ついでに書くと、鈴木淳史のイメージに近いのは同じく「カラ兄弟」のラキーチン、もしくは「白痴」のレーベジェフである。(私は打算ずくで生きている前者は嫌いだが、「愛すべき卑劣漢」という形容の似合う後者は結構好きである。)吉田秀和はやはりゾシマ長老、宇野功芳はスヴィドリガイロフ(「罪と罰」)と言いたいところだが、そこまでは行ってない。「未成年」のヴェルシーロフぐらいであろう。暴走どころか妄想がだいぶ入りこんで少々やばくなってきたようなので、この本についてはひとまず終わる。

 次に買った「究極! クラシックのツボ」についてはあまり書くことがない。クラシックの入門者には不向きで、中級以上の読者にとっては物足りない内容。誰をターゲットにしたのかよく解らない本だった。タイトルと内容とが一致しているのでその点では文句は付けないが、光文社新書の半額で十分というべき中身の薄さである。(著者の面子を見れば中身のレベルはおおよそ判りそうなものだが。)ここでぜひ言いたいのだが、このような本を作る暇があったら、「世界最高のクラシック」や「生きていくためのクラシック」のような優れた単著の執筆に精を出してもらいたい。某所では「許光俊グループ」などと揶揄されているようだが、もうそろそろ彼らとの縁を切っても良い頃ではないか。まさかとは思うが、メンバーを養わなくてはいけない、あるいは彼らの生活のため仕事を取ってこなければならないという事情でもあるのだろうか?(最近その点に関して某掲示板にも投稿があった。いくら何でもこれはちょっと酷い、と思ったのでここには載せない。)「絶対! クラシックのキモ」は絶対に買わない、とはいうもののBOOKOFFで見かけたら別である。

 ここで終わっても良かったのだが、近年hmv.co.jpに連載されている「許光俊の言いたい放題」について最後に少し書く。
 ケーゲルやスヴェトラーノフ、テンシュテット、バティスなど、彼がお気に入りの指揮者について書いたものは申し分ない。肯定的な批評を読むうちに、こちらも気分が良くなってくるのは相変わらずだ。1冊にまとめて(例えば光文社新書の第3弾として)発売しても良いと思えるだけの内容がある。(ただし、時に出てくる脱線話はネット上では御愛敬だが、印刷物として残す意義はないのでカットすべきと思う。)ここで問題にしたいのは、やはり否定的な記述である。第25回「無類の音響に翻弄される被征服感〜ムラヴィンスキー1972年ライヴ」の第2段落から。

  この前もドイツの某都市で某人気指揮者と某人気オーケスト
 ラのブルックナーを聴いたが、チェリビダッケもヴァントも知
 っている耳にとっては、水準が違いすぎて、腹も立たなかった。
 単にでかい音、単に静かな音が出てくるだけ。もとから大した
 才能がないのだから、高レベルを期待しようという気なんか起
 きない。でも、こういう人ばかりなんだ、今のクラシックの世
 界って。三流指揮者の芋洗い状態。
 (↑それにしても槍玉に挙がった「某人気指揮者」って誰やろ?)

この後「あ、インバルとベルティーニは別ですよ」と但し書きが付くものの、現役指揮者にろくな奴はいないと断言している。が、これは既にあなたが「クラシックを聴け!」に書いていたことではなかったか? チェリビダッケとヴァントの死去、ザンデルリンクとジュリーニの引退によって、「現代に生き残ったごくわずかの<正しい>演奏家」も完全にいなくなり、「もはやクラシックは滅んだ」は今や現実のものとなったはずである。ならば、それこそ「いつもいつも同じレパートリーじゃんと思いつつも、ムラヴィンスキー(あるいは先述した指揮者などの)のCDを聴いている」など、家に留まって滅んだクラシックを回顧(懐古)することに専念しているべきではないのか? なにゆえに、初めから良くないと思っている指揮者の演奏会にわざわざ出かけたりしたのか? また、あなたは「生きていくためのクラシック」の序文に「退屈そうなコンサートなら、招待券をもらっても出かけない。出かけても、魅力に乏しい演奏ならさっさとコンサートホールを後にする」と書いていたのに、そのドイツの某都市ではなぜそうしなかったのか?(まさか収入源である「言いたい放題」のネタを得るためではあるまい。)あの「きわめて明快な理由」は一体どこへ行ってしまったのか?
 実はこのような内容の投稿を2度にわたって暴挙大慶寺番に書き込んだのは、何を隠そうこの私である。あまりにも失望させられたからである。そして、彼を買っていただけに、この言行不一致はいくら何でも許しがたいと思ったからである。

 最後の最後になるが、DGに移籍後の(ダメになった)ブーレーズについて許が「クラシックの聴き方が変わる本」や「クラシック名盤&裏名盤リスト」に書いていたことが、今や彼自身にも当てはまっているように私は思えてならない。いちいち指摘しないが、あるいは彼も自覚しているのではないか。(でなかったらヤバイと思う。)そう信じたい。上でわざわざ田川建三の文章を転載したのは、実は締めの伏線を張ったのである。私もこう言わせてもらってこの項を閉じることにする。

 今まであなたが数多く書いてきた書物は、
 それではいったい何だったのか、とある読者が嘆いている。
 その声があなたの耳にはいらないのだろうか。

繰り返すが、買っていた、いや今でも買っている評論家だからこそ、ここまで書かずにはいられなかったのである。(2004/11/13up、ひとまず完結とするが新刊次第でさらに続く可能性もある。)

2005年6月追記
 HMV通販サイト連載の「言いたい放題」によると、近日中に「オレのクラシック」という本が刊行されるらしい。なんでも「一人称を『オレ』にした一種のオレ・ワールドを構築してみるかとやってみた」とのことであるが、あるいは落合博満の影響だろうか?(12月追記:落合が選曲・監修を手掛けたというオムニバスCD「オレ流クラシック」が発売された。)「覆面レスラーがマスクを取り替えると善玉から悪役に変わったりするのと同じで、書くときに主語を変えるだけで、けっこう気分が違ってくる」とも書いているが、それはたぶん本当なのであろう。そして読者にしても、文章から受ける著者のイメージが大きく変わってくるのは間違いない。
 いきなり飛ばすが、私はДостоевский(←文字化けチェックのため敢えて使ってみる)の「未成年」を岩波文庫(米川正夫訳)で読んだ。(ちなみに岩波は「ドストエーフスキー」と伸ばすし、旧仮名遣いの時代は「イェー」だった。露語は全く知らないが原語の発音に近づけるためだろうか?)語り手も兼ねる主人公アルカージイは、私生児として生まれ育った自分の不幸な21年間について延々と(冒頭から30ページ以上)述べる。語り中の一人称には「わたし」が使われている。一方、会話では「ぼく」となる。それが最初に出てくるのは彼のパトロンである老公爵に向けた以下の台詞である。「ぼくは女がきらいです。というのは、彼らが無作法だからです、不器用だからです、独立心がないからです。そして、みだらな服装(なり)をしているからです!」(過去にはこれを職場の自己紹介サイトにて「好きな言葉」として挙げたこともある。ついでに書くと、ドストエフスキーの全作品中、アルカージイは私が好きな登場人物として五本の指に入る。)その後の2人のやり取りは極めて面白いのであるが、そこまで読むと彼がとても神経質で怒りっぽい人物(←ヴァントみたいだな)であることが判る。
 ところが、後に大学図書館の地下で筑摩書房の全集を見つけた時、何気なく小沼文彦訳による「未成年」を開いてみたら驚いた。語りに「おれ」が使われていたからである。(ちなみに、古本屋で上巻だけ売られていた新潮文庫を手に取ったことがあるが、工藤精一郎も米川と同じく語りでは「わたし」を使っていたと記憶している。)冒頭からしばらく読み進めるうち、癇癪持ちというだけでなく振る舞いも粗暴あるいは凶暴な人物像が脳裏に浮かんできた。「おれはひとりごちた」と語るなど、もはや米川訳で親しんでいたアルカージイとは別人であり、「白痴」のラゴージン(ロゴージン)すら彷彿させる。(ふと思ったのだが、「オレ」「俺」ではなく平仮名の「おれ」を使うことによって、訳者は子供じみたところも強調しようとしたのだろうか? これは非常に効果的だと思う。)このように、人称代名詞を変えるだけで登場人物の性格が一変してしまう。これは恐ろしいことであるが、英語などでは決して味わえない愉しみということもできるだろう。
 ということで、許が次作でどのように「ワル」ぶりを発揮するのか、そして私がそれを読んでどう感じるのかが楽しみである。とはいえ請求者の本は(過去にコストパフォーマンスのあまりの低さに何度もウンザリさせられたため)もはや買う気が起こらないので、入手するとしたら例の経路しかない。(望み薄か?)

2005年7月追記
 「犬」サイトの「許光俊の言いたい放題」(第59回)に著者自身による「オレのクラシック」の宣伝文が掲載された。(ついでに請求者のサイトにも行って新刊案内ページを見てきた。)「ハッキリ言って、愛読者以外は読まないほうがいいかもしれない」とあるが、確かに書き下ろしによる第1章の目次を眺めた限りでは、オタクや某掲示板の住人にケンカを売っているような内容ではないかと想像できる。ゆえに読んでみたいと言う気にさせられた。(さすがはプロの物書きである。挑発、いや購買欲をそそるのが巧い。実は最近厄介事に巻き込まれたために不本意ながらクレジットカードのポイントが貯まってしまっている。さて、どうするか。)「オレの日本」「オレの宗教」「オレの大学」「オレの死」等々、一体どんなことが書かれているのか非常に気になるところであるが、極めつけは「オレのブラックバス」である。何だ何だ何なんだ?(「オレのグルメ」は別ページに書いたように全く興味のないテーマであるし、きっと自慢話も混じっているだろうから読みたくない。「オレのイタリア」「オレのウィーン」も同様である。ちなみに、私が似たようなものを書くとすれば「オレのマチャレティ・ラグナ・ネグラ」「オレのバンダール・ランプン」「オレのオゴンゴ」ぐらいしかないが、「こんなもん誰が読むか」と自分で言いたくなるほどマニアックな内容とならざるを得ない。なので書く気など起こらない。今のところは。)
 また「そもそも生きている人間とは、矛盾や混乱を抱えているものである。だから、この本ではあえて首尾一貫させる努力はしなかった。」も批判に対する予防線といえばそうだが、それゆえに彼の本領である爆発的な攻撃力(舌鋒の鋭さ)が十二分に発揮されているはずと期待される。私としてはゴールキーパーまで前線に上げるような捨て身の攻撃を望みたいところだが(と無責任発言してみる)。少し気になったのが、お仲間が刊行を準備している本のコンセプトを引き合いに出して、「『私は嫌い』が、ここしばらくの流行になるのだろうか」と書いていたこと。まさか自分と鈴木淳史の2人だけで「流行」などとは本気で考えてはいないだろうが、某掲示板の住人に格好のネタを提供してしまったようにも思われる。(それにしても発刊後の許スレにおける個人攻撃の酷さは目に余る。)
 第2章「オレのCD」も単なる「言いたい放題」の使い回しではなくてオマケ付きらしく、手抜きに陥っていない点は評価できる。最終段落(印税を福祉事業に寄付)については書かなかった方が立派なのは言うまでもないが、立派な行為であることには変わりがないので当方も素直に「偉い」と言っておく。
 ところで、著者には小池重明の生き様を描いた漫画が面白かったということだが、将棋関係のノンフィクションということなら大崎善生(元「将棋世界」編集長)による「聖の青春」が近年では群を抜いて素晴らしいと思う。羽生善治の最大のライバルと目されていたが病のため惜しくも夭逝したプロキシ、じゃなかったプロ棋士、村山聖(さとし)の生涯を感動的に綴った大名著である。また、夢破れて奨励会(プロ養成機関)を去った若者達のその後を追った次作「将棋の子」にも大いに感銘を受けた。(どちらも講談社文庫で出ている。)彼の目に触れることなどあり得ないと思いつつこれを書いているのだが、「生が何が何でも生きるに値するものとは考えられない」という人間には読む価値のある本だと私は考えている。少なくとも破滅型人生を全うした小池重明関係の書物よりは。(いま思い出したが、プロ転向という小池が果たせなかった夢を瀬川晶司は実現することができるだろうか? →追記:11月6日に行われたプロ試験第5局で合格ラインの3勝目を挙げ、見事プロ入りを決めた。おめでとう!)

2005年9月追記
 「オレのクラシック」の第1章「オレが認めない指揮者たち」にて、「ズデニェク・マカール ── タダのヘタクソ」としてマーツァルが槍玉に挙がっているようだ。まあ、許が彼を毛嫌いするのは私にとってのアーノンクールと一緒だから別に構わないのだが、某掲示板に載っていたその内容のあまりのお粗末さには呆れてしまった。何でも彼が聴いた来日公演での「モルダウ」冒頭のフルートソロがまともに吹けていないというのを攻撃材料としているらしいが、投稿者も指摘していたように、あそこが奏者2人による掛け合いであるのは曲目解説にも載っていることだ。(私はNHK-BS「クラシック・ロイヤルシート」で1990年5月12日の「プラハの春」開幕コンサート=クーベリック42年ぶりの里帰り公演における「わが祖国」の映像を観たが、件の箇所は確かに隣り合ったフルート奏者が交替で吹いていたという記憶がある。某掲示板の「許は最前列に座っていたからそれが判らなかったのではないか」という推測は当たっているかもしれない。)つまり誤謬(勉強不足?)に基づいた批判であり、結果的にただの中傷になってしまっている。「首尾一貫させる努力」以前の問題だ。(そもそも、どうして認めていない指揮者のコンサートをわざわざ聴きに出かけたのかが謎だ。やっぱりこれもメシの種か?)もちろん、こんなのは金の取れる批評とは呼べない。正直ガッカリである。読みたいという気も失せてしまった。上記のクレジットカードのポイントは、例によってGポイント経由で(1:1のJBOOKポイントに移すよりレートは悪いが)Amazonギフト券に交換し、それでラテン音楽のCDを買った。

2005年10月追記
 先日の朝刊で「世界最高の日本文学 こんなにすごい小説があった」(光文社新書)の発売広告を見たので、その日の内に注文を入れた。タイトルがちょっと「ん?」だし、光文社のサイトに掲載されている目次を見ても自分が読んだことのある小説は1/3しかない。にもかかわらず読みたくなったのである。最近の音楽評論での低迷については上で述べているが、他分野の執筆を機に彼がそこから脱却できているかが気になるからである。(このシリーズの許の著作が充実していることも購入動機の1つである。)果たしてイメージダウンは払拭されるだろうか? ちなみに、amazon.co.jpのカスタマーレビューには「これまで許さんが書いた著書の中での一番のヒット作ではないのかな」とあるから結構期待している。どこか(ここではない他のページ)に読後コメントを載せるかもしれない。(→11月14日に立ち上げた「文学のページ」に掲載することにした。)

2005年12月追記
 「言いたい放題」の最新号「やったが勝ちのクラシック」には「三島由紀夫が45歳で腹を切ったのが何となくわかってきたし、これはヤバい」とあった。本文でも仄めかしているが、彼がこういうことを文字にしても私は別に驚いたりしない。「破滅型人間」としてはごく当たり前の発言である。ただし、次段落の「やはり世の中、やったが勝ちなのだ」云々については少し気になることがある。
 今月20&21日にジャン・フルネ(92歳)の引退公演が行われたが、初日のサントリー・ホールでは、伊藤恵の独奏によるモーツァルトのピアノ協奏曲第24番(内田光子がソリストだったザンデルリンクの「ラスト・コンサート」と同じ曲目なのは偶然?)が第2楽章に入る直前に靴音高らかに退席した聴衆1名がいたのだという。ところが、その丁度2ヶ月前に「犬」通販サイトに掲載された「シーズン開幕に寄せて」(「言いたい放題」第64回)で筆者が伊藤をボロクソに貶していたものだから、某掲示板の東京都響スレ(【フルネとともに】東京都交響楽団 7【終了?】)および許スレ(許光俊のルサンチマンがうざったいです。)はそりゃーもう大騒ぎだった。その不届き退出男を許と決め付けた参加者大勢(?)により数日間にわたって糾弾大会が続いたのである。(ちなみに許は「ハッキリ言って論外だった。あの鈍くさいピアノを再び聞かされるのかと思うと、うんざりする。」と書くに留まらず、驚いたことに主催者側にプログラムあるいは独奏者を再考するよう迫ったのだという。ついでながら、指揮者がキャンセルとなった場合の払い戻しにまで駄々をこねていたが、それについては後に別の掲示板で巨匠亭家元=浅岡弘和から「偽悪者が偽善者になってしまってはもうおしまいですね」などと揶揄&嘲笑されているを見つけた。)
 目撃者らしき証言カキコが複数あったけれども確証はどうやら得られていないようなので、私はその件に関しては糾弾に加わるのを(今のところ)控えておく。ただし、「世界的にみれば幼児レベル」などと方々で書いているにもかかわらず、わざわざ都響の定期演奏会に出かけていくという神経の鈍感さに対しては、とうてい伊藤のピアノの及ぶところではないと言わせてもらう。9月追記で触れたマーツァルについても同様だ。「クラシック批評という運命」に載っている「残念ながら五年後、自分はほとんど確実に管弦楽の演奏会など足を運ばぬだろうという予想に打たれて、悄然とする。」という一文(96年執筆)を採り上げ、「こういうキザなことを述べておきながら今になって『マカールがどうのこうの』とシャアシャアと書いているから私は腹が立つんです。これを『厚顔無恥』といわずして何と言えましょうか。(それにしても我ながらひつこいなあ・・・・)」というコメントを先述の掲示板に書き込んだ。また、その少し前には「音楽評論家・許光俊の評価」を「悪い」と変更するよう管理者に依頼している。「言いたい放題」のあまりの質の低さゆえ、やむを得ぬ処分であった。(余談ながら、私が投稿する直前に払い戻しの件で巨匠亭家元が長文レスを付け続けていたのも同じスレであるが、そのネチネチぶりに辟易したらしき管理者によって最後の1件が削除されると同時に出入り禁止処分が下された模様である。もちろん浅岡と面識はないが、彼自身が主催する掲示板も含めネット上での発言から判断する限り相当執念深そうな人である。今更ながらだが、怒りに任せるまま書いてきたため今回執筆分は普段にも増して構成がゴチャゴチャである。よって、ここで改行。)
 さて、前段落冒頭に「非難は自粛する」などと書いてはみたものの、「恥ずかしかろうが、失敗しようが、やらなくては始まらない。ならば、うんと往生際の悪い人間になりたいものだ。」という発言にはどうしても引っかかる。「美を追いかけるということはエゴイストになるということである」を徹底して実践しようという決意表明だろうか? そういう気持ちがエスカレートしてついつい愚挙に及んでしまったのではないか、などと考えてしまったことを私はここに白状せざるを得ない。しかしながら、「自分勝手な振る舞いによって滅ぶ自由はあっても、周囲の人間を巻き込み、不快にさせる権利など一欠片も持っていない」ということを大学教授ともあろうお方がわきまえていないとはいくら何でも考えにくい。以上で「釈迦に説法」終わり。(2006年2月追記:今月12日付のBBS「巨匠亭」への投稿から判断する限り、どうやら「家元」は「足音男=許」と考えているようだ。)

2006年1月30日追記
 昨日ブックオフに行ったら単行本コーナーに「クラシックを聴け!」「こんな『名盤』は、いらない!」「クラシック、マジでやばい話」、新書コーナーに「世界最高のクラシック」「生きていくためのクラシック」を見つけた。(ついでながら、鈴木の「クラシック批評こてんぱん」もあった。)どうやら市内に許本の愛読者がいるのは間違いないが、それらが悉く当サイトで採り上げている本だったので、「もしかして自分のドッペルゲンガーが売りに来たのかも」と一瞬ながらしょーもないことを考えてしまった。

2006年3月追記
 先月下旬(2月23日〜)、某掲示板の許スレにて再び足音事件が話題となったが、その前日付の「言いたい放題」(第74回「空前絶後のエルガー」)冒頭部分が発端となった可能性は高い。

  2005年の最後に出かけたコンサートは、ジャン・フルネ
 指揮東京都交響楽団だった。いやあ、がっかり。実にがっかり。
 フルネはこれが最後だから、特別な何かが起きるコンサートに
 なるかと少しは期待していたのだが・・・。甘かった。
 これについては今年中に出す本の中で詳しく書こうと思う。

許は事件当日(初日)のチケットを取っていたはずだから、「何も特別なことは起こらなかった」のように記しているのは不可解である。(ちなみに、東京新聞文化部の記者は足音退出について「幼稚なテロ」と切り捨てたらしいが、さんざん甘やかされて育ったガキのごとき傍若無人の振る舞いには確かにピッタリの形容だと思う。)とはいえ、彼が実行犯であるという明確な証拠は未だ提出されていないから、私は件のスレでしばらく続いた糾弾に同調するつもりはもちろんないし(偽メール事件を他山の石としなければならない)、本日アップしたあるディスク評ページ下の「おまけ」のように延々とやりとりを載せることも自粛しておく。(奥歯に物の挟まったような書き方しかできないのは不満だし、そもそも私の性には合わない。)よって、以下の投稿を読んで感じたことを述べるに留める。

 ほとんどの人は、あの日のコンサートがフルネと共有
 した時間の最良のものとは感じてはいなかったよ。
 でも、みんな大人だし、これまでフルネとともに積み
 重ねてきた思い出に拍手を送り、歓声を送ったのさ。
 わざわざ、「特別のことが起こらないかと期待して」
 なんて書くのはアホの極み。
 「特別のことが起こらなくても」フルネにありがとう
 と分かれを告げに、みな集まってたんだよ。

物見遊山の気分で(それまで無視同然だったにもかかわらず引退間際になって急に巨匠扱いされるようになったため)コンサートに足を運んでおきながら、「ガッカリ」と(それも繰り返し)書くなど野暮の極みではないか。(浅薄という点ではテロ行為と五十歩百歩であろう。前世紀にはジュリーニの不出来な演奏に出くわしても、そんな不躾なことは書かなかったはずだが・・・・やはり節度が年々欠落しているように思えてならない。)それに留まらず、「今年中に出す本」でも詳しく(不満をタラタラと)綴るつもりだろうか? ちなみに、件のスレでは「どう『詳しく』書くかね?小心ルサンチマン君」に応えて評論予想が書き込まれ、特徴を上手く捉えた(いかにも許が書きそうな)文章に思わず吹き出してしまった。実際のところ、いったい何が書かれるのかは私としても多少は気になるところである。が、それを目にする機会は例の新古書販売店で見かけたりしない限り訪れないかもしれない。もはや今となっては先月追記分で触れた謎の人物にすがるより他ないのか?

2006年7月29日追記(今後は他ジャンル音楽のページ充実に専念することになるから、これより下に続くことはたぶんない。)
 少し前になるが、某掲示板の許スレに「感想お待ちしています」という一文とともに本ページのURLが貼られた(しかも直リン)。2時間と少し経ってから(日付が変わってから)レスが付いたが、まず箇条書きされた「長い」「散漫」「脱線だらけ」に脱力せざるを得なかった。どれもこれも当サイトのタイトルあるいはページのあちこちで既に宣言ないし決意表明しているものばかりである。他に少しぐらい読みとることはできなかったのだろうか? せめて「こいつアホやなぁ」のような褒め言葉の1つぐらいは欲しかった。
 さらに唖然としたのが「許自身の方が文章はうまい。構成もしっかりしている。」である。「誰某は羽生善治より碁が強い」に匹敵する大歩危コメントではないか。おっと、私はそんな大層なモンではないから、「草野球選手とプロとを比較するようなお笑い種」にしておこう。どっちにせよ、大学教授兼音楽評論家に対してあまりにも失礼というものである。「あの虚よりもものを知らない」にしたってそうだ。なにせ全く畑違いの人間が片手間に、というより暇潰しに綴っているのである。野暮なこと言いなさんな。(念のためここにも書いておくと、当方の専門は作物学・栽培学という理系分野である。)直後の「虚がつけあがるんだ」には萎えてしまった。知らんがな。先方が当サイトについて言及している訳じゃなし、自分勝手に因果関係こしらえて言いがかり付けるとは滑稽極まる。「クラヲタ界のスター」として一世を風靡したM氏級だ。(まさか彼?)いや、いくら何でもあんなトホホ投稿を本気で作成するようなピンポンパン、いや頓珍漢がいるとは思えないから、おそらくは何か別の意図があってのことだろう。そう考えた方が良さそうだ。(私と一緒で笑いが取りたかったのだろうか? ついでに一応指摘しておくと、その1ヶ月ほど前には許叩きを目的とした投稿の中に明らかに彼を私とを混同したものがあった。)
 当然ながらメシのタネとなる原稿では、こんなグチャグチャ&アホ丸出しの駄長文など書き散らしたりしていない。大して面白くもないだろうが読もうと思えば可能であるから、いつか感想など寄せてもらえれば幸いである。(とはいえ私は所属している学会のジャーナルに和文では執筆していなかった。となると少し古いけど「熱帯農業」のアレか。氏名と誌名でネット検索すれば発行年はもちろん巻や頁まで判るはずだ。大学の農学部図書館なら間違いなく保管しているだろう。今思い出したけど手元にまだ別刷あるよ。)
 なお、その3日と19時間後にはURL付き(やはり直リン)で「鈴木淳史のページの方が面白いね。この人が本当に愛してるのは鈴木の方だと思う。」という投稿があった。ありがとう。こういう気の利いたコメントなら大歓迎だ。(ナイスボケ! :6点)

2007年3月27日追記(予定変更)
 某掲示板で騒ぎになる前に書いて上げることにした。
 生協に注文しておいた「問答無用のクラシック」の入荷連絡を受け、さっき本を取りに行った。(「犬」通販の紹介ページを見て面白いに違いないと直感したから久々に新品を買う気になったのである。そういえば許は「前を通るだけで面白そうな本だと判るようになる」等とどこかにかいていたっけ。)帰ってから読むつもりだが、頁をパラパラとめくって目に留まった第1章の「フルネの引退」について少し書く。
 やはり彼は伊藤のピアノを聴いて帰りたくなったので、第1楽章が終わるのを待って席を立ったということだ。(後半には戻ってブラ2を最後まで聴いている。)その理屈(不味い料理を食べないでいるのと同じく、客には聴くことを放棄する権利ある云々)は一見筋が通っているように映る。だが、それで足音を会場全体に響かせたことをも正当化できるのだろうか? 他の聴衆の心をかき乱したのは、放屁による悪臭をレストランに漂わせるような腹癒せと結局同じではなかろうか? 少なくとも靴を脱ぎ、誰にも悟られぬようにして退席すべきであった。絶対にそう思う。(ついでながら、あとがきの最後の段落も引っかかった。論語の「不惑の年」は人間が四十や五十で簡単に死んだ時代のことだから現代には当てはまらないとあるが、そういう年代は昔も「老年」ではなく「中年」だったと思うけど。蛇足ながら、現代よりも平均寿命 (新生児の平均余命) が短かった最大の原因は極めて高い乳幼児死亡率にある。孔子の時代も40歳や50歳まで生き延びた人はそう簡単には死ななかったはずだ。)

2007年3月28日追記
 昨晩100ページほど(第3章の途中まで)読んだ。ひとまず「私も少しばかり勘が冴えてきたのかな」と述べておこう。あとがきにはこの本が「各種雑誌などのために書いた文章」と「発表の可能性はわからないが筆のおもむくままに書いた文章」の両方で構成されているとある。それぞれの発表年あるいは執筆年のみで初出が記されていないため、私には(既に目にしたことのある一部を除き)どれがどれなのかは判らない。ただ言えるのは、それらの全てが紛れもない許光俊の文章であるということだ。本ページ上に記したような高い格調を備えているという意味で。私が肯定的に評価していた頃の切れ味を取り戻しているという印象も受ける。というより、本気を出せばこれ位はフツーに書ける人なのだろう。出来の良いものを選っているようで、「やっつけ仕事」と思わせるような文章が(今のところは、であるが)全く見当たらないのは何より嬉しい。
 このような書物に対して私のような「ものを知らない」人間があーだこーだ言うのは僭越、いや著者に失礼という気がしてきたので口を噤むことにした。バナナの皮を踏んづけてスッテンコロリンという一昔前の漫画やアニメみたいな小学生が実在したのかという疑問は禁じ得ないけれど。

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