2005年1月追記
 「高度な内容を平易な文章で解説する」で思い出したことがあるのでここに書く。

 >もっとも「知的」なのは、ややこしいコトをわかりやすく
 >シンプルに説明することなんだよね。
 >ややこしいモノをややこしいままいじくり倒すのは、
 >タチのワルいアホ、ってことで。

 うーん。これについては瀬戸内寂聴女史による「源氏物語」の現代語訳
 を題材にして書いたことがありました。「いじくり倒す」のは論外とし
 ても、「わかりやすくする」ことが必ずしも良いのではなく、難しいも
 のは難しいままにしておき、詳細な注釈などを付ける(後は読者の努力
 に委ねる)ことにエネルギーをつぎ込むというのも知的作業であり、訳
 者、解説者の見識ではないかと考えています。(これは、現代風にわか
 りやすくアレンジして原作の美しさや作者の意図を台無しにする危険性
 がある場合のお話でした。)
 これだけは言える。わかりやすいものをわざわざ難しく解説するのはアホ。

上はKさんのサイト内にある掲示板でのやり取りで、当時常連だった女性投稿者に私がレスを付けたのである。以下に「書いたこと」をそのまま貼っ付ける。

>  瀬戸内寂聴女史が現代語に訳した「源氏物語」がわかり易い(小学校5年
> 生でも理解できる)と好評のようで、彼女はやや有頂天になっているようで
> す。別冊宝島の将棋特集に女史と米長九段の対談が載っていましたが、そこ
> でも「源氏」が話題となり、難解な文章と読者が感じるとしたらそれは訳し
> た人間が悪い(あるいはちゃんと理解していない)、というようなニュアン
> スの発言が両者からなされていました。それを読んで、「おいおい、ちょっ
> と待ちなさいよ」と言いたくなったのでした。
>  
>   けれども、このわかり易さこそ問題なのである。我々現代人とは随分異
>  なった思索をする古代の宗教思想である。思索そのものが異なるというよ
>  りも、その前提条件、その思索の行われる環境などが非常に異なる。異な
>  って当然なのだ。その相違の故に、聖書の文章は、そのまま原文に忠実に
>  訳したのでは、非常にわかりにくいところが多くなる。それを、わかりに
>  くくて当然と思わずに、現代人の心性(それもかなり安っぽい宗教的心性)
>  に感情的に訴えるような文に書き換えたら、それは改竄というものだ。
>   わかりにくい、と言っても、ちょっと努力して考えれば、かなりわかる
>  ものである。だいたい、他人の思索を、それも二千年前の、地理的にも随
>  分異なるところで生きていた人々の思索を理解しようというのに、努力し
>  ないでそのまますんなり通じるべきだと思う方が間違っている。
>   「自然で、明晰で、単純で、曖昧なところがない言語を用いるよう、あ
>  らゆる努力がなされた。」そういう努力がなされたことは十分に認めうる。
>  しかし、古代の思想を、現代の言葉で「自然かつ単純」に表現できると思
>  い込むなど、妄想というものだ。現代の言語は現代社会の社会環境と文化
>  に応じて作られる。その言語にとっての「自然」とは、従って、現代社会
>  の社会環境と文化におのずとなじむはずのものである。しかし、古代の思
>  想が時代をとびこしておのずとなじむなど、ありえないことである。つま
>  りこれは、露骨な時代錯誤なのだ。
>  
>  以上の三段落は「書物としての新約聖書」(田川建三著)からの引用です。
> これらを読んで瀬戸内女史がどう感じるのか是非知りたい気分です。(あの人
> の発言にはとかく軽薄さが目に付くので、どうも好きになれません。)それは
> さておき、何でもかんでも現代人に合わせてわかり易くしてしまうのは考えも
> のである。そのことによって人類の貴重な遺産が痩せ細ったり歪められたりし
> てしまっては何にもならないと田川氏は力説するのです。氏のこの批判は実に
> 正論だと思います。(ちなみにこの本は豊富な内容のみならず、膨大な註が付
> けられていたために随分と分厚く、また僕にとっては非常に難解でした。)
>  ここで話をいきなりクラシック音楽に持ってきてしまいます。音楽の場合は
> 時代に応じて再生を繰り返すことができるという性質を持つため、大巨匠が活
> 躍した時代のような堂々とした演奏が時代考証を全く無視していても許される
> として、問題になるのは最近人気の古楽器演奏です。どうも演奏する側は斬新
> な解釈を狙ってばかりいるように見えるし、聴き手も現代オーケストラとは異
> なる真新しい響き、厚化粧を取り除いたシンプルな演奏を求めているに過ぎな
> いような気がします。いずれにせよ、古楽器演奏は現代オケよりも「わかり易
> い」という傾向があるのは確かです。「本当にこれでいいのか。古楽器演奏は
> もっとわかり難くて然るべきだ」なんて言う人は現れないかな?
>  とにかく、何物にしても「わかり易い」イコール「良い」という風潮を全面
> 的には肯定できないと思う今日この頃です。(すいません、脱線が長くて。)

これはKさんへのメール(99/05/14)で、彼が「源氏物語」の話題を振ってきたのを受け(←受けてない)、いつもの悪い癖で大脱線してしまったのである。(それにしても「先日冨田勲のCD『源氏物語交響絵巻』を買いました」に対してここまで書くとは我ながら呆れる。)古楽器演奏については、当時の私がろくに聴かずに勝手なことをがなり立てているだけであるから笑い飛ばしてもらえると助かる。ついでに補足しておくと、田川は当時使われていた通貨単位「デナリ」を勝手に「円」に書き換えたりするような行為も当然ながら厳しく批判している。(私が初めて読んだ新約聖書は非常にわかりやすく、それこそスイスイと読み進むことができたのだが、あれではダメなのだな。)
 その次のメール(07/05付)には私が上のようにダラダラ書いた言い訳が述べてあった。

> 実は瀬戸内女史と米長氏の対談で、「難しいものを難しく解説して悦に入って
> いるのはバカだ」という発言があったから、ついカチンときて田川氏をアンチ
> テーゼに持ち出して、この前のような文章を書いたのです。

要は「何でもかんでも易しく解説すれば良いと錯覚しているのはバカだ」というのが言いたかったことである。(もちろん瀬戸内の翻訳自体はこの中に入っていないが、上記の米長発言が深く考えずしてなされたものであれば該当する。石原都知事から要請を受けて教育委員会のメンバーに加わって以降、彼の言動には首を傾げることが少なくないのだが、既にこの頃から放言癖の芽が出かかっていたのだろうか?)

2005年4月追記
 別ページでも引いている高見沢潤子著「兄小林秀雄との対話 ─ 人生について」中の第3章「読書について」の冒頭では、彼女が「こんど読書会で兄さんの本をとりあげることになったが、みんなが難しすぎて一度読んだぐらいじゃさっぱりわからないと不平を言っている。もう少しやさしく書いてはもらえないか」と頼んだというエピソードが紹介されている。小林は「書けないね」とキッパリはねつけた後、その理由をこのように語ったということだ。

 やさしくしようとすれば、ちがったことを書いてしまうんだ。
 苦心に苦心して、くふうをこらして、選んだことばは一つしか
 ないのだ。できないことだなあ。それをやさしくすることは、
 かえって読者を軽蔑することになる。

(ちなみに、この本の「まえがき」にも同様の言葉が載っている。「むずかしいことがらを、やさしくするのは、それこそ、いちばんむずかしいことなんだぜ。むずかしいというより、不可能といったほうがいい。いいなおせないんだ。もとの意味とちがってくるからな。それより、むずかしいと思ったら、もっと読むことだ。おれのものを全部、じっくり読みなおすんだな。」)

その後にデカルトの「わたしの本は、少なくとも四度は読め」を引きながら、わからなくとも辛抱強く繰り返し読むことの大切さをとうとうと説いていたが、秀雄が本当に言いたかったのは以下のことのようである。

 一流といえる作品は、作者の生命の刻印といってもいいものだからね。
 作者は、読者の忍耐ある協力を切望しているんだ。
 作者に対して、作品に対して、愛情をもっている人なら、かならず、
 忍耐をもって読むだろう。わたしは名作にはいつもそうしている。

上を読んだ後では、「難しいものをわかりやすく書き直す」ことが作者および作品に対する読者の愛着をかすめ取る行為に等しいのではないかと私には思えてならない。

2005年4月追記2
 ついでにクラシック音楽そのもののわかりやすさ or むつかしさについても2通りの見解を示しておくことにした。まずは許光俊。彼のページでも取り上げたように、芸術の中には「感情移入型の美しさ」と「抽象的な美しさ」という二種類の美が存在するというのが「クラシックを聴け!」での許の持論であり、このうち後者に関しては「ズバリ、<抽象的な美しさ>は宗教と関係する」「<抽象的な美しさ>とは、言い換えれば人間を超えた何かを感じることではないか」とも述べられていた。結局のところ、「クラシック音楽では、この<抽象的な美しさ>がかなりの割合で追求されているということが肝要」ということである。このような説明を頭に入れて読めば、以下の主張にはかなりの説得力が感じられる。

 ニーチェやマルクスによって神が追放された後では、
 神を信じることの代わりに芸術や科学こそが真理を
 解明する第一の手段となり、勢い芸術音楽は複雑になり、
 簡単な踊りや歌を超えた何かを追い求めるようになってくる。
 だから、実は『クラシックは難しい』とか『すぐにわからない』
 とか『疲れる』という感想はあまりに当然で、かえって、
 『いや、簡単に楽しめるよ!』という言いぐさは、
 極めて無責任なのだ。」

これに対して砂川しげひさは「なんたってクラシック」に「ネクラシックの責任はドコにあるか」という文章を載せている。なんでも「日本指折りの音楽啓蒙出版社」(←「友社」のことか?)発行の音楽雑誌に寄せられた投書(27歳の青年がブルックナーとマーラーの音楽について語ったもの)がお気に召さなかったらしく、「クラシックをこんなに難しくネクラにきいている読者を相手にして、本づくりをしているのかと、出版社に憤慨しているのだ」と書いていた。(その一方で、別の出版社のFM誌に掲載されていたという18歳の女子学生の無邪気な、私に言わせればアホ丸出しのような文章を「なんとほほえましく生き生きとしていることか」と手放しで褒めていた。)しかしながら、ブルックナーにせよマーラーにせよ、彼らの交響曲は神がまさに抹殺されようかという時代(ちなみに「ツァラトゥストラかく語りき」は1883〜85年→もちろんR・シュトラウスのハデハデ音楽ではなくて原作の方)の作品だから、それらを語ろうとする場合にも難解になって然るべきではないか。結局のところ、砂川はいつものごとく勢いだけで喚き散らしているだけであるから説得力はまるでなく(許の主張とは比べるまでもない)、ムキになって反論しても仕方がない。が、難解な芸術を愉しむような人間なら少なくとも根っこのところは暗くないはずがないとは言わせてもらう。いや、どんな人間であれ、根っこの根っこには本人の意志とはかかわりなくドロドロしたものを抱え込んでいると私は考えている。そこにはほんの一瞬だけ薄明かりが差し込む。人生はそれぐらいでちょうどよいのではないだろうか? (思い出したが、これは亀井勝一郎著「青春論」のヴァリエーションだな。)あのブル7のアダージョのように。

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