「クラシック聴きませんか?」計画倒れの言い訳

>  ところで、前回の「ミレニアム末の暴走」を発信した後に、ふと「クラシックを聴け!」
> のウェブサイト版を作ってみようかな、という気になりました。もちろん、もっとソフト
> な語り口にしますが・・・・・(セミ・クラシック=小品のみで満足している人、BGMや
> ムード音楽としてクラシックを位置づけている人は対象外とします。)
>  大まかな骨子ですが、まずクライバー&VPOによるベートーヴェン交響曲第5&7番の
> CDを聴いてもらう。気に入ればそれで良し。気に入らなければ少し寄り道(サイト内の
> ある部分を読んでもらう)をしてもらった後で他の曲を聴いてもらう。しばらく時間をお
> いてからクライバー盤を再び聴いてもらう。それでも気に入らなければ・・・・という具
> 合に、好きになるまで説得するというスタイルを考えています。
            (Kさんへの私信、2000年2月14日付)

 上記のようにアイデアだけはずっと前から暖めてきた。ベートーヴェンの5番や7番は作曲当時の聴衆にとっては斬新で衝撃的な音楽だった訳だから、保守的な人達より新しもの好きの人達、どちらかといえば若い世代に最初は受け入れられたのではないか? 20世紀の若者がロックン・ロールに飛びついたのと同じく。(中でも過激なリズムがウリの第7はもはや19世紀のロックと言ってもいいくらいである。)ならば、(重厚なフルトヴェングラーではなく)リズム感のいいクライバー盤ならロックやポップスに親しんでいる人達にも「思ってたより堅苦しくなく、聴いてて楽しい」と好まれるかもしれない。という極めて単純な(ちゅーより安易な)発想から出発している。「寄り道」というのはその人の趣味に応じて「ラプソディ・イン・ブルー」、「惑星」、ラフマニノフやラヴェルのピアノ協奏曲などを勧めるというものである。
 しかし、そこから先の発展性はあまりなさそうだと思い始めてみれば、誰が覗くとも知れないページをわざわざ作る意義に疑問を感じるようになってしまった。それに許の名著が既に存在しているわけだし・・・・とは言いつつも、私は「クラシックを聴け!」は入門書ではなく、中級者向け、つまりクラシックの名曲を一通り聴いた上で、さらにディープな世界に足を踏み入れるための足がかりとなる本だと思っている。
( 以下はKさんへの私信の続き。)

>  ところで、許氏は<正しい演奏>から入るべきだと自著で主張していましたが、僕はそ
> の方法が最良であることは認めつつも、全ての人間に適用可能とは思えないため、敢えて
> <間違った演奏>から入ってもらおうかと考えています。ヴァントのブルックナーは確か
> に極め付きの<正しい演奏>ですが、その素晴らしさが解るのは他の指揮者による凡百の
> <間違った演奏>を聴いてきたからだと思うのです。あのような均整の取れた演奏をビギ
> ナーの段階で聴かされたとしても、地味で突出したところがないために「何だかよく解ら
> ない」で終わってしまう可能性の方が高いと思います。クラシック愛好家の多くは、派手
> 派手な演奏を聴くことによって、「よく解らない、けれども何か凄いものがある」という
> <間違った>感動から入ってきていると想像します。それで入り口に<間違った>演奏家
> を置いた方がむしろ入りやすいのではないかと考え、ゴージャス演奏一筋のカラヤンや、
> 暴走気味熱血演奏のバーンスタインなどを薦めるつもりです。

 ダラダラと書いていて本当にどうしようもないが、要は<正しい演奏>を「正しい」と思えるようになるには、やはりそれなりの年月を必要とするということに集約されるかもしれない。骨董における鑑識眼のようなものだ。これも小林秀雄で読んだはずだが、骨董屋の修行はひたすら本物を見続けるということらしい。確か「小僧さんはそのうちに本物と贋物を自然と見分けられるようになる」などと書いていたっけ? けれども、クラシック音楽の場合には贋物をつかまされたところで別に大損をするわけでもないから、<間違った>感動を入り口にするのも決して悪くないと思う。その方が手っ取り早いというだけでなく、以下のメリットも期待できるだろうから。

>  <正しい演奏>について考えるのは10年経ってからでも遅くないと思います。そうなれ
> ば僕のように入る時に一回、<正しい演奏>に目覚めてもう一回というように、「一粒で
> 二度美味しい」経験もできるでしょうから・・・・・

 ちなみに私は、クラシック(に限らないが)を聴き始めるきっかけになり得るのは、どんなに些細なものであっても「運命的なもの」「一方的に与えられるもの」であり、 入門用の書物やウェブサイトなどは屁にもならないと内心では思っている。上手くは言えないが、「それらに触媒作用はあるとしても、反応する物質そのものに当たる『きっかけ』は内的なものに限られる」ということかもしれない。そういえば、砂川しげひさはDNAプログラミング説というか、クラシックを聴く人間の遺伝的素養ということをどこかで、たぶん「クラシックだドン!」(行方不明)で書いていた。その是非について今は論じないが、なかなかに興味深い考え方だと思っている。


2005年4月追記
 上の小林秀雄からの引用はちょっといい加減だったことが判明したので、ここに訂正したい。確かに小林は「骨董の本物偽物を見抜くには両者を比べるのではなく、ただ本物だけを見続けるのがよい」などと主張していたが、小僧の修業について「真贋」というエッセイに書かれていたのは「小僧さんは厳格に仕込まれるから、馬鹿でない限り、年季次第で、ニセ物はよく見るようになるが、ホン物をよく見るようになるとは限らない。」であった。また、「誤解されっぱなしの『美』」と題された江藤淳との対談では「だいたい本物、にせ物の見分けより、本物同士の間に上下をつける方が、むずかしくおもしろいことなのだ」とも述べていた。(ちなみに、小林と親交の深かった白洲正子もこんなことを書いていたそうだ。「ふつう世間の人々は、贋物・真物を見分ける人を『目利き』という。それに違いはないのだが、私にいわせればそれは鑑定家で、経験さえ積めば、真贋の判定はさして難しいことではない。駆出しの学者でも、骨董屋の小僧さんでも、そのぐらいの眼は持合せている。むつかしいのは、真物の中の真物を見出すことで、それを『目利き』と呼ぶと私は思っている。」)
 余談ついでだが、本物に触れるというのだったらこんな話もある。

2005年4月追記2
 新潮社の季刊誌「考える人」2005年春号に掲載されていた吉成真由美の連載エッセイ「やわらかな脳」最終回でもこの問題が論じられていた。様々な例を挙げた後で「ことほどさように、音楽のもつ力にはただならぬものがある筈なのだが、音楽を聴いて涙を流す程感動する人がいる一方で、ほとんど何も感じない人もいる」という問題が提出されるのだが、筆者は後天的(環境)と先天的(遺伝)の両面からその理由について考察していた。

・これはある程度まで育ってくる環境の影響であり、子供の頃に
 どういう音楽的刺激が記憶の中に刻みつけられたかによる。
・一方で音楽に対する感性は「生まれつき」という部分も大いにある。
 「子供の頃は戦争中で、音楽など聴く余裕もなかったけれど、音楽
 には心から揺り動かされる」という場合も十分にあり得るからだ。

もちろん私の生まれ育った時代は戦時中ではないけれども、「私のクラシック遍歴」を読まれた方には、少なくとも私が幼少時の音楽的刺激によってクラヲタ、そしてブルヲタになったのではないことは明らかであろう。もう一方の遺伝的要因についても、父母はもちろん祖父母の代にも音楽を偏愛したような人物は全く見当たらないので、どうやら隔世遺伝でもなさそうだ。(父の従兄弟には音楽好きが一人いるが、ジャンルが全く違う。余談だが、私の勤務地のはずれに住んでいる彼は、「怪しげな建造物を次々と立てている人物」として付近住民のみならず一部ネット上でも有名人らしい。)となれば突然変異か?
 ちなみに、吉成がその後に記していたことの方が私には印象に残ったので一部抜粋しておきたい。

  ついでに言ってしまうと、クラシック音楽の本当の良さがしみじみとわかるよ
 うになるには、少くとも四十代まで待つ必要があるのではないか。(中略)クラ
 シック音楽のディテールの深さを鑑みるに、これは圧倒的に大人の楽しみである。
  人間の脳は十代の終わりでほぼ完成して後は下り坂、というのでは全くなく、
 一生変化し続け、新たなコネクションもできるらしい事がわかってきている。一
 生の間、どう脳を使ったかによって、学校教育による差異の比ではない程の大き
 な違いが生じてくる訳だ。クラシック音楽を十分に味わう為には、脳の成熟を待
 つ必要がある。

よしよし、自分はまだまだこれからだな。吉成といえば、随分前のことであるがKさんへのメールにも登場してもらっていたのを思い出した。こちらも非常に興味深い内容だったので再掲することにした。

>  これに関係する話が、新潮社のPR誌「波」で吉成真由美著「やわらかな脳のつくり方」
> の書評にもありました。
>  執筆者の瀬名秀明氏によれば、吉成さんは「理科系人間」「文化系人間」という一般的
> な分類に対して、「技術系人間」「芸術系人間」という少し違った見方をされています。
> 予定調和の世界にうまく収まるのが技術系人間で、高IQだが想像力と創造力が欠如して
> いる。その対極にあるのが芸術系人間ということだそうです。クラシック音楽の修得には
> 技術系人間が向いているので子供に習わせようとする親が多いが、その子供達はいざ自分
> の内面を表現する段階になると躓いてしまう。非常に興味深いお話でしたが、コンクール
> 全盛時代の現代では「芸術系人間」はプロの演奏家になるのが難しく、愛好する側に回る
> しかないのかと考えると、由々しき問題をはらんでいるように感じます。
                   (中略)
>  森毅氏(数学者)と安野光雅氏(画家)の対談集「数学大明神」に出ていたエピソード
> で、延々と続いてきた話を締めくくろうと思います。安野氏によると、中山千夏さんは鶴
> 亀算を習った時に「鶴と亀の顔がウロウロして数がわかんなくなった」そうですが、森氏
> がこれに近いものとして馬場あき子さん(歌人)の言い方が実に良かったと答えるのです。
>  「数の観念が身につかず若い叔母がつききりで算術を教えた。あるとき、『垣根の中に
> 鶏が十三羽いました。三羽逃げたら残りは何羽ですか』という問題に、『たぶん二三羽残
> る』と答えて物指でぶたれたが、私の脳裏には、その時見ていた明るい庭と、十三羽とい
> う語感がかもす群鶏のかがやき、次々と垣根を越えてゆく鶏の幻はいまもくきやかに真実
> で、たぶんあとに残るのは二三羽であるはずなのだ。こんなことから数学をきらい詩歌に
> 親しむようになる。」
>  こういう人を極めつけの「芸術系人間」と呼ぶべきなのでしょう。(1999/12/24)

吉成とは無関係だが(中略)以降も載せてしまうことにした。なお、最初の行にある「これ」について補足しておくと、許光俊著「クラシックを聴け!」中の「世界のオーケストラ、どれを聴けばいいのか?」における日本のオーケストラに対する辛辣な評価を指している。許によると「日本のオーケストラは平気で死んだ音を奏でている」とのことで、その背景には「日本の音楽家の中には、クラシック音楽が好きではなかったり、さして興味を持たない人がたくさんいるという事実がある」そうだ。それに続いて(私にとっては毎度のことだが、まるで脱線&暴走したかのごとく)彼が相当に熱くなって書いたと思われる一節もこの際ついでに貼り付けておく。当時の許が敵を作ることも意に介せず執筆活動を行っていたことを示す一例である。

> 「オーケストラが、曲のちょっとした部分を、実に無表情に、どうでもよいような無関心
> さで奏でる瞬間を私は何回耳にしてハラワタが煮えくり返ったことか。演奏家が自分の演
> 奏する曲を好きでも愛してでもなくて、どうして素晴らしい音楽が達成されようか。
>  幼児からの英才教育がいけないのだ。なるほど、体が柔らかい子供の時からヴァイオリ
> ンを習っていれば、とりあえず上達することはするかもしれない。そんな人が高校生にで
> もなり、そこそこ弾ける腕前なら、『受験勉強はかったるいから、このまま音大にでも行
> くか』と考えても無理はない。まして、その子供の親が音楽家なら、安易に親と同じ職業
> を選ぶことになろう。その結果、日本中の音大からは、無自覚で熱意のない卒業生を山ほ
> ど輩出することになる。(中略)この本の読者が子供に楽器を習わせているなら、よほど
> スーパーな才能でも示さない限り、音大なんぞには行かせないでほしい。貧乏してでも苦
> 労してでも音楽をやりたいという熱意のある者だけが、芸術という、本来は一般社会から
> 隔絶しているはずの領域、呪われた領域で仕事をするべきなのである。」

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