(最初にことわっておくが、ハッキリ言って大したことは書いてない。)
 某掲示板のブルックナー関連スレッドにて、「2番の良さが理解できないようでは、とてもブルックナーファンとはいえない」のように「自分は初期交響曲までも愛好しているんだ」とアピールする(と同時にそうでない人間との差別化を狙う)ような書き込みは過去に何度もなされている。(まあ1番でも構わないと思うが、いくら何でも00番や0番としたら煽りと受け取られても仕方がないだろう。)「真のブルックナー好きにとっては6番こそが最高傑作」といった意見を目にしたこともやはり数回ある。そうなると自分は完全に失格だし、「4番を傑作と考えている痛い香具師」として「ド素人」認定されてしまうかもしれない。(5番や9番はさすがにないが、7番や8番も一部の楽章を不出来として駄作呼ばわりするような場所だから大いにあり得る。)ということで、「『本当のブルックナーファン』あるいは『真のブルックナーファン』っていったい何だろう?」と自分なりに考えてみた。

 許光俊が「世界最高のクラシック」の「最初に」にこんなことを述べていた。大学院時代にある先生が「本当の酒好きは、うまくてもまずくても、酒があれば飲んでしまう人間だ」と言っていたが、そうだとすれば自分は該当しないかもしれないとのことである。かくいう私も「酒なら何でも」という人間からは遠いような気がする註1)。(←長文脱線が必至なので今回は別頁に註を作成することにした。ところが、結局そちらでも手当たり次第に二次脱線してしまったため脚注を設けることになった。)けれども、許や私が「フン、そんな不味い酒を有り難がっているような人間が『本当の酒好き』とはお笑い種だな」と山岡士郎のような口を利こうものなら、それこそ泥仕合になることは目に見えている。現にそうなってしまった例を知っている。
 私は90年代からホークスのファンだったが、ある日ウェブサイト「ホークスタウン」に設けられていた公式掲示板「ファンズオピニオン」(通称「ファンオピ」)を閲覧し、その雰囲気の悪さに驚いたことがある註2)。ダイエーホークスといえば、王監督が着任してしばらくは不甲斐ない成績だったし、選手による脱税行為やスパイ(外野席からのサイン盗み)疑惑など不祥事にも事欠かなかった。その度に「どんなことがあっても最後まで信じるのが本当のファン」vs「悪いことは悪いときちんと非難するのが(以下略)」という「真正ファン論争」が沸き起こった。ある内野手の起用に関するやり取りは特に印象に残っている。守備はまあまあだったが打撃はあまりにも非力ゆえ、既に「なんで奴を使い続けるのか、贔屓もいい加減にしろ!」と融通の利かない監督にまで批判は及んでいたが、優勝を争っている大事な時期にその選手の失策によってゲームを落としたのだから翌日はただでは済まない。「こういう時こそ暖かい声援を送るのが(以下略)」という擁護派と「甘やかすのはチームの為にならない」という批判派の対立は留まることを知らず、ついには「あなたたちはホークスを心の底から愛していない」、「お前達は子供が傍若無人に振る舞っても叱らない親と一緒だ」のように選手起用はそっちのけで凄まじい非難合戦を延々と繰り広げていた。これを眺めていた私は、今後もこの種の泥沼論争には絶対加わるまいと思った。見事なまでの平行線を描いていたから。今思うに、これは「素朴」か「邪悪」かというものの見方の違いに過ぎない。つまり、どっちが正しいという問題ではないから、結論が出ないのはもちろん、妥協点すら見い出せないのがむしろ当然である。
 で、結局何を言いたいかといえば、誰かが「ホークスファン」と名乗ればその時点で立派な「ホークスファン」であるということである。九州地区以外に住んでいるため某金満糾弾のゲームを観る機会の方が多いとしても。本来ファンに「真性」「仮性」などという区別はない。「真の」「本当の」を付けたかったら勝手にそうすれば良い。が、そんなものに何の意味も価値もない。ただし、心の中でホークスが負けることを願っているにもかかわらず「ホークスファン」を名乗るというのはダメである。それは周囲にだけでなく自分にもウソを吐いているということに他ならないから。
 ということで、「ブルックナーファン」にしても同じである。3番や5番を全然良いと思っていないらしい某M氏にもその資格はある。(もっとも彼は「ブルックナーよりもマーラーが好き」と公言しているのであるが・・・・それでいてマーラーではなくブルックナー関係サイトに出入りしていたのだから全く訳わからん。)要は「名乗ったモン勝ち」ということだ。
 最後に「たとえ世界がどんなに暗く悲惨なものであっても、ブルックナーの音楽がある限り、私にとってこの世は生きるに足りると思っている」という私のファンとしての信仰告白(?)を述べて終わりにしたい。・・・・・などと格好いいことを書いたけれども、実はコレ、ある作曲家の没後200年(1991年)記念大全集の広告に載っていた推薦文(誰だったか?)のパクリである(作曲家名を変えただけ)。ついでながら今年は生誕250年らしいが、やはり大いに盛り上がるのだろうか?

2006年1月9日追記
 「はじめに」ページでも採り上げた「ブラインドテストでわかるブル度」(某掲示板「ブルックナー総合スレッド第3楽章」への投稿)から考えたところをこちらにも述べておく。上の信仰告白に続く決意表明である。
 CDの所有枚数(500枚以上が「ブルマニア」)を基準とすることに対し、「1回聴いてそれっきりという収集家でも自動的に高評価を得てしまう」という理由で「全く意味が無い」という反対意見が出た。「ペーパードライバーがゴールド免許証を持っているような矛盾」という形容は言い得て妙である。ところが、その直後にこんな書き込みがあった。

 趣味のレベルなのに尋常でない知識を持ってる、
 楽譜やCDを収集することが手段ではなく目的化している、
 そこに至るまでに費やした時間と財産と手間は膨大だが、
 そうして得たものは世のために役立つことはなく、
 自己満足のためだけに存在する。
 ヲタというものは、
 そういう痛々しい方向にどれだけ転んでいるのかどうかで評価したい。

これには思わず膝を打った。私の知識は「尋常でない」どころか怪しいし、楽譜となるとサッパリだが、2〜5行目は概ね当てはまっていると思う。ディスク蒐集は途中から慣性(惰性)で動いてきた感もあるが、評ページ作成に費やしてきた時間(間もなく開始以来2年になる)とエネルギーは自分で振り返ってみても相当なものである。よって、「ペーパードライバー」云々に対抗するべく提出された「これこそヲタの真骨頂。ヲタたる所以。」という見解を断固支持したい。(ついでながら、人前に出ても恥ずかしくないだけの知識をお持ちの方は堂々と「ブルックナー博士」でも名乗ればいいと思うのだ。)ただし、それに胡座をかくことなく「1分間ディスクを聴いたら誰のどの演奏か判別できる」ぐらいの域に達するべく精進したいと思っている。(10秒間にまで縮められたら「TVチャンピオン」で優勝できるかもしれない。そんな日来る訳ねーか。)「はじめに」には「頂上に登り詰めるためのルートは複数あって然るべき」と書いたが、音楽の専門知識なしで頂点を目指そうという訳である。そういえば仏教聖典には、自分の名前を忘れてしまうほど記憶力の悪い男でも箒で掃除をしながら釈尊に教わった「塵を払い、垢を除かん」という言葉を何十年も唱え続ける内に悟りを開き、とうとう阿羅漢(釈迦の弟子の最高位である聖者の位)にまで到達したという話が出ている。例によってダラダラ話になってしまったが、結局のところ私は穴を(最大到達深度でも総容積でも構わないが)どれだけ掘ったかが全てであると考えているのである。それが他人の目には見当違いの方向と映ろうとも関係ない。そして、「ファン」「マニア」「ヲタ」のような呼称やランク付けなど、この際どうでもいい。

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