交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団
06/04/04〜07
EXTON OVCL-00248

 既に他所で書いているはずだが、このスカンディナヴィア半島にある国が訛ったような名前の指揮者(最初は誤植だと本気で思っていた)のブルックナーCDがことごとく絶賛されていたので、これは聴かねばならぬとは以前から思っていた。ただしEXTONの時代錯誤的新譜価格に納得がいかず、価格崩壊(廉価再発)ないしは安価中古の出品を待っていたのはいつものことである。アマゾンのマーケットプレイスで2度ほど2000円以下の出品を見かけたが、いずれも私の設定した購入希望限度額を上回っていたので見送り。そうこうしているうちに発売後1年が経ってしまったが、それならそれでも構わんという気持ちだった。あるディスク評サイトに宇野功芳によるライナーが「賛辞の洪水」になっているとあるのを見て、「こりゃ少々胡散臭いぞ」と思ったこともある。
 が、一般人による評もまさに「賞讃の嵐」と呼ぶに相応しいものであった。それらに共通していたのは「弦楽への執着」であると私は理解した。指揮者はヴァイオリニスト出身ゆえにパートバランスに細心の注意を払い、そのお陰で響きは明晰そのもの、そして弦楽合奏はとりわけ美しく鳴っているということだろう。それを実現するための必要条件として合奏の精度(註)が挙げられるのはもちろんだが。(註:くどいようだが、指揮者の統率力と各楽員の技量がさらにその前提となる。一方、先のサイトに出ていた宇野の「洪水」は正直どうでも良いものばかりだ。中でも「スケールの大きい宇宙の鳴動」「心の表出そのもの」など、「ブルックナーの本質」とは何ら関係がない。)そして、もう一つが「録音の良さ」である。許光俊によるHMV通販の連載「言いたい放題」が私にトドメを刺した。  その第123回「究極の録音」(2007年9月29日)にて、許は嶋護の編著による「菅野レコーディングバイブル」を採り上げた。菅野沖彦(録音エンジニア&オーディオ評論家)による一連の録音についてのデータ・ブックである。その書評では他を絶する菅野録音のクオリティの高さについて「これでもか」とばかり徹底的に書き連ねてある。実はそれ以前から他ならぬ当盤が菅野より高く評価されているとの記述(註)を目にしていたから、とうとうジッとしていられなくなった。(註:「犬」の販売ページにて「最高!」の評価を与えたあるユーザーが「SS誌における菅野沖彦氏の尋常ならざる絶賛に興味を覚え試聴」と書いている。なお「SS誌」とは季刊ステレオサウンド Stereo Sound のことである。)要は私のイラチな性格に尽きるのだが、我慢が限界に達したため生協から新品(15%引きで2550円)を買うことになった。もっとも、それなりの装置(SACDプレーヤ含む)で再生しなければ宝の持ち腐れ(折角の超高音質を十二分には堪能できない)かもしれないが。
 さて、上述の通り解説を寄せたのは功芳センセイであるが、2段組ブックレットの1段半程度(計30行)しかなく、いかにも手抜きっぽい。(続く曲目解説は「入門用としては難解」のように既に見飽きた表現の使い回しに走っているため、さらなる怠慢プレーと言いたくもなるが、何せ高齢だから仕方ないだろう。)それはともかく、当盤第1楽章冒頭の弦のトレモロは相当な弱音ゆえ、本来なら「音楽をスポイルしているのはけしからんといえよう」と糾弾して然るべきである。が、それを聴かなかったことにしているのは、いかにもバイリンガル、いやバイタングの先生らしいといえよう。(念のため記しておくと、英語の "tongue" は西語の "lengua" や葡語 "lingüeta" 等と同じ意味である。が、もちろん "bitongue" のような英単語は存在しない。正しくは "double-tongued" あるいは "forked tongue" と言うらしい。)それもさておき、ここで執筆者は最初の段落で例外的に正しいことを述べている。「今までのブルックナー演奏のどれとも違うスタイルのような気がする」である。
 当盤のトータルタイムは71分36秒。つまり、ゆったりテンポを採用している。この手の演奏の場合、大抵はノッペリしたところ(酷いのになると緩んだところ)が聞かれるものである。ところが当盤にはそれが一切なかった。凄いことである。理由を的確に記すのは手に余ると思ったので、ここはありふれた言い回しで逃げておくと、やはり徹底した響きの整理に尽きるということになるのだろう。
 第1楽章の主題提示部や再現部、あるいは終楽章冒頭の爆発などで普段は一番耳に付くブラスが引っ込んでいる。とはいえ、ちゃんと鳴っているところでは馬力十分と聞こえるから、決して非力ということはない。もちろんラインスドルフ盤のようにマイクを立てる位置が悪かった or 反旗を翻した一部の奏者が来なかった(たぶん前者)という訳では全くない。要するに、ここぞという時には自分が長いこと扱ってきた楽器が(あくまで正当な権利として)脚光を浴びるよう配慮したということであろう。この指揮者の「こだわり」(註)のお陰で、これまで耳にしたことのないほどの美しい響きを何度も耳にすることができた。大々満足である。(註:本当は「拘泥」の意味しか持たないようなのだが、私はいつ頃からか肯定的にしか使っていないように思う。)
 17分台の第2楽章からすると10分台の第3楽章はやや速めといえる。(ただし、これは私がトータル70分超のスロー演奏を全く苦にしないから、つまり私見である。これに対し、宇野は第3楽章のみ「快適」としている。)並の演奏ではアダージョがシミジミ型だとスケルツォがパワー不足に(反対に後者が躍動感に溢れていると前者が情緒不足に)陥りがちになる。ところが、当盤では双方で名演を成し遂げているのが偉い。
 そして最も感銘を受けたのが23分を要するフィナーレ。相当に遅いけれど決して平板と感じさせるようなことはない。とにかく中身が充実しまくっている。素晴らしい! それにしても弦の小刻みな音がこれほどまで明瞭に聞こえるディスクは初めてだ。と思ったが、正確にはヴァント&NDRのベト4以来かもしれない。もしかすると彼と同類の偏執型指揮者が容赦なしに弾かせているのかもしれない。そういえば、私が初めて買ったハイティンク&VPO盤の解説(やはり先生が担当)に「第2ヴァイオリンは刻みばかりで」などとあったが、奏者が腱鞘炎に罹らずに済んだだろうかと私はいらん心配をしてしまった。実は職場の水田一筆(註)で何年も前から除草剤を一切用いない有機農法による稲作の実証試験を行っているのだが、今年は多忙のため手取り除草に入る時期が遅れてしまい、例年より成長の進んだ雑草を苦労して抜く羽目に陥ったのである。(註:水田の単位には「筆」を用いるのが正しい。この場合、「いっぴつ」と読む。)そのせいで翌朝は右手首が痛くて力も全く入らない。箸もペンも持てぬ有様。無事な左手で患部を押さえてみたところ、ネットに出ていた通りの「雪を握ったようなギシギシ音」が聞こえたのにはビックリした。
 閑話休題。このような高密度演奏にもかかわらず、息苦しさを覚えることがないのはさらに素晴らしい。今度は数ヶ月前に買ったラトル&BPO盤を引き合いに出してみる。そちらのレビューでは、終楽章について思い切った間伐を施した植林地に喩えてみた。これに対して、当盤を聴いて目に浮かんだのは最終的な適正密度(数十年後、商業用材として切り出す時に存在しているはずの個体数)の苗木しか植えず、それらの1本1本に惜しみなく手間暇を掛けるといったスタイルの林業である。それだと林冠が地表を覆うまでの管理(除草など)が大変だし、生育途中で枯れてしまった場合には補植しなければならないから現実にはまずあり得ない。その意味で、これは極めて「人工的」な演奏といえる。(なお、私はこの語を否定的ニュアンスで用いることはないし、既にどこかで述べているとは思うが、それで片付けようとする評論家に対しては批判的である。)かなりこじつけっぽいが、そのお陰で当盤の見通し(聴き通し)の良さには比類がない(「強間伐盤」をも上回っている)と思う。その実現には演奏者のみならず丸4日を費やしたスタジオでのレコーディングも寄与するところ大(ライヴの継ぎ接ぎでは無理)というべきだろう。
 ということで、各種サイトに載っていた一般人によるレビューの絶賛にも納得の超高水準演奏である。(ただし、「塔」などに出ている「ズヴェーデンは全ての音符に確かな「意味」を与え、そこには壮麗で、光が無限に放たれるような、眩いばかりのブルックナー像が聳え立ちます」とのコメントはあまりに抽象的すぎて同意も否定もできない。)とはいえ、私はこの曲には「ゴリゴリ感」がある程度欲しいと思っているので、現在トップの座にあるヴァント&BPO盤を脅かすようなことはない。(後にリリースされた2枚のうち、特に7番は新王座の有力候補かもしれないが、激安品でも見つけない限り入手を試みることはたぶんない。)
 最後に録音についても少し言及しておくと、自宅のAWM(坊主)では極めて上品な響きが聞こえてきたので思わず感激してしまった。ただし同社製のCompanion3やWave Music Systemではやや散漫という印象。またカーステでは特に他盤との優位性は感じられなかった。何にしても、当盤購入を機に高級なシステム(SACDプレーヤ含む)を購入しようと思い立つようなことは絶対ない。

4番のページ   指揮者別ページ