交響曲第8番ハ短調
ギュンター・ヴァント指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
00/09/13〜16
Profil PH 06008

 思えばブルックナーのディスク評執筆はヴァントから始まった。最初に手を付けたのは3番NDR盤ページのはずで、ファイルの作成年月日を見ると2004年4月7日とある。あれから2年以上が経過した訳だが、ようやくにして一区切りを迎えることができる。その締め括りがヴァントというだけでも感慨ひとしおなのだが、さらに首を長くしていたMPOとの正規盤について書くというのだから、まさに感無量である。
 が、ここでいきなり脱線である。(この悪癖は最後まで抜けなかった。)4月20日のこと、某掲示板のブル8とブル9のスレッド(さらに宇野関係もだったらしいが未確認)にコテハン氏が現れ、暫くの間居座ったのである。PA(ピュア・オーディオ)板から流れてきたらしき彼による実にユニークな数々の投稿には大いに愉しませてもらった。「もう来ません」宣言を何度か繰り返した後、5月中旬以降姿を見せなくなってしまった。6月も中旬に入ってから再登場しているが、果たしてそれが本人であるかは確認できていない。(以前から偽者もチョクチョク現れていたようだし・・・・)
 さて、彼によると8番はクナ&BPO(51年盤)とシューリヒト(EMI正規盤?)、9番はシューリヒト&VPO(同じく?)と朝比奈&東響(「PCCL-00268」とあったから91年盤)さえあればあとはいらないということである。まるで宇野功芳の分身のような台詞であるが、「そもそも9番は8番のようにそう度々聴ける音楽じゃない。8番はブルックナーを心から堪能できるが9番はそう気軽に聴ける音楽じゃない。」もコーホー先生の口移しである。(ついでながら3番はクナ (たぶんVPOスタジオ) 、7番はマタチッチ (たぶんチェコ・フィル) だけあれば良いとのことである。さらに8番は宇野盤も悪くないと語っていた。もはや絶句するよりない。)
 それにしてもクナ、シューリヒト、朝比奈といえば許光俊が「頭を使わない指揮者」として挙げた御三家ではないか。また、モノラルのクナ51年盤はもちろんのこと、シューリヒトの89番もステレオ録音としては貧相な部類に属する。PAの住人がそれらを愛聴しているというのは理解できない。とはいえ、「僕は天才の演奏しか興味ない」と豪語する彼は、それらのディスクを1000万の装置で再生しているという話だから、私ごときには想像も付かない音で「ブルックナーが鳴っている」のかもしれない。何にしても彼には「他はいらない」とまで豪語した演奏のどこがどのように凄いのかについて具体的に述べてもらいたいところだ。もちろん愛読してきたという宇野の決まり文句である「精神性」等で誤魔化すことなしに。それをしなかったら、このR氏も「クラヲタの星」として一世を風靡していたアホのM氏と同じ穴の狢である。
 ここでようやくヴァントに話を持って行く。宇野がヴァントのブルックナーを認めていると聞かされた彼は「コーホーも焼回ったか?」と決め付けるに留まらず、ヴァントのブルックナーを「かつてのコーホー以下」とバッサリ。(ちなみにハイティンクも同類らしく、その演奏をブルックナーだと思っている人間には本質を掴む直感がないんだそうだ。さすがにこれにはカチンときて反論しようかと思ったが、誰かが代わって次のような投稿を書き込んでくれたから気分が収まった。「宇野にしてもこの糞コテにしても、やたらと『本質』とか言ってる奴って、自分がどれだけ傲慢なこと言ってるのか考えたことあるのかな。なにしろ、『自分は、何十年もブルックナーの楽譜を研究し指揮し続けてきた指揮者よりもブルックナーの音楽を理解できてる』っていうんだろ。」)それは別にどうでも良い。私が注目したのは次の発言である。

 いまヴァント+NDR(VBCC-8889)を聴いてる。
 これは音響であってブルックナーではない。

これでよく解った。ヴァントは常々からキリスト教信仰も含め、ブルックナーにいかなる意味も付与することを頑として拒んできた指揮者である。なので、その演奏が「音響そのもの」であるというのは全く以て正しい感じ方なのである。その少し前の投稿にあった「理屈や楽譜や音符じゃあないんだ」であるが、「理屈(論理)」「楽譜」「音符」こそがヴァントがブルックナーを演奏する上で手がかりにしてきたものである。だから、このコテハン氏が(彼の考えているところの)「本質」からは全く外れていると聞いたのもむしろ当然のことなのだ。ならば、「論理的に構成された音響こそがブルックナーなのだ」(特に9番は絶対そう)と考えている私とは水と油であることは間違いない。要はブルックナーに何を求めているかの違いで片付くような気もするが、あるいは「お逝きなさい!ブルックナーから最も遠い存在。」と一喝されてしまうかもしれない。ここで悪あがきをしたくなった。
 ロッグによる8番オルガン版のディスク評ページでも触れたが、ブルックナーからオルガンなど想像したことがないという彼はむしろ「楽譜なんな(註:原文ママ)より穂高や八ケ岳の峻峰連想する」と書いていたが、私がヴァントのブルックナーを聴いて抱くイメージも山だったりする。それも対称性(上から眺めたら完全な円)や直径/高さ比(黄金比になってる?)など形状に文句の付けようのない。一方、テンポいじりの好きなシューリヒトや朝比奈の演奏は、敢えて喩えるならば鉱物を掘り出したため所々がえぐり取られた山ではないだろうか?(石灰岩の採掘によっていびつな形状になった地元の伊吹山の哀れな姿を思い浮かべながらこれを書いている。)
 ここで彼の決め台詞「一番遠い存在」に対して、私は「近づくためには、いったん離れる必要があるのだ」という浅岡弘和の言葉を献上したい。山の麓あるいは中腹にいる人間には、その偉容は絶対にわからない。たかだか数百メートルの山も8000メートル級巨峰も目には同じように映るばかりであろう。(富士山のような荒涼とした山なら判別できるかもしれないが。)ついでだから助っ人として呼んできた浅岡の名文をもうちょっと使わせてもらおう。

 信仰とは神を視ることなどでは決してない。視たいと渇望する
 事なのである。そして真の信仰とは自分は神の近くに居ると錯
 覚する事(賢者、善人)ではなく、いかに神から遠く離れた存
 在であるかを自覚する事(愚者、悪人)にある。近き者は遠ざ
 かり、遠き者が近づくのである。

もちろんブルックナーは信仰の対象ではないけれども、自分はその近くにいる者だという意識、自分(だけ)はそれを理解しているという奢りは却ってブルックナーから遠ざかる(ブルックナーに拒まれる)原因となりはしないだろうか?
(前置きの終わりに書いておきたいことがある。このコテハン氏に対して批判的なことばかり書いたけれども、後に彼がホームグラウンドの「精神世界とオーディオ」というスレで活躍していたことを知った。私より一回り以上年長で妻子もいるらしい。そちらの方が数倍も面白かったし何となく親近感も覚えた。実際会ってみたら人柄に惹かれるかもしれない。とにかく恐ろしく純粋な人である。)

 ようやくにして本題に入れそうだ。とはいえ、何を書いたら良いのか途方に暮れているというのが実情である。9番MPO盤評は「あまりに凄くあまりに完璧なのだが」で逃げてしまっている(あとは部分的指摘と周辺事項への言及に終始)。ここも多分そうなるだろう。
 筆者が誰かは忘れてしまったが、グルメ番組で食後にあーだこーだ感想を並べている芸能人に対して文句を付けたエッセイを読んだことがある。「本当に美味いものを口にしたなら直ちにスラスラと言葉が出てくるはずがない」というのだ。(もちろんそれでは職場放棄になるから、とりあえず何かコメントしなくてはならない。なので言いがかりのようにも思われる。もっとも最近その点では撮られる側も工夫を凝らしているようだが。)それを読んで連想したのが小林秀雄の「モオツァルト」である。許光俊のページでも触りだけ引いたが、ここでは一節を丸ごと載せておく。

  美は人を沈黙させるとはよく言われることだが、このことを
 徹底して考えている人は意外に少ないものである。優れた芸術
 作品は、必ず言うに言われぬあるものを表現していて、これに
 対しては学問上の言葉も、実生活上の言葉もなすところを知ら
 ず、僕らはやむなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空
 虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を
 抑え難く、しかも、口を開けば嘘になるという意識を眠らせて
 はならぬ。そういう沈黙を作り出すには大手腕を要し、そうい
 う沈黙に耐えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。


 実はここまでは早々と先月(2006年6月)中に仕上がっており、あとは実際に聴いて感想を記すだけだった。ところが、早々と4月中旬に予約注文を入れた品がいつまで経っても入荷しない。その間、発売日が6/10→6/30→7/31と2度も延期され、とうとうオープンキャンパス(7/29&30)までにブルックナーのページ作成を(ひとまず)完了するという目標が達成できなくなってしまった。実に腹立たしい。こんな苛ついた気分のままでヴァントの貴重な演奏記録について述べるというのは失礼というものである。ということで、気が向くまで本ページの作成を延期することとした。
 というのはウソで、先述したように書くことが何も浮かばなかったらどうしようと案じていた私にとって、逃避の口実ができたのは内心ありがたいというものである。やれやれ。

2006年7月追記
 これでお茶を濁すつもりだったが、運悪く(?)その直後に「犬」サイトに「7/15入荷確定!」というニュースが掲載された。(どうやら5番の発売も本決まりとなったらしい。Berky氏のサイトによると続いて469番もリリースされるという話だが、私としては複雑な気持ちである。)程なくして出荷メールが届き、18日に受け取った。しかしながら、いったん萎えてしまった状態から立て直すのは時間がかかる。よって先送りの方針は変えない。今後しばらくは他分野のページ作成に専念することになるが、新鮮な気持ちでブルックナーと向き合うことができるようになったらここに戻ってくるつもりだ。それまでごきげんよう。(なお、ディスク蒐集のペースがこのところ明らかに鈍っており、「ブルックナー目次」ページの昨年9月29日追記分で触れた「今年中の500種類超え」の実現は絶望的な状況である。)

2006年8月追記
 「啐啄同時」(そくたつどうじ)」という言葉がある。雛が卵の内側から殻をコツコツとつつく。その音に呼応した親鳥も外から殻をつつく。そいて両者が同時に一点に打撃を加えたとき時、ようやくにして固い殻が破れる。そんな説明をかなり前に「現代農業」という雑誌で読んだことがある。かくのごとくタイミングというのは重要なのである。
 この喩えが的確なのか自信はないけれども、本当に聴きたかった時期をかなり過ぎてから当盤を入手したというのはやはり痛かった。もちろん凡演ではないが、そのせいで同じくヴァント&MPOによる9番青裏(sardana)よりも感動は一桁小さい。また、微視的にも巨視的にも文句なしの完成度を誇っていた当盤の4ヶ月前のNDR盤(sardana)と比べても印象はかなり劣る。実は収穫は他にあり、そちらの方がありがたかったというのが本音である。
 ヴァントの8番を改めて聴き比べてみたのだが、その結果最も魅了されたのは96年のBPO盤(やはりsardanaの青裏)だった。これまで最上位に置いていた2001年の正規盤はまさに非の打ち所のない立派な演奏だが、何だか公式見解を聴かされているような感じもしないではなかった。ところが、96年盤でのヴァントは(BMGによる録音が行われないことを知っていたのか)まさに緩急自在、特に終楽章では彼らしからぬ即興的解釈を連発している。それが私には非常に面白く、遅まきながら開眼することができた。(ちなみに、以前から某掲示板ではバイエルン放送響との84年「鐘」盤と並んで非常に高い評価を受けている。)ということで、8番ランキングにも久しぶりに手を入れることにした。

2007年4月追記
 当盤を通勤車中で聴き、あることに今更ながら気が付いた。第2楽章と第3楽章のインターバルが短すぎる。逆にディスク交換のため第4楽章開始まで数秒間待たされる。これは痛い。どうせなら併録の「未完成」をDISK1の頭に持って来て、ブル8はアダージョ以降を2枚目に収めるべきではなかったか? また演奏にしてもあまりにも整いすぎているように聞こえることもあって、2種のBPO盤や93年以降のNDR盤よりも印象はハッキリ劣る。そこで順位に再度手を入れることにした。(ただし微細な変更なので更新記録には示さない。)

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