交響曲第8番ハ短調
ギュンター・ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
71/10/03
SCRIBENDUM SC 007

 ヴァントの8番としては唯一1枚に収まっているが、それでもトータルタイムは79分強で他の指揮者と比べたら決して速くはない。ただし彼の後の録音と比べると窮屈な感じは否めない。また、音質もイマイチである。71年録音にしては音の広がり、左右の分離にやや乏しいという印象で、ネット上でも音質に対する不満は述べられていた。(しかしまあ、この録音が比較的安価で入手できるようになったことは素直に喜びたい。LPレコードこそ発売されていたものの、CD化は見送られ、海賊盤CD-Rでしか入手できないという時代が長く続いていたのだから。)ということで、この8番もケルン放送響の全集と同様、よほどのヴァント好きでなければ敢えて聴く必要はないと思う。
 ところで、9番の目次ページにも載っているが、私はかつてこんな文を投稿したことがある。

「カラヤンは録音ごとに違った魅力があるので、異演奏を揃えていたくなる」
「ヴァントはべストが手に入ったらベターは要らなくなる」
「チェリビダッケも明らかにカラヤン型で、少なくともシュトゥットガルトと
 ミュンヘンとで1セットずつは持っていたいと思わせます。」

・・・・などと利いた風なことを言ったが、これは浅岡弘和の受け売り、いやパクリである。以下は浅岡のサイトにある文章。

 ヴァントは完璧なベスト演奏にもかかわらずムラヴィンスキー同様、
 最新録音(若しくは最も音質の良い物)が一枚だけあれば事足りるのだ。

 ヴァントの場合、遅い時期の録音ほど演奏時間が長くなり、それとともに完成度も高まっていったように思う。手持ちの8種類の8番のディスクを続けて(1日がかりで)聴くと、一直線に円熟→完成に向かっていったという感じだ。(ただし、何を基準にするかによってベストが1つに決まらないものもある。それは最後の8番録音となった2001年BPO盤や「ラスト・レコーディング」の4番のページに記すかもしれない。)
 ヴァントのブルックナーの演奏スタイルの変遷については7番の北ドイツ放送響盤の項に書いてある。これに対して、私がチェリビダッケのブルックナーから受ける印象は、「よく磨いた鏡のようなシュトゥットガルト時代」「底なし沼のようなミュンヘン時代」である。ところで、小沼文彦訳「カラマーゾフ兄弟」(筑摩書房の世界文学全集のバラ売りを古本屋店頭で100円で購入)に挟まっていた月報に長谷川四郎の「ドストエフスキーの深い沼」というエッセイが載っている。以下はその一部である。

 トルストイを「当時の農民の鏡」といったのはレーニンだが、
 たしかにトルストイの文体は明晰で鏡のようなところがある。
 これにたいしてドストエフスキーのそれは濁っており底が知れない。
 鏡ではなくて、どんよりした深い沼のようである。

ということで、よく考えてみたら上記長谷川の文章が頭の片隅に残っていたからこそ、このように喩えたに違いない。そうなると、 前者はトルストイ的、後者はドストエフスキー的ということにもなるのだろうか? 別項では吉田秀和もドストエフスキーに喩えているし、私はよくよくこういった比喩(こじつけ)が好きなんだなあと思う。いずれにしても、両時代の録音は時に正反対といっていいくらい違うように私は感じる。
 カラヤンはようワカラン御仁である。彼の3種類の8番正規録音(57年、75年、88年)を予備知識なしで聴いて年代順に並べられる人はどれ位いるだろうか? 88年盤はヨレヨレでいかにも最晩年の録音らしく聞こえる。ところが最初の57年盤の方が時間は長く、まさに「大家の風格十分」とでもいうべき堂々とした演奏である。少なくとも勢いのある75年盤よりは後の録音に聞こえる。他の曲でも後の録音の方が速いというケースがいくつかあり、改訂版のアイデアを取り入れたり取り入れなかったりという迷走も見られる。また、スタジオ録音とライブ録音とで印象が違うのはカラヤンに限らないが、彼の場合はその違いが極端に大きい。ということで、カラヤンは「年齢とともに円熟味を増した」といった単純な図式では片付けられない指揮者だと思う。
 ヴァントの項なのにこんなにも脱線してしまった(苦笑)。今後もこの調子でいきますのでよろしく。

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