交響曲第8番ハ短調
ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
01/01/19〜22
BMG (RCA) BVCC-34041〜42

 「レコード芸術」誌のヴァント追悼特集によると、この時の演奏を実際に聴いた人の印象は金管の吹き損じなどもあってもう一つだったということである。ところが、そのような傷は全く見当たらない(見事に修正されている)し、音質に対する不満も感じない。第1楽章終わりの大破局などは音が宇宙に抜けていくようである。例の巨大ネット掲示板サイトでは発売当日から感想が述べられていたが、好意的な意見が多かったので私も不安を感ずることなく購入に踏み切ることができた。
 第1楽章8分47秒頃から(225から234小節)は、それまでのヴァントだったら231小節からのbewegt(より動的に)でテンポがほんの少し速くなっていたが、そういうことがとうとう全くなくなった。「ああ、この人はここまで来たんだな」と何となく思った。あるいは「とうとう神の境地に立ったんだな」と思ったかもしれない。購入直後の印象を某所に投稿している。

> 1日発売のヴァントのブル8新盤のあまりの凄さに茫然自失。
> 週末はこればっかり聴くことになりそうです。

 ところが、繰り返し聴くうちにこの演奏に物足りなさを覚えるようになってきたのである。(そして「リスボン・ライヴ」に1位を奪い返される。)その理由がよく解らなかったのだが、2004年4月の某掲示板のヴァントのスレッドへのある投稿を読んでハッとした。

> それ以降のはいいところもありますが、なんかヴァントじゃなくて他の
> 人でもいいような演奏が多くて全体としては評価しませぬ。

ただし、上は私が本当に言いたかったこととは微妙に違っているように思うので、ここからは「他の人でもいいような演奏」というのを「特定個人を離れた演奏」と勝手に読み替えて話を進める。だいぶ前に立花隆の「宇宙からの帰還」にて、アポロ宇宙船で地球の周回軌道に飛び出した宇宙飛行士(ラッセル・シュワイカート)が著者のインタビューに対してこんな答えをしていたのを思い出した。「自分が○○している」ではなく「人間がそこにいる、そこでこんなことをしている」のような感じ方をしていた、というのである。そこ(宇宙)にいるのはラッセル・シュワイカートという個人(the man)ではなく人類代表としての人間(a man)。それと少し違うかもしれないが、この演奏からはヴァントが人類の代表として我々の視点よりはるかに高い所から指揮しているという感じを受ける。入神の域に達したヴァントからはもはや人間味が感じられなくなった。もしかしたら、これが敬遠するようになった理由かもしれない。私は煩悩具足の凡夫だから。完成度では比類がないゆえ01年盤を上位に置いているが、好き嫌いで言えばヴァントの「体臭」がしっかりと感じられる93年盤の方が上である。

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