交響曲第7番ホ長調
ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
99/11/19〜21
BMG (RCA) BVCC-34030

 このディスクに収録されている演奏についてはKさんへのメール (00/02/14)で触れていた。

>  ヴァント&BPOコンビによるブルックナーの7番(昨年11月ライブ録音)
> が来月リリースされるようです。先日FMでその演奏を聴きましたが、既に
> 持っている北ドイツ放送響盤(92年)と基本的に解釈は同じだったので買う
> 予定はありません(中古なら買い)。

ところが何を血迷ったのか中古ではなく新品を買ってしまった。その印象は以下の通りである。なお、 最初の段落ではマゼール&バイエルン放送響による「大地の歌」について触れている。

>  次は「大地の歌」が発売されるようですね。正規盤としては初録音とのこ
> とです。CDJの新譜情報では現代最高のソリストを揃えたということですが、
> もうこのような宣伝文句には踊らされるつもりはありません。この前、ヴァ
> ントのブル7で懲りたからです。
>  その演奏をFMで聴いたことは既に書きましたが、それほど感動できませ
> んでした。しかしながら、CDJの「BSでも中継されて非常に評判の高かっ
> た昨年11月のBPOとの演奏会のライブがCD化される」という記事、それ
> にBMGの広告を目にしたので買うことにしたのです。もしかしたら、感動
> できなかったのはFMの音質が悪い(ステレオにするとノイズがものすごく
> 多いので、普段はモノーラルで聴いている)せいかもしれない等と余計なこ
> とを考えてしまったのが敗因でした。
(追記:その後外部アンテナを購入したので現在の受信状態はかなり改善している。)
>  ちなみに、この演奏を生で聴いた許氏は「どうしたベルリン・フィル、死
> んじゃいかん!」と励ましたくなるほど絶望的な音楽と感じたそうです。(氏
> は昨年のアカデミー賞大賞受賞の9番のCDにまるで失望したが、それをも
> 下回る演奏だと述べています。)僕はそこまで酷いとは思わなかったものの、
> 遅い部分でのアンサンブル(特に金管)の乱れが気になりました。ヴァント
> が丹念に音楽を作り上げようとしたことは十分感じられましたが、BPOの団
> 員が彼の意図を理解していない、あるいは理解していても消化できていない
> のではないか。そんなことを考えてしまいました。
>  こういう凡庸な演奏でさえも絶賛扱いにして買わせようとするメーカー、
> および共犯者であるジャーナリストの言葉は今後信用しません。(先日、「も
> うだまされんぞ!」と書いたのはこういうことです。宇野氏はどうも本心か
> ら素晴らしいと感じているようなので、別に文句を言う気はありません。)
> ほとんどのブルックナー・サイトでは、この演奏の評判はイマイチだったよ
> うに思います。やはり今後信用するなら利害関係に縛られていないファンの
> 感性にすべきだとつくづく思います。ヴァント&ミュンヘン・フィルのブルッ
> クナーはネット上で非常に高い評価を受けており、何とか手に入れたいと
> 思っているのですが、この前名古屋に出張した際に大型店(HMV、タワーレ
> コード、ヤマギワソフト)で探したものの、見つかりませんでした。やはり
> 海賊版を置くのは都合が悪いのでしょうか?
>  戻って、「こんな名盤はいらない!」の座談会で、共著者の吉澤ヴィルヘ
> ルム氏は「評論とジャーナリズムが一体化している」「音楽業界に媚を売ら
> なきゃナラナイようなプロ意識の足りない人たちが書いたものを盲進して読
> んでいる人たちは、まさに今世紀末の不幸ですよ」と述べていましたが、僕
> も不幸な人たちの一員とならぬよう気を付けねばと思ったのでした。
>                          (00/05/27)

 まあ随分な言いようである。とはいえ、この演奏が92年NDR盤よりも上回っているのは、第1楽章15分過ぎから15分45秒までのたった1箇所(約30秒間)である。この部分は信じられないくらい美しい。某巨大掲示板にも、ごく最近(2004年4月)「評判が悪い正規のベルリンフィル7番なんかもいいところたくさんありますし」という書き込みがあったことだし、探せば他にも「いいところ」はあるかもしれない。(なかなかその気にならないが・・・・・前年の9番同様、この盤も音質の悪さによって過小評価している可能性はある。)しかしながら、第2楽章の9分13秒頃からの20秒間のブラスの音の汚さはどうだ。リズムのだらしなさがそれに輪をかけている。4番BPO盤のコラールのところで書いたような金管&低音弦楽器群&ヴァイオリンの「三位一体感」はどこにもない。その箇所に限らず、特に遅い部分では各々のパートが好き勝手にやっているという印象を受ける。それが「リズムのだらしなさ」と聞こえてしまうのかもしれない。何にせよ北ドイツ時代からは考えられないほどの乱れっぷりである。第3楽章以降はそんなに悪くない。が、そこで調子が戻ってもこの曲はもう遅いのである。思い出したが、両端楽章の終わりにNDR盤のような「決め」がないのも大いに不満だ。
 で、この盤についてはここで終わるつもりだったのだが、第2楽章については書き足りないことを思い出したので続ける。
 ヴァントは第2楽章で三種の神器、じゃなかった打楽器のないハース版を使用しているが、この演奏にはノヴァーク版の方が相応しいのではないかと思っている。この楽章は最初から最後まで暗雲が立ちこめているが、あのクライマックスで一瞬だけ光が射し込む。ところが、ベルリン・フィルの重々しい響きによる分厚い雲を吹き払うにはハース版では力不足に感じてしまうのだ。実はヴァントのケルンや北ドイツ放送響盤でも「ハース版でなければ」という必然性は感じられない。私にとってハース版が一番しっくりくるのはワルター盤である。彼は比較的速めのテンポで淡々と進める。もともと雲は厚くなく、ちょっと薄暗いかなという感じなのだ。だから打楽器は要らない。(逆に炸裂したら雲が全て吹き飛んでしまってその後が興醒めだ。)レーグナー盤も同じだ。(ところが、ワルター盤より速いオーマンディ盤はシンバルのクラッシュが見事に決まる。訳が解らない。)また、ザンデルリンク盤を聴いた時も「ああっ、やっぱりハース版かあ!」と思わず膝を打った。それほどピッタリくる演奏だった。なぜかは解らない。だから文字にもできない。不思議としか言いようがないほど全てが自然に聞こえてしまうザンデルリンクだからこそ可能なのだと思う。やっぱり全然説明になってない。あとハイティンクも打楽器なしの方が良いのではないかという気がする。

 この際だからヴァントの版に対するこだわり、とりわけ有名なノヴァーク版への嫌悪についても書いてみたいと思う。それはCDの解説やインタビューから伺い知ることができる。ノヴァークの話が出ただけで怒ったヴァントがテーブルを叩きつけたとか、顔を真っ赤にし、怒りに震えながら、「完成された彫刻を自分の考えで手を折ったり、首をへし曲げたりして良いのか」と語ったとか、ノヴァークの顔写真を破り捨てたとか、果てはその上にウンコを垂れたといった、ありとあらゆる噂が立てられているほどである。(←しまいにゃ怒られるぞ。)しかし、ノヴァーク版のうちで実際に彼が親の敵のように憎悪の対象としたのは専ら7番2楽章の打楽器と8番第2稿である。(2番もハース版を使っていたが、ノヴァーク版もそれなりに評価している。)周知のように4〜6番のノヴァーク版とハース版(および9番のノヴァーク版とオレル校訂稿)は「有意差なし」だが、4番のスケルツォ中間部のようにヴァントが前者の解釈を採用したケースはいくつもある。さらに、3番ではエーザー版という選択肢がありながら、彼がなぜかノヴァーク第3稿を使っていたのもよく知られている。いくら特定のバージョンが気に入らなかったとしても、彼のノヴァークに対する仕打ちはあんまりだと思う。
 8番については目次ページに書いたように私もハース版に軍配を上げているし、ヴァントの説明(ノヴァーク版批判)にも十分納得しているので、ここからは7番についてもう少し続けてみよう。この曲で問題になるのはやはり第2楽章の打楽器(シンバル&トライアングル&ティンパニ)使用である。ヴァントの見解(彼が打楽器のないハース版を採用する理由)は「レコード芸術」誌の他、7番ベルリン・フィル盤や8番ケルン放送響盤のブックレットに収録されている金子建志のインタビューにて読むことができる。
 ヴァントは楽譜に書かれた「無効」(←金子の「ブルックナーの交響曲」によるとどうも自筆らしい)が3種の打楽器中でティンパニだけを対象としたものであり、しかもそれはティンパニのパート全体ではなく、1小節分だけ(他の楽器がドになっているのにティンパニだけソのままで次の小節からドになる)を指しているというのだが、私はそれを読んで直感的に「おかしい」と思った。よく考えてみてもやっぱりおかしい。それならば(シンバルとトライアングルはそのままで)ティンパニのみ止めれば、あるいは他の楽器に合わせてドを叩けば「無効」は「有効」となり一件落着ではないか。(私が気が付く位であるから既に浅岡弘和も自身のサイトで触れている。)もし本当にそこだけを変更したいのなら、曖昧でどうとでも解釈できるような「無効」の文字を書き入れるのではなく、音符自体を書き直してしまうだろう。私はやはり「無効」が3種の打楽器、少なくともティンパニのパート全体に向けられたものだという解釈を採りたい。ヴァントも変に格好付けずに「無効と言ったら無効だ!」と頑固親父ぶりを発揮すべきではなかったか?(ところで、私はその部分がソ(G)→ド(C)でも悪くないと思った。頭の中で鳴らしてみると、最初から最後までド(C)ではやや単調なのでここは変化球の方が収まりが良いと感じるのだが、たぶん私の耳がヘンなのだろう。)
 ついでに、ヴァントが注目すべきであるとして挙げた、この楽章がブルックナーの全交響曲中で“一音も打楽器の書かれていない(註:ここまでルビ)、唯一の楽章”という点についても触れておく。ブルックナーが「1つぐらいは打楽器のない楽章を書きたい」と願っていたという日記なり手紙なりが残っていたというのなら話は分かる。あるいは「これはヴァーグナー先生の追悼のための音楽なのだから打楽器を入れないでおこう」でも良い。そういう証拠がないのであれば、この楽章の独自性は結果であり原因ではないということになる。そして、(たまたまの)結果に過ぎないものにちょっと拘りすぎではないかと私は思う。ちなみに、(言及されているのを見たことがないが)5番の2楽章もほとんど打楽器は参加していない。
 次に、3番のノヴァーク版3稿使用について。ここでも浅岡が述べているように、「ブルックナーは、それを望んだじゃないですか!」「89年の第3稿によって初めて大成功を収めたのです」というヴァントの理屈をそのまま7番と8番にも持ち込んだら、やはり最終稿(ノヴァーク版)を使わないと筋が通らなくなる。なお、「89年盤(第3稿)以外の版を知らなければ、省略に気が付く人など居ないはずですよ」は「ありもしない仮定」であり、論理性を重んじる指揮者の発言とは思えない。(それを認めたら議論は成立しない。)彼の名誉のため、ここはつい口が滑ったものと解釈しておく。

「(8番の)ノヴァーク版にある短縮は確かにブルックナーが認めたものだ。しかし、リヒターによる初演の直前に強要されて、いやいややったことなのだよ。」

私はこの発言にも正当性を見い出すことはできなかった。一体全体どういう根拠で(その場に居合わせたわけでもないのに)作曲者自身による改訂を「いやいや」と言い切れるのだろうか? (彼の与り知らないところで弟子達が手を加えた「改竄版」とは事情が全く違うのだ。)ヴァントが「非音楽的な」箇所のオンパレードである8番のノヴァーク版を嫌うのは解る。彼の美意識ではとうてい我慢ができないのだ。その気持ちは痛いほどよく解る。(既に書いたように、私にもノヴァーク版にはどうにも許し難い箇所がある。そういえば、最初に買ったハイティンク&コンセルトヘボウ81年盤の解説で、藤田由之が「ハース版は、構造上の均衡においてノヴァーク版よりもすぐれているといえる」と書いていたが、その意味がわかったのは10年以上経ってからだった。)しかし、彼の気持ちと作曲者のそれとはあくまで別のものである。「いやいや」は、指揮者の「作曲者もそうであってほしい」という願いが言葉となって出たものではないだろうか?
 実のところ、整合性とか正当性などは別になくったって誰も困りゃしない。「3番のノヴァーク第3稿は私が好きだから使う」「8番はハース版の方が音楽的にはるかに優れているから使う」で十分なのだ。ところが、最終稿という点で同じはずのノヴァーク版でも3番第3稿は「望んで」、8番第2稿は「いやいや」改訂したなどと首を傾げたくなるような理屈をこねるから、ついつい突っ込みたくなったのである。

 もし私がドイツ語に堪能で、こんな風にヴァントを問い詰めていったら、と想像(妄想)する。けれども、そうなったとしたら彼は顔を真っ赤にして(あるいは咳き込みながら)こう言ったことだろう。「ええい、うるさい。とっとと出ていけえ、この若造!」そうして私は叩き出されてしまったに違いない。晩酌の肴ごと小鉢を投げつけられたかもしれない。(←それじゃ海原雄山先生だって。)
 ああ、またやってしまった.....もうこの辺で止めます。

2005年1月追記
 昨年12月に「ベルリン・フィル物語」(200CDベルリン・フィル物語編纂委員会編)という本を図書館で見つけたので、正月休みに借りて読んだ。ヴァントの項を執筆していた長野隆人なる人物は当盤収録の演奏を生で聴いたということだが、「前半二楽章のクライマックスには、ヴァントの生命線である『音楽の統一』がまるでなく、弦もグチャグチャ、金管はヤケクソに吼えるだけ」で、あまりのつまらなさに寝てしまったそうである。やっぱり演奏自体ダメダメだったようだ。(彼が聴いた約30回のヴァント指揮のコンサートでも、そんなことは後にも先にもこの時だけだったらしい。)ちなみに、そのページはこんな毒舌で締め括られている。

 こんな演奏をヴァントも「ほとんど完璧」と褒めちゃうから、
 楽員も舐めていたと思う。情けねぇ。

酷いねぇ。ところで、この本の編集に携わったらしき団体が私には異様に映るが、このように冗長な、時にはタイトルよりも長い名前を付けるのが昨今はやりなのだろうか? 同様の編者名を何度か目にしたことがあるが、こんな芸のないネーミングはちっとも好ましくないと思う。

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