交響曲第5番変ロ長調
ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
96/01/12〜14
BMG (RCA) BVCC-1510

 私は京都や名古屋といった近場に出張するときは車を使うが、その際には大抵6枚入りCDチェンジャーにヴァントのブルックナーを入れていく。(ちなみに、私は通勤や出張など仕事以外では四輪車には一切乗らない。あくまで「商売道具」なのである。私にとって「愛車」とはプジョーのマウンテンバイクVTT-200のことを指す。フランスの三色旗をあしらったデザインに魅了されて無性に欲しくなってしまったのであるが、ネットオークションで何度か入手を試みた末、たしか23,500円で落札することができた。連絡が来てみたら何のことはない、地元の自転車屋さんだったので直接取りに行った。それにしてもプジョーが自転車生産の方でより長い歴史を持つということすら知らなかったとは、今思うに愛好家としてあるまじき無知である。次はジャガーかポルシェあたりを候補に考えているが、思い切ってフェラーリにしようか? 100万の限定モデルが出ていたはずである。)余談ついでだが、私はこれまで小中高の修学旅行や幼い頃の家族旅行を除いて、車や公共交通機関を利用した「旅行」というものをしたことがない。仕事では日本全国に出張するし、海外も日本語が使えないだけで別にどうということはない。今年=2004年3月には視察のため初めて訪欧した。来年2〜3月にはナミビアに行く予定があり、実現すれば足を踏み入れていない大陸は豪州と南極だけになる。(2006年3月追記:前者は何とかなるだろうが、後者に上陸するチャンスが果たして巡ってくるだろうか? 先月に剣道指導のボランティアを終えて帰国された方から聞いた話によると、アルゼンチンの南端から船で南極に向かうというツアーが複数あるとのことである。その方が参加されたのは豪華客船を利用するもので、費用を訊いてみたら何と私の月給のほぼ3倍だった。安くとも1ヶ月分はかかるようだし、そもそも出発地にたどり着くまでの費用もバカにならない。そうなると公用で行くのが理想だが、私の専門ではほとんど不可能だろう。)けれどもプライベートでは自転車で行ける所にしか行かない。片道100kmあるいは琵琶湖一周のように周回コースで200kmがだいたいの目安である。このブルックナーCD蒐集のように、私はやる時はとことんまでやらないと気が済まないのだが、興味の湧かないものは「時間の無駄」として徹底的に排除する質である。)往復の間にだいたい聴き終わる。「将来ウェブサイトを作成するとしたらこんなことを書こう」と考えながら運転していたので、ヴァントについては脱線だらけだとしても結構書くことが多い。(指揮者別目次に「ヴァント以外のページは大したものにはならない」云々と書いたが、実は書くことがないのである。)
 前置きが長くなったが、ヴァントの5番についてはケルン放送響盤が「麻」、北ドイツ放送響が「絹」だとずっと思っていた。けれども、このように布や繊維に喩えることは別に真新しいことではない。宇野はマタチッチ&N響の8番(1984年)の解説でマタチッチを「木綿」、レーグナーを「練絹」としていたし、最近では「生きていくためのクラシック」で許が前者を「岩のブルックナー」、後者を「絹のブルックナー」と書いていたのも記憶に新しい。ただし私がヴァントのケルン盤から受ける印象は、麻は麻でも「大麻」である。日本語では性質も用途も大きく異なるコムギ、オオムギ、ライムギ、エンバク等も一括りに「麦」にしてしまう(麦類を主食とする国々では当然呼び名は違う)が、「麻」の場合はもっとひどい。(「麦」はまだしも全てイネ科という点で同じなのだが、)タイマ(大麻)、アマ(亜麻)、ジュート(黄麻)、ラミー(苧麻=チョマ)、イチビ(別名「ボウマ」←漢字変換できない)、マニラアサ 、サイザルといった科のレベルで違っている作物がみんな「麻」なのだから。当然品質もピンからキリまである。麻から作られる製品として真っ先に思い浮かぶであろう麻紐や麻袋(ズダ袋)はジュートから採れる繊維を原料としている。ジュートはワタ(棉)の次に生産量の多い繊維作物であるが、その繊維は強度、柔軟性ともに劣り上質とはいえない。これに対して、アマはその光沢とともに優れた性質(強靭でしかも柔軟性があり、水分の吸収発散や熱伝導も良い)を持ち、「麻」の中では最高級の繊維である。(ドビュッシーのピアノ曲に加えて、最近では「亜麻色の髪の乙女」というヒット曲も存在するようだが、「麻」だからといって亜麻を軽々しく見てはいけない。)そして、私がケルン盤のイメージとして挙げたタイマは麻薬成分(テトラヒドロカンナビノール)を含むため、嗜好料(マリファナ)としての利用が有名であるが、繊維作物としても重要である。繊維は太く強靭で弾性が強く、柔軟性にはやや欠けるものの耐水性と耐久性に優れる。畳表の経糸や下駄の鼻緒等が作られるが、さらに「横綱」も国産のタイマから作られている。(こんなとこで栽培植物各論の講義をして何になるというのだ?)
 さて、ケルン盤が「大麻」で北ドイツ盤が(光沢と滑らかさが特徴で、吸湿性や保温性に優れる)「絹」だとすると、さながらこのBPO盤は「ハイテク技術が生み出した新素材」ということになるのだろう。両者の良さを一身に引き継いだ感じである。ケルン放送響との全集中で彼が最初に録音したのが5番であるが、実はレパートリーに加えたのは最後だったという。つまり、慎重な態度を保ち続けていたこの曲に対して余程の自信が持てたからこそ録音に踏み切ったということだろう。許が「クラシックCD名盤バトル」でヴァントのことを「完全に五番向きの人」と評していたが、当盤はそれに納得がいく素晴らしい出来映えである。
 第1楽章1分59秒の金管のファンファーレ(ソードーレミーラ♭ーソー)を聴いてみよう。ケルン盤もここは力強くて印象的だったが、何だか一杯一杯で金切り声のように聞こえなくもなかった。ところがベルリン・フィルのブラスは「こんなの朝飯前だよ」といった感じで軽々と吹いている。まさに「スーパー・オーケストラ」である。3分23秒からの第1主題の提示部も同様であるが、3分30秒頃の音の深さ(ザワザワ感が凄い)には寒気がした。15分12〜40秒までの処理も見事。3番NDR盤のページでも褒めたが、場当たり的な盛り上げ方でなく、楽章全体を見据えて中間部にここぞというピークを築くのがヴァントは本当に上手いと思う。なお、4番BPO盤ページでも述べたが、この演奏もボリュームをある程度上げなければ真価はわからない。
 ここで1分59秒のファンファーレに戻ってからだんだん脱線することにする。ゆったりとした序奏部で金管の咆哮がいったん収まってから(1分38秒)別テンポになる(速くなる)。そして先述したファンファーレに入るのだが、ヴァントはそれまでのテンポを受けて(踏まえた上で)吹かせている。ここはテンポをグッと落として朗々と吹かせる指揮者も少なくなく、それはそれで悪くないと私は思っているのだが、「構造主義者」ヴァントにはあるまじき逸脱行為なのだろう。ただし、ヴァントのこういうスタイルを浅岡弘和は「プロテスタント風ブルックナーという感じであまり感心しなかった」と述べ、「これだけ堅牢強固な『第五』も他に例があるまい」と認めつつも「世俗性にも長けた朝比奈盤に一歩を譲る結果となっているのは残念」と書いていた。9番とともにヴァントが「ブルックナーが世に背を向けて書いた」と評した5番を世俗性を徹底的に排除したスタイルで演奏したのだから、浅岡がそういう印象を持ったのも無理はない。彼の評価は間違っていない。
 ところで、5番は極めて論理的に書かれているので「構造」を無視してテンポを小刻みに動かしたりすることは御法度という考え方もあるかもしれないが、私は逆にそれだからこそ、揺さぶり攻撃にもある程度なら耐えられるのではないかと思っている。土台がしっかりしている、あるいは「耐震構造」を備えていると喩えても良いだろうか? 8番も同じである。逆にテンポの急変に脆弱なのは7番と9番である。特に9番は「ヴァントのようなインテンポの演奏はつまらない」という意見も目にするが、私には曲想の変わり目で急加速と急ブレーキを多用する演奏は全くダメである。この曲の第1楽章は宇宙の誕生を音で表現したものなのだ、というのが私の持論であるが(9番の目次ページ参照)、例えば「素粒子同士を結びつけている核力が0.5%でも弱かったり強かったりしたら」「中性子が陽子のわずか0.14%重くなければ」宇宙は現在とは全く違ったものになっていたという(Newton受け売り)。つまり、我々が生存を許されているこの宇宙は、絶妙としか言いようのないバランスの上に成立した、まさに奇跡的な存在なのである。指揮者の勝手な解釈でそのバランスを崩すような真似が許されるはずはない。(あと比較的強いのは4番で、3番と6番は弱い方だと思う。ただし6番は多少揺さぶってくれた方が退屈しなくて済むので私にとってはありがたい。邪道かもしれないが。)
 いよいよ脱線の本題(←何か変だな)に入るが、他ページでも触れている某M氏はヴァントのブルックナーを「世俗的で崇高さに欠ける」などと書いていた。(ブルックナー総合サイトへの投稿のみならず自分のサイトにも載せているようである。)「世俗性に欠けたヴァントのブルックナーが朝比奈に劣る」という浅岡の意見に私は同意こそしないけれども、その論旨はよく理解できる。けれども、世間に背を向けたヴァントの演奏スタイルを「世俗的」とは笑止千万である。残念ながらM氏は「世俗的」という日本語の意味を知らないか耳が聞こえないかのどちらかであると言われても仕方がないと思う。まあ、一般人だし噛み付いてもしゃーないと私は思っていたのだが、クラシック専門の掲示板サイト(末尾に動物名が付く)へのM氏の「ムラヴィンスキーの演奏が崇高さに欠ける」という旨の投稿に異を唱えた人があった。某巨大掲示板サイトにて(スペインの地名と動物名を組み合わせた)固定ハンドル名を使用している彼(←私はこの人けっこう好きである)は、M氏に一体どういう意味で「崇高さ」という言葉を使っているのか問い質そうとしたのだが、管理者の「仲裁行為」によって結局うやむやになってしまった。何れにせよ、定義をハッキリさせないままに「世俗的な○○と違って△△は崇高」のような意見を述べても皆の失笑を買うだけだということを彼は理解しただろうか?
 最後におまけであるが、私はあの管理者の行動には???を付けざるを得なかった。管理者は掲示板上の和やかな雰囲気が損なわれるのを危惧したのか、陰で動物コテハン氏に私信を送ったのであるが、それを受け取ったコテハン氏が削除キーとともに全文を載せたという理由で彼を永久追放にしてしまった。(それを機に削除キー付き投稿も禁止条項に加えられた。)掲示板上の議論が運悪くいざこざになったとしても、それはあくまで掲示板上で解決すべきものであり、裏での根回しによって解決を図るものではないだろう。まして、動物コテハン氏の投稿は紳士的かつ真摯なものと私には映った。削除キーを付けた転載も都合が悪ければ削除できるようにという配慮によるもので、他意はなかったと思ったのだが・・・・これから活発な議論が始まりそうだというところで水を掛けてしまった管理者には正直失望した。(一応断っておくが、某巨大掲示板に叩き専門のスレッドを立てて匿名での個人攻撃を続けている連中は「屑中の屑」だと私は思っている。)まあ、あれだけ参加者の多い掲示板を運営するのが容易ではないことは十分に想像できるけれども。
 掲示板も持ってない自分がこんなえらそーな口を利くのも、「掲示板管理者の鑑」といえる人物を知っているからである。このサイトで数え切れぬほど登場するKさんの「大人」ぶりに私は何度も感心させられてきた。ちなみに、私はチョー面倒くさがりなのでいちいちレスを付けるのが煩わしく、かといって放っておくのも心苦しいという人間なので、たぶん掲示板は永久に開設しないと思う。
 脱線に脱線を重ねているうちにとうとう戻れなくなってしまった。もうやめる。

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