交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
ギュンター・ヴァント指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
01/09/13〜15
Profil PH 06046

 5番については一時期「三すくみ関係」という理由をでっち上げて(←自分で言うかぁ?)玉虫色の決着を図ったこともあったが、この4番についてはそういうことは起こり得ない。というのも、当盤収録の約1ヶ月半後のNDR盤(いわゆる「ラスト・レコーディング」)とトータルタイム&トラックタイムともに似通っており、両者が同様の最晩年スタイルによる演奏であると予想されるためである。ならば完成度によって優劣を付けない訳にはいかない。で、聴き比べてみるとNDR盤の方がパッとしない。そういえば許光俊は「世界最高のクラシック」でこのように語っていた。

 あのヴァントならではの精密感がない。緊張感がない。安定感がない。
 やはり老齢ゆえ、くたびれてしまったのか。

ティンパニ音の1つ1つが明瞭でないように聞こえるので、あるいは録音でも損をしているのかもしれない。何にしても、既にあちらのページでチラッと仄めかしていた「ユルユル」という印象が当盤を聴いてさらに強まった。よって「ラスト・レコーディング」が脱落し、当盤と98年BPO盤との一騎打ちになる。
 MPOの特徴である透明感抜群の響きは(9番もそうだが)この曲と相性ピッタリだ。第1楽章最初の盛り上がりを聴いて改めてそう思った。昨年終盤(2006年10月以降)に試聴した4番ディスクのいくつかを「無印良品」的な名演として褒めた私であるが、やはり老舗「ヴァント」の味は格別である。途中(第1楽章8分少し前)からオーボエの妙に艶めかしい音色が耳に付き始める。まるで高齢の指揮者を優しくいたわっているかのようにネットリ濃厚に吹いている。オーボエだけでない。コーダ(18分30秒以降)でテンポを落としてジックリ聞かせるのは既に98年BPO盤で認められていた傾向だが、当盤のシミジミ感はその比ではない。楽員達はヴァントの客演が今回で最後になることを予感していたのだろうか? このいかにも名残惜しそうなスローテンポの歩みから何ともいえぬ深い慈しみの情が伝わってくる。アダージョに入ってからも同じで、ソロ部分は奏者が代わる代わる別れを告げているかのように切なく響いた。ついつい泣けてくる。晩年のヴァントはハイドンの交響曲第76番がお気に入りだったが、もし45番を振っていたら超名演となっていたに違いない。(←短絡的発想)
 スケルツォは少々パワー不足と感じてしまった。(シミジミ中間部の充実ぶりは相変わらずだが。)終楽章の最初の爆発も同じ。(ティンパニに比してブラスが弱い感じ。)そうなると許の「くたびれてしまったのか」を思い返さない訳にはいかない。ところがである。彼は先に引いた段落の後、こう続けていた。

 その代わり、明るい。不思議に明るい。(中略)
 音楽がミステリアスになってくる。
 もう、かつてのヴァントのように、
 考え抜いた音を厳格に配置するといった強い音楽ではない。
 音は、考え抜いてそこに置かれるのではなく、飄々と鳴っている。

上は実際には「ラスト・レコーディング」の第1楽章後半以降について記したものであるが、私は同様の印象を当盤のフィナーレを聴く内にいつしか抱き始めていた。(1ヶ月後にハンブルクで聴いた4番を「思いもかけない軽やかな、空気のような音楽」などと評した許は、このガスタイク・ホールでの演奏については「まったくこんなではなかった」と書いている。やはり生演奏に接した者にしか知覚できない特別な何かがあるということだろう。実際私はNDR盤からは上の「ミステリアス」は感じ取れなかった。)終わりに近づくほどに神秘的な雰囲気が漂ってくる。やはり禅に興味を示すなど晩年に入って瞑想的演奏に傾いていたチェリの影響力がオケにまだ痕跡を留めていたからではないか。また、途中からヴァントが「何もバリバリ鳴らすだけが音楽じゃないよ」と音で語っているようにも聞こえてしまった。カラヤン最晩年の8番VPO盤について浅岡弘和が述べた「ここではもはや音楽が音楽しているのだ」(あるいは指揮者が到達したいと語っていた「音楽を演奏するのではなく、音楽ができてくる」)という境地も同じかもしれない。ちなみに浅岡は「R・シュトラウス顔負けの見事な解脱ぶり」とも書いていたが、この時期のヴァントが「4つの最後の歌」やオーボエ協奏曲を採り上げていたら、どれほど凄い録音が残されただろうと思うと私は残念でならない。(どちらもレパートリーに入れていたという話は聞いていないけれど。)
 第1楽章同様、ここでもコーダが聞き物である。弦の刻みが次第に例の「ザンザンザン」に近づいていくのである。(もちろんテンポはあんなに遅くないが。)思わず寒気がした。翌月のNDR盤では終始「ザワザワザワ」、つまり寄せては返す波のごとく小刻みに動いていたから、こう弾くようにヴァントが指示したとは考えにくい。あと少しで終わりというところになって、ヴィオラ奏者は目の前にいる老指揮者とかつてのシェフの面影とが重なってしまい、ついには弓が勝手に抑揚を付けてしまうほどにも自分自身のコントロールを失っていたのではなかろうか?(←今度は妄想)
 そんな訳で、当盤は現世離れしているという点で文句なしだが、こういう演奏はしょっちゅう聴くものではないという気がする。早死はしたくない。という自分でもよう分からん理由ではあるが、トップ3は動かさないことに決めた。

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