交響曲第9番ニ短調
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
59/11/16〜18
CBS Records MBK 44825

 この輸入盤がYahoo! オークションに出品されていたが、"odyssey" シリーズの音質は悪くないというネット評を見ていたので入札に踏み切った。出品価格1000円のままで落ちたと記憶している。ケース裏にマックルーアの名前を見つけた(Remixed for CD by John McClure and Larry Keyes, engineer)のでホッとした。実際に聴いても耳当たりの良い音質で全く問題はない。
 さて、私がクラシックを聴き始めて以降、評論家が当盤を推していたのは全く見たことがない。「名曲名盤」でも全くの無印だった。が例の良品ブランドだけでなく、この演奏も私にはなかなかに優れた演奏だと思われる。不当に過小評価されているのではないかと抗議したいくらいだ。ただし、ネット上ではチラホラながら肯定的な評価も目にしており、そのうちの1人は「初めて買ってもらったLP」という思い入れとともに「捨てがたい魅力がある」と書いていたように記憶している。(その人が買ってもらったというのは確か70年代以前の話だったが、当時は入手可能なブルックナーのディスクも圧倒的に少なかったはずであるし、それぞれ64年と66年にBPOと録音されたヨッフム盤とカラヤン盤が登場するまでの間、もしかしたら当盤は唯一のステレオ録音によるブル9だったのかもしれない。)
 ブルックナーの交響曲のスケール感についてはヴァント&ケルン放送響全集のページに書いた。「演奏次第で宇宙的極大スケールにも素粒子的微小スケールにもなりうる不思議な曲」という9番の印象について、もう少しクドクド述べてみる。宇宙というのは時間軸によって大きさが異なる(膨張したり収縮したりする)ため、スケール(空間的拡がり)だけを考えても仕方がない。時間と空間を統合させた「時空」という概念で扱うべきものである。要は大きくても小さくても構わんということである。私は時にこんなことを想像してみたりするのだが、太陽系が1つの原子(太陽が原子核で惑星が電子)で、1つの銀河にしてもせいぜいタンパク質程度の高分子、そして銀河の泡構造がポリエチレンのような鎖状有機化合物という途方もない大きさの世界があり、そういう物質によって構成されているこれまた途方もなく長い寿命を持つ生命体だっているかもしれない。逆に、素粒子クォークやレプトンの世界にも極微スケールの宇宙が存在すると考えるのも楽しい。(現代理論が素粒子のそれ以上の分割を否定しているのは一応知っている。しかしながら、もうちょっと悪あがきをしてみる。物質の最小単位である素粒子を大きさゼロの「点」だとする「標準モデル」では、素粒子間にはたらく重力の値が無限大になってしまうといった現実世界との矛盾点も出てくる。そこで、最小単位を長さのある紐のようなものだとする「超ひも理論」が生み出されたが、世界に10または11の次元がないと矛盾のない理論を構築できないとのことである。そうなると私たちの感じ取ることができる4次元時空に加えて、宇宙にはあと6あるいは7の次元が隠れていることになる。ひょっとすると、その「余剰次元」には極微宇宙に住む生命体の活動に起因するものも一部含まれているのではないか、と私の妄想は留まるところを知らない。)ここまで脱線してしまうと、ちょっとやそっとでは戻れそうにない。もう少し続けてみる。
 宇宙の多重発生理論というのを以前Newtonで読んだことがある。「インフレーション宇宙論」の提唱者である佐藤勝彦(東大教授)によると、誕生直後の宇宙からはキノコのように「子宇宙」が生まれ、さらに枝分かれによって「孫宇宙」→「ひ孫宇宙」→・・・といった具合に多重発生を繰り返すことで、無数の宇宙が生まれたというのだ。(それとともに、「宇宙の呼び名も従来の『ユニヴァース(universe)』から『マルチヴァース(multiverse)』に変えるべき」という意見が台頭しつつあるようだ。)ついでに書くと、インフレーションは宇宙のすべての場所で一度に終わるのではなく、ある領域でインフレーションが終了しても、宇宙全体では終わらない。これが「永久インフレーション」であり、今現在でさえ遠い領域(観測可能な領域の外)ではインフレーションが続いているらしい。
 さて、5番ヴァントBPO盤ページにも書いたように、我々が生存を許されている宇宙というのは恒星や生命をはぐくむことができるような絶妙な初期条件を取ったという点で奇跡的な存在であるが、「それぞれの宇宙は異なった初期状態や物理法則をもって誕生した可能性がある」(佐藤)とのことで、「ブラックホールだらけの宇宙」や「暗い星だらけの宇宙」もアリという話である。こういう考え方に立てば、当盤の演奏で表現されているのは「比較的こぢんまりした静的な宇宙」であるとして、私は十分容認することができる。「却下」と言いたくなるのは「ビッグバン」の前に一拍措いたり、途中で意味不明な混沌状態を引き起こしたりといった、「構造」あるいは「造型」がグチャグチャな演奏である。宇宙論に喩えれば、物理学の法則や観測結果を無視して理論を打ち立てるようなもので、これではブルックナーが思い描いたヴィジョンは完全に葬り去られてしまう。この点、ワルターの演奏は基本テンポがしっかりしているし、無茶な揺さぶりもしていないから合格だ。第1楽章コーダで「ダダーン」が聞こえないけれども、このくらいのスケールの宇宙に「巨人の踊り」は必要ない。(というより、終わりだけ激しくしたらそれまでがぶち壊しだ。)とにかく最初から終わりまで暖かさと優しさに満ち溢れた演奏であり、晩年のワルターの芸風がピッタリはまったと思う。ないものねだりであるが、もし本当の最後の最後(7番の後)に録音されていたら、さらに神々しさも加わっていたかもしれない。

おまけ
 多重発生理論とは別に「パラレルワールド(並行世界)」というのもある。量子力学の考え方では、例えば原子核の崩壊は確率的にしか予測できない。私たちの世界で崩壊が観測されたとしても、崩壊が起きなかった宇宙もどこかに存在する。このように、起こりうる選択肢の数だけパラレルワールドが存在するというのだ。この考え方に立てば、タイムマシンで過去に戻り、自分が生まれないように振る舞ったとしても、その時点で宇宙が枝分かれするため矛盾は生じない、というのである。(補足:タイムマシンで過去に戻り、自分の両親あるいは直系の祖先の誰かの結婚を邪魔すれば自分は生まれてこない。生まれなければ邪魔することができず、自分は生まれてしまうことになって矛盾が生じる。このようなパラドクスの解決方法の1つは「歴史は確定している」という考え方で、過去へのタイムトラベルをしても何らかの邪魔が入り、歴史を変えることはできないとするものである。もう1つが先に述べた量子力学というミクロの世界の理論から「パラレルワールド=平行宇宙」の存在を仮定する「多世界解釈」で、過去に戻って歴史を変えた時点で自分が来た未来とは別の別の世界、別の歴史が始まるとする考え方である。これだと自分が来た未来はどこか別のパラレルワールドとして残っているとして矛盾は回避される。ただし、専門家によると量子力学の考え方を単純にタイムトラベルに適用するのはかなり乱暴らしい。)この「パラレルワールドの枝分かれ(世界は分岐する)」という解決策を私は大いに気に入った。以前かなり本気で考えていたことを裏付けてくれるようにも思えたからである。以下は少し昔の話をする。
 大学2年の教養課程で選択した国文学にて、文庫本2冊が授業テキストに指定されていた。うち1冊は古井由吉の「杏子」(ようこ)、もう1冊が大江健三郎の「個人的な体験」であった。時間不足のため講義ではほとんど前者しか採り上げられなかったが、「杏子」自体も、講義内容もとても面白かった。一方、「個人的な体験」も暇な時に読んだが、読後の印象は「まあまあ」であった。(私が大江ワールドの虜にされたのはそれから10年近く後のこと、今でも最も好きな作品の1つである「叫び声」を読んでからである。)ただし登場人物の1人、火見子というちょっとエキセントリックな女性が披露した「多元的宇宙」という考え方が非常に興味を引いた。ここで押し入れから「大江健三郎全作品6」(新潮社)を引っ張り出して、彼女の台詞からメモ書き風に抜き出してみることにする。(テキストとして買った新潮文庫は、とうの昔にどこかへ行ってしまった。)
 自分たちが今存在している現実世界とは別の、数知れない他の宇宙が存在する。自分が生きるか死ぬかフィフティ・フィフティだった時に、生きる方向を選んだ自分のいる宇宙と、死んでしまった自分についてわずかな思い出を持つ人達の宇宙が進行し始めた。死と生の分岐点に立つたびに、人間は、かれが死んでしまい、かれと無関係になる宇宙と、彼がなお生きつづけ関係をたもちつづける宇宙の、ふたつの宇宙を前にする。ひとりの人間をめぐって、ちょうど樹木の幹から枝や葉が分かれるように様々な宇宙がとびだしてゆく。わたしたちを囲む宇宙はつねに増殖しつづけてゆく(宇宙の細胞分裂)。
 これに対し、主人公(ほとんど作者自身)の「鳥」(バード)は、すべての宇宙での自分の死だということになる、いわば自分の最後の死はいったいあるのか、ないのか、と火見子に尋ねる。彼女は「それがなければ少なくともひとつの宇宙のあなたは無限に生きつづけなければならないことになるから、それはあることにする」と前置きをしてからこう答える。「それは、おそらく九十歳をこえての老衰死だわ。すべての人間がかれの最後の宇宙で老衰死するまで、いろんな宇宙での不慮の死を経ながらも別の宇宙では生き残りつづけるのよ。そして結局すべての人間がかれに最後の宇宙で老衰死することになるとしたら、それが平等というものじゃない? 鳥」
 「自分以外にこんな奇特な考えを抱いている人間がいたとは!」と私は火見子(実際には大江)に驚嘆した。ここでいきなりだが、私はこれまでに少なくとも2度死んでいると思っている。断末魔の叫びを上げた次の瞬間、布団の中にいる自分を認めた(同時に「何者かが人智を超えた方法で私をここまで運んだのだ」と考えた)のであるが、夢で片付けるにはあまりにもリアルな死に方だったのだ。(殺される夢に目を覚まし「ああ、また嫌な夢を見た」というのは時々あるけれど、そういうのとは衝撃の大きさが月とスッポンほど違う。)その度に「自分が助かったこの宇宙とは別の宇宙が存在しているに違いない。向こうは自分がいないから感じられないだけで、今頃周りは大騒ぎしているだろう」などと思ったのである。たとえ致命的な病気や事故に遭っても生き残った自分の居場所は常に確保されるから、完全に死ぬということはあり得ない。私はいつしかこんな風に考えるようになっていた。(そして、宇宙が2つに分かれるのは必ず一方の自分が死ぬ時なのだから、必然的に自分という存在は宇宙で独りだけということになる。未来永劫に。)ただし、エンディングだけは火見子と違っていた。作家は「九十歳をこえての老衰死」というあくまで自然で平穏な幕引きを望んでいたようだが、私の方は生きるのに倦んで自死を選ぶか、あるいは仏教でいうところの悟りの境地に達すれば、そこではじめて宇宙はそれ以上の分裂を止めると考えていたのである。(後年ゲーテの「ファウスト」を読んだ時に、主人公のように「無情の幸福を想像して、最高の刹那を味わう」ことができたら、やはりピリオドが打たれるかもしれないと思った。)
 もっとも今はといえば「宇宙の分裂」に対しては半信半疑である。(だから、敢えてそういった機会を招き寄せるような悪戯心も持っていない。)後になって、どうもこの考え方には少し無理があるような気がしてきたからである。いくら宇宙が枝分かれしようとも生き残る自分は1人と書いた。しかし、他人が死んだ場合はどうか? 彼が死んでしまった宇宙と生きている宇宙の両方に自分は存在することになる。無数の他者が生き死にの境目に立たされるたびに宇宙が分裂するのだとしたら、それに同調して自分も無限に増殖することになってしまう。ならば本当の自分が誰だか判らなくなってしまうではないか。
 ここでまたしても話を横に逸らしてしまう。最近の宇宙論の分野で最もホットな話題になっている「ブレーン・ワールド」という考え方があるらしい。5次元の時空に「ブレーン(膜)」が浮かんでおり、われわれが住む宇宙(4次元時空)は、その中に閉じこめられているのだという。5次元時空に存在するブレーンは1つだけとは限らず、もし複数のブレーンが存在すれば、それらが衝突して互いに影響を及ぼし合うこともあり得るらしい。さらには宇宙創造をうまく説明するためのブレーン2枚の衝突モデルというのも研究されているようだ。ブレーンの運動エネルギーが衝突の際に(現在の宇宙に存在する)物質のエネルギーへと転化したという一大イベントがビッグバンであると考えるならば、その前のインフレーションは必要ではなくなる(それなしでも天文観測結果に矛盾しないシナリオを作れる可能性がある)とのことである。(それだと9番目次ページ下に書いた妄想話も見直しを迫られることになる。これはエライことになった。が、ここの主題とは直接関係がないので今は措く。)
 さて、私は40年ちょっと生きてきた訳だけだけれども、このところ考えるのは、一見は複雑極まりないように思えるこの世界というのも、実は非常に限られた材料の使い回しでできているちっぽけなものに過ぎないのではないか、ということである。時を経て同じものが何度も登場しているだけのような気がしてならない。要はフラクタル図形と同じく繰り返しパターンである。(そういえば、代表的なフラクタル画像であるマンデルブロ集合も、ゴチャゴチャしているように見えながら、それを描くための方程式はアホみたいに単純である。)だから、そのパターンが読める人間には未来も容易に予測することができるのかもしれない。十分遠くから眺めれば良いのだ。(立花隆「宇宙からの帰還」に出てきた宇宙飛行士の1人が、たしか「この宇宙は局地的にはカオスのように見えても巨視的レベルではパターンが存在し、そのパターンこそが神だ」というようなことを言っていたはずだ。余談ついでだが、カオスも極めてシンプルな数式から生まれる。)とはいえ、それは誰にでも可能という訳ではなく、私のように近視眼的にしか眺められない凡人は今日明日のことで一喜一憂するのが精一杯なのであろう。それだからこそ人生は面白い、ということもいえるのだが・・・・・
 ここで前々段落で触れた「ブレーン・ワールド」に戻る。さっき述べたように一人一人の宇宙というのは極めて貧弱なものだと思う。それが何かの平面上(別に空間でも、あるいは時空でも構わないか?)に乗っており、それは常に流れている。(生死の境目で宇宙が2つに分かれるにせよ、それは滅多にあることではないから、2のn乗としても十分に数えられるだけの有限個の宇宙が乗っているということになる。)数年前から私はこのような考えを持つようになっていた。それが「ブレーン・ワールド」の説明を読んで、妙にハッキリとしたヴィジョンを与えられたように思ったのである。(これは大江の「レイン・トゥリー」や「燃え上がる緑の木」を思いっ切りパクっているような気もする。)ここで「ブレーン」という言葉を拝借すると、各人のブレーンはぶつかることなく自由に交錯することができる。基本的には素通りなのだが、少しは影響を及ぼし合う。ブレーンは今生きている人だけでなく、既に死んだ人、これから生まれる人、あるいは全ての命あるものの数だけ存在するかもしれない。が、ブレーンの浮かぶ高次元(=ブレーンより1つ多い)時空は無限の大きさを持つため、場所は問題とはならない。そして、私たちが「周囲」とか「環境」、あるいは「他者との交わり」などと思っているのも、もしかしたら自分と他者が乗っているブレーン間にはたらく相互作用のことで、ほとんど「幻影」同然なのかもしれない。(うまくいけばプラトンのイデア論と関連づけることが可能かもしれないが、今は止めておく。ちなみに最新の宇宙物理学によると、異なるブレーンに伝わるのは重力波だけということである。)しかし、そのお陰で私たちの人生は完全なマンネリ状態から免れることができているのであろう。
 まだ十分にまとまっていない考えを無理矢理文字にしようとしたため非常に骨が折れた。というより、そもそもヤバい文章を書くのは相当にエネルギーが要ることなのだ。まだ修行が足りぬ。

2006年3月追記
 先日「クラシック名盤&裏名盤ガイド」を読み返していた際、許光俊によるシェエラザードのページにあった「しょせん人間なんて展開・発展するものじゃなくて、繰り返しを生きたあげくに消滅していくだけじゃないのか」という太字コメントが目を引いた。(この曲について「冒頭の重々しいモチーフと、可憐なヴァイオリンのモチーフを弁証法的に組み合わせた、よくできた作品なのだ」と評し、さらに「もちろん、ドイツのシンフォニーのような緻密な展開と止揚などありはしない。一見素朴な繰り返しが多く、しかも、そのクライマックスは止揚ではなく、消滅なのだ」と解説する。そして「が、しょせん・・・・」が続くのである。後には「何と深遠な≪シェエラザード≫の世界! こいつはバリバリの一神教徒にはわかるまいて」とも述べられていた。こういうのを書かせたら彼は本当に上手かった。)上の「フラクタル(単純パターンの反復)人生観」と似ているからである。ふと思ったのだが、最近の許の言動はそのような虚無主義的人生観の反映だろうか?

追記の追記
 某掲示板情報によると、私が「許光俊のページ」に提示した3つの可能性(サ変動詞)の1つを彼はついに選択したそうだ。(業界関係者はみな知っている話らしい。)しかしながら、それが最も常識的でニヒリズムからは最も遠い解決法だったから、私的には大いにガッカリである。どうやら買い被っていたようだ。(←例によって無責任発言)

9番のページ   ワルターのページ