交響曲第8番ハ短調
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団
41/01/26
Music & Arts CD-1106

「主題と変奏 ─ ブルーノ・ワルター回想録 ─」を読んだのはいつのことだっただろうか? 随分前のことなのであらかた忘れてしまったけれども、著者がブルックナーについて語った部分は、彼が師マーラーについて触れた箇所とともによく憶えている。やはり当時から私が最も好きな作曲家だったためであろう。そこで久しぶりに本棚から取り出してみた。今読み返しても感動的な語りであるから、かなり長くなるけれども抜き出してみる(許せ白水社)。

・・・・自分に最も固有の領域においても、さらには私自身の魂のなかでも、新天地を発見するという幸福が与えられた。私はブルックナーを発見したのである。妙な話だが、やっと50歳近くになって大作品を創りはじめたひとりの天才を認識するために、私もまたほぼ同じ年齢になる必要があった。(中略)真価は解らなかったにせよ、私はなん年もまえからブルックナーの作品を知っていた。(中略)彼の主題は大好きだったし、充実した高度の霊感には驚嘆したけれども、それにもかかわらず私は、自分が≪局外≫にいることを感じていた。彼の形式構成は、私には不可解だった。それは均整を欠き、誇張が多く、原始的だと思われた。彼の音楽の感情内容は、その霊的な力と深さによって私の心を奪い、ときにはオーストリア風な優美によって私を喜ばせはしたが、ただ私は彼の踏まえる地盤に住み着くことができず、ブルックナーの作品という記念碑的構築と完全に一体になることは、禁じられているように思われた。それがとつぜん変わったのである ─ おそらくこれには、私が病気のあいだに獲得したより高い成熟と、より深い安静とが寄与していたのであろう。なぜなら、ブルックナーはきわめて純粋な音楽家であり、根元的な音楽の泉から生まれた彼の交響楽法はすべての思想的な連想から遙かに遠いけれども、しかし彼を理解し愛するためには、一定の霊的な基本状態が要求されるからである。(中略)ブルックナーの交響曲のゴチック様式は(中略)いまや私のまえに扉を開いた。旋律的な内容、聳え立つ構築、交響曲の感情の世界、これらのなかに私は、それを創造した人の強大で敬虔で子供のような魂を発見した。そしてこの感動的な認識から、彼の音楽の内容と形式もまた苦もなく解明された。それ以来ブルックナーの作品が私の人生において、どれほどの意義を持つようになったか、彼の音楽の美しさと交響的な迫力に対する私の賛美の念が、どれほど高まりつづけていったか、彼の音楽が私にとって、どれほどたえず溢れる豊かな向上の泉になったかは、とても言いつくせないことである。

ただし、上の文章はなかなか見つけることができなかった。ワルターのブルックナー開眼は晩年に入ってから(ナチス独裁政権から逃れるため新大陸に渡り、ニューヨークを拠点として活躍するようになった1939年以降)のことだと思い込んでいたため、本の最後に近いページを一生懸命捜していたのである。結局は思っていたよりずっと前(380〜381頁)に出ており、1928〜29年頃(指揮者は52歳)の話だと思われるが、これはちょっと意外だった。なぜこんな記憶違いをしたのかは解らない。とはいえ、その最後の方でもブルックナーに触れてあった。

1941年1月にはニューヨーク・フィルハーモニー協会に復帰し、それ以来毎年そこの客演をつづけてきた。最初のプログラムを見るとブルックナーの『第八』がのっているが、心から満足したことに、このきわめて崇高な作品は、何年もまえにウィーン・フィルハーモニーとともにロンドンのクィーンズホールで演奏したとき、そこの聴衆に与えたのと同じような強烈な印象を、ニューヨーク・カーネギー・ホールの聴衆に与えたのである。私はブルックナーの作品が音楽の世界に対して持っている将来の意味を深く信じている。そしてこの確信は新たな経験をつむごとに証明されるのである。マーラーの『大地の歌』を演奏したのも、同じ時期にあたる。私は、そもそも指揮をするかぎり、これまでと同じように、ブルックナーとマーラーを作品を代弁しつづけるであろう ─ 彼らの音楽からそそぎでる高揚の源泉を解明することは、私の生涯の課題のひとつだったのである。

 ということで、ブックレットやケース裏には “Philharmonic-Symphony Orchestra” としか書かれていないが、録音年月日が正しいとするならば、上にあるように聴衆の反応によってワルターが心から満足することができた演奏会のライヴ録音ということになる。(各種通販サイトでもそのように記載されており、やはり9番46年盤と同様にNYPとの演奏と考えてまず間違いないのだろう。)ちなみに当盤は2004年度の「廃盤CD大ディスカウントフェア」第2回(2005年2月)に出品されていた。輸入盤だったので7割引ではなく確か800円だったはずで、当初は「ワルター唯一の8番録音」ということで購入の方針だった。ところが、この第2回が大不作で他に欲しい品が全く見つからなかったため結局買わなかった(1枚のために送料420円を払う気にはなれなかった。)後に楽天スーパーオークションで入手(今のところ当盤が唯一か?)することになったが、出品価格500円のままだったので見送って正解だったということになる。
 この演奏はとにかく独特である。デフォルメが凄い。第1楽章の最初の1分の揺らせ方を聴いただけで、他の誰にも似ていないことが判る。前半2楽章はともに15分台であり、46年の9番では超特急のごとく飛ばしていたのと同じ人とは思えないが、落ち着きは全くなくテンポをいじりまくる。それがスケルツォに入るとそれがさらに激しくなる。スケルツォ主部の提示の間に(最初の1分半)いったい何度ギアチェンジしたことやら。まあ第1楽章で暴れる指揮者は少なくないけれども、ここまで徹した人はいないし、それを次の楽章まで持ち越したのというのは後にも先にも彼だけではないか。(明らかにフルトヴェングラーの49年盤以上だし、ヨッフムとマタチッチが束になっても敵わない。ついでに繰り返し書いておくと、クナは版こそ「変態」だが演奏自体は基本的に真っ当だ。)さらに主部とトリオのテンポ差も史上最大であろう。吉田秀和は「世界の指揮者」の「ヴァルター」の項で「運命」第1楽章の第1主題提示部を例に挙げ、ワルターの指揮では最初のフェルマータよりも後の方が短くなっていることを「これはおかしいのであって」としながらも、「この連続性、あとにつづくものへの流れ具合のなだらかさ」が、「よく歌う(歌わせる)演奏」という根本と強く関係すると述べている。果たしてこれと結びつけてしまっていいものなのか正直自信はないけれども、私はワルターがそういうやり方をそっくりそのまま持ち込んでいるという印象を受ける。アダージョは「歌う指揮者」の本領発揮である。本来なら「邪道」「却下」と言いたいところだが、ここまで突き抜けてしまっていると却ってサバサバする。それどころか妙に魅力的なのである。平板なモノラル録音だけにこういうスタイルの方が聴き応えがあるというのも大きな理由だろう。ここで遅ればせながら音質について述べると、私が持っている最古のブルックナー録音なので仕方ないと言えばそれまでだが、ジリパチノイズが常に聞こえ、それが時に激しくなって耳に触る。何せ音がこれだから堂々とした演奏を求めても仕方がないと思う。終楽章も外連タップリで全く一筋縄にはいかない爆演だ。(この芸風は第二次大戦を挟んでも変わらなかったようで、5年後の9番でも聴かれる。)最後までテンションは落ちない。
 ただし、「ブルックナーの交響曲のゴチック様式はいまや私のまえに扉を開いた」と言ってた人がこんなハチャメチャ演奏してて委員会とは言いたくなる。さすがに最晩年のCBSスタジオ&ステレオ録音は均整が取れており、「聳え立つ構築」が目に浮かぶような演奏となっているが・・・・(私が彼の「ブルックナー開眼」を晩年以降と錯覚してしまったのも無理はないと責任転嫁したくなってきた。)もっとも、改訂版が幅を利かせていた時代には、こういう演奏がやはり一般的だったのだろう。フルヴェン同様、この人にも最晩年にもう一度録音して欲しかったという気持ちは強い。おそらくは枯れていたであろうコロンビア響とのステレオ録音と当盤との聴き比べは、間違いなく興味深いものになっていたはずだから。

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